Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

後悔と反省

2025年02月15日 06時30分00秒 | Weblog
① 藤井「悪手を指したと思ったら、完全に切り替えるというのは、やっぱりなかなか難しいなと感じます。悪手には対局中に気づくものと、対局後に振り返って気づくものの二つがあるんですが、自分の場合、対局中に気づいた時はやっぱり精神的にかなり落ち込みます。でも対局中に以前の局面を考えるというのはマイナスにしかならないので、ぱっと切り替えて、今の局面における最善手を探すようにしています。」(p120)
② 藤井「勝った将棋に関しては、それはもう過去のことなので。それを振り返るというよりは、やはり負けた将棋から反省点を抽出して、次につなげることのほうが大事なのかなと思います。」(p100)

 藤井聡太氏が語る「失敗」(=悪手)への対処法。
 上で引用した2つの文章は、一見すると矛盾しているようにも思えるが、そうではない。
 ①は、「失敗」は「振り返らない」、つまり、「後悔」も「反省」もしないというもので、西郷隆盛の遺訓と同じである(過ちへの対処法)。
 ここで注意すべきは、藤井氏が述べているのは、「同じ一つの対局の中における『失敗』への対処法」である点である。
 要するに、1つの連続した出来事の中で、失敗した場合にどうすべきかという問題なのである。
 ②は、「失敗」を「振り返る」、そしてそこから将来につながる材料を探し出すということであり、「反省」をするというもの。
 但し、「後悔」をするのではない。
 ①と異なるのは、「将来における対局にどう備えるか?」という観点からの対処法である点である。
 なので、人生で言うと、最初の就職や結婚で失敗した人にとっての「転職先ではどうすべきか?」、「再婚相手にどう接していくべきか?」という問題に似ているように思う。
 いずれにせよ、将棋も人生も、「後悔」は全くの無駄であるという点は動かないようだ。
 ・・・むむむ、将棋って、人生にも役立つんだよなあ!
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死んではいけない

2025年02月14日 06時30分00秒 | Weblog
 「ただし、まだこれで十分だというわけではない。なぜなら、文書を開示すると言っても、いろいろなやり方が考えられるからだ。  
 可能性としては、 1)どんな文書があるのかは明らかにするが、その全てがなんらかの理由(例えば、個人のプライバシーを侵害する)により開示できないとして全面的に開示を拒否する 2)どんな文書があるかを明らかにした上で、大多数の文書について、1と同様に不開示とし、ほとんど意味のない文書だけ開示する 3)一定の範囲で文書を開示するが、開示した文書のほとんどが黒塗りにされる 4)かなり多くの文書を開示し、黒塗り部分も必要最小限とするが、最も機微に触れる情報が入った文書(例えば、政治家からの改ざんの指示、財務相の関与の態様などがわかるもの)については、不開示とする 5)真に必要な黒塗りはするが、基本的に全ての文書を公開する  などがある。
 首相の指示があったのだから、1はなさそうだが、2、3は十分にありうる。それとともに怖いのは、石破政権が夏の参院選後まで続くのかどうかを見極めるまで、最終決定を遅らせて、万一石破政権が倒れれば、1の対応で済ませようと財務省が考えることだ。夏まで動かないということになる。財務省ならやりかねない。

 森友文書開示事件は、国の上告断念で解決したかと言えば、必ずしもそうではなく、古賀氏は、石破政権が倒れるのを待っているという見方を示している。
 何を隠したいのかについて、佐藤優氏は、2018年の時点で、① 表紙、② 秘密指定 を指摘していた。

佐藤:国民に対する責任は、自殺することではなくて、真実を語ることによってのみ果たせるわけですから、そこを勘違いしないでほしい。なぜ私が敢えてこういうキツいことを言うのかというと、今この瞬間も、財務省の中には自殺を考えている官僚が何人もいるということが、目に浮かぶんです。・・・
死んではダメ。死んだら悪いヤツが喜ぶだけです。真実を語ること。死ぬ覚悟になれば、すべてを語れる。そうすれば、世論はきちんと支持してくれるから。 ・・・
佐藤:ところで今回、財務省はあの文書の中で、いちばん重要な紙を出していないんです。それは「表紙」です。
邦丸:表紙ですか。
佐藤:表紙には、どの役職の人間まで決裁をしたかという記録が残っている。・・・
佐藤:それともう一つ、財務省が隠しているのは、この文書の秘密指定が何だったかということなんです。通常この種の文書というのは、「取扱注意」──これは秘密文書ではないんですけれど、外に見せてはいけませんよということ、その次は「秘」──普通の秘密、それから「極秘」と、だいたいこの3段階に分かれるんです。「極秘」の場合は、ひとつひとつの文書が誰のところに行っているかの記録が全部あるんです。ですから、この文書が極秘文書だった場合は、本当は誰に回っているか全部わかるので、その原簿があるはずなんです。「秘」の文書でも、配布先に関する資料はあるはずです。そこを隠していますよね。
邦丸:ふむ。
佐藤:それが出てくると、原本の段階で誰が知っていたのか全部わかるんですよ。・・・

 開示する場合、その過程でいろいろと現場でやり取りがあると思うが、死ぬことだけはしないでほしいというのが、佐藤氏の思いなのだった。
 
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2種類の最高峰

2025年02月13日 06時30分00秒 | Weblog
ベートーヴェン: 
ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 Op.109 
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 Op.110 
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 Op.111

 ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ3曲を一夜で演奏するというリサイタル。
 31番と32番を続けて聴いたことはあるが(承継すること、しないこと)、3曲となるとさすがに私も初めてである。
 それぞれ曲想がまるっきり違うし、素人目で見ても31と32は持続的なパワーを要するようなので、終演後の桑原さんは、
 「予想していたより30倍もエネルギーを使ってしまいました
とおっしゃっていた。
 桑原さんが指摘する通り、この3曲はピアニストにとっての「最高峰」ということなのだろう。
 もっとも、単体でいくと、私見では29番の「ハンマー・クラヴィーア」が
最高峰だと思うので、30~32は「連峰」という扱いにしたい。  


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克服されないエディプス・コンプレックス

2025年02月12日 06時30分00秒 | Weblog
 「第1幕
 クリスマスの夜、男の子がひとり、ちっぽけなモミの木のそばにすわっている。その枝には、去年のクリスマスからずっと残されたままの飾りが、寂しげに揺れている。男の子ビム の母親 は亡くなったのだ。ビムは、父にもらったくるみでひとり寂しく遊んでいる。部屋には父(M...)と飼い猫のフェリックス*がいる。と、夢なのか魔法なのか、男の子のそばに白いスーツに身を包んだ母親が現れて、モミの木の下に小さなプレゼントを置こうとする。

 ベジャール版「くるみ割り人形」を見るのは初めて。
 原作のテーマは「少女の通過儀礼」であるが(通過儀礼の先送り)、ベジャールはこれを見事に「少年のエディプス・コンピレックス」へと転換した。
 主人公:ビム(ベジャールの子どもの頃のあだ名。)は少年時代のベジャールである。
 ビムはお母さんが大好きな男の子だった。

 「思い出すなあ。子供の頃、いつもこう言ってた。「大きくなったらボクはママと結婚するんだ!」
 7歳のとき、母は長い旅に出た。しばらくして、ボクはバレエと結婚した。」(作中のナレーション)

 何ともストレートなエディプス・コンプレックスである。
 ところが、彼の母は7歳の時に亡くなったため、クリスマスの夜、彼は独りぼっちで寂しい。
 そんな彼に、父はプレゼントをする。
 ここで、父がビムに「くるみ」をプレゼントすることの意味を押さえる必要がある。

 「思い出すなあ!クリスマス・・・マルセイユ、ツリー、クレッシュ、プレゼント。それに、13個のデザート・・・その中でいちばん好きだったのは、くるみ!特にくるみを割るのが大好きだった。
 父は、小さな脳みそみたいな、くるみの中身を見せてくれた。」(同上)

 原作者・E.T.Aホフマンの意図は、どうやら「くるみ」=「睾丸」らしいので、このくだりは、ビムが父を同一視の対象としていること及び父がビムに通過儀礼を施そうとしていることを暗示していそうだ。
 もっとも、その後ビムはエディプス・コンプレックスによって父を敵視するようにはならず、前述のように、対象を「母」から「バレエ」に置き換えて成長する。
 それと同時に、同一視の対象を、父から「M...」すなわちマリウス・プティパ、あるいは”ボクのヒーロー”:ファウストへと転換するようになる。
 
 「猫のフェリックスが呪文を唱えると赤いカーテンから、かわいらしい緑のマントをつけた女の子が現れる。ビムの妹である。小さい頃ふたりはよくこんな扮装をして、ビムの大好きな「ファウスト」のお芝居 をして遊んだのだ。懐かしい家族団欒の雰囲気に誘われたのか、ふたたび母が、今度はマリンルックで現れる。待ちかねていたかのように母の元に、ビム、妹、フェリックスが集まってきて、M...(ここでは父)は母の手の甲にキスをする。
母や妹が去ってしまい、夢は次の場面へ。M...が杖でリズムをとると、それに合わせて規律正しく行進してきたのは、ボーイスカウトの少年たち。ビムも嬉々として一緒に踊る。やがて疲れ果ててみんなが寝袋に入って眠りについてしまうと、森の奥からまばゆく光り輝く天使 がふたり、そうっと現れる。やがてふたりの妖精も加わって、少年たちを見守るように、暖かく包み込むように舞い踊る。朝がきてビムと少年たちは目覚め、ふたたび元気に動き出す。すると、彼らの目の前に現れたのは…
大きくそびえる聖母像 だった。ビムは像に母の面影を見出し、一生懸命によじ登ろうとするが、なかなかうまく登れない。ついには足を滑らし、落ちてしまう。M...はそんなビムを突き飛ばし、荒荒しく猛るように踊り出す。」(あらすじ)

 このあたりは、母(=聖母)と父の代理(=M...)の間を揺れ動く少年の心理を象徴的に表現していて面白い。
 結論を言ってしまうと、ビムの母親が死によって聖化されたため、彼において「エディプス・コンプレックスの克服」は必ずしも実生活上の課題とはならなかったようだ。
 その一方で、父との対立状況も深刻なものとはならず、比較的スムーズにマリウス・プティパの同一視へと移行できたのだろう。
 案の定、第2幕のコリオの大半は、マリウス・プティパのものをそのまま採用しているのである。
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言葉を超える音楽の力

2025年02月11日 06時30分00秒 | Weblog
Blue Bossa Station/紀平凱成 Down Forest/紀平凱成 桜の瞬き/紀平凱成 愛の夢/リスト=紀平凱成 ディズニーの名曲メドレー 8つの演奏会用エチュード、24の前奏曲より/カプースチン 変奏曲 作品41/カプースチン 他
<アンコール曲>
・シューマン「献呈」
・クイーン・メドレー

 普通の人はおそらく絶対に読めない「凱成(かいる)」という名前を持つピアニストのツアー。
 曲目からも分かる通り、クラシック/ジャズ/ポップスの垣根を超えた音楽性が特色のようである。
 実は、紀平氏は、幼い時から障がいを抱えているそうである。

 「幼いとき、自閉症の症状により発語が遅く、言葉を話すよりもピアノを弾き始めたほうが早かった。・・・
 「話すことができないなかでの自分を表現できるものとの出合いでした。人の表情に対してとても敏感だから、みんなの喜んだ顔がうれしかったのだと思います。それから小学1年生で言葉が出るようになって、『将来は何になりたいの?』と聞かれて『ピアノを弾く人になりたい』と答えていました。私たちもそのときに凱成の思いを初めて知りました。」(母・由紀子さん)(p7)

 彼は、言語に関する障がい(自閉スペクトラム症?)を抱えていたということのようだ。
 だが、"言葉を超えるもの"として「音楽」があった。
 これに対し、同じピアニストの辻井伸行さんは、"映像を超えるもの"としての「音楽」を表現していると見ることが出来るだろう(カタバシスからアナバシスへ、あるいは「貴方なら弾けますよ」)。 
 以上に対して、"言葉を超えるもの"としての「身体表現(ダンス)」を追求しているコリオグラファーが、言うまでもないがクリスタル・パイトである(言葉を超える(1))。
 何が言いたいかというと、いずれも人間の「感覚(知覚)」の限界を踏まえて、その超越(克服)を目ざしている点が共通しているのである。
  ちなみに、紀平氏のインタビュー記事を読むと、多くの場合、音が映像(自然の情景)と結びついて立ち現れてくるらしい。
 例えて言えば、言葉を超える画像を追求したフランシス・ベーコンを、明るい雰囲気の音楽家にしたようなものだろうか?(ちょっと違うか?)
 ・・・感想について言えば、「野生の音楽」というか、音楽が紀平氏の身体から自然にあふれ出て来るという印象である。
 私の好みで言うと、「変奏曲」(カスープチン)と「献呈」は圧巻で、これまで聴いた中ではベストのパフォーマンスだと感じた。
 
 
 
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食わず嫌いとアレルギーの違い

2025年02月10日 06時30分00秒 | Weblog
指揮=ローター・ツァグロゼク
ブルックナー:交響曲第5番 変ロ長調 WAB 105

 演奏時間約81分という長い曲で、見た感じでは、最前列を含めて結構な数のお客さんが途中で眠りに落ちていたようだ。
 ネットなどでみると、ブルックナーについては、クラシック愛好家の中でも好き嫌いが分かれるようで、私はおおむね”苦手”である(ベルリンからバイエルンへ)。
 もっとも、曲ごとに好き嫌いは別れており、好きな曲もある。
 これまでは、
・4番 → ◎
・7番 → ✕
・9番 → 〇
だった。
 だが、今回は、
・5番 → ✕
という印象である。
 だいたい長すぎるし、楽章によっては、”ノイジー”という印象だけで、メロディーが殆ど記憶に残らないことすらある。
 なので、終演後のブラボーの嵐を見ると、自分だけ別の惑星に来たのではないかという、なんとも言えない疎外感を感じたのである。
 これが「食わず嫌い」に過ぎず、もっと聴けば好きになっていくのか、あるいは「アレルギー」であって、聴くたびに拒絶反応が強くなっていくのかは、何とも言えない。
 ちなみに、「音楽の好みは一般的に13〜16歳の間に決まる」、「30代になると音楽への好奇心が薄れてしまう 」らしいので(音楽的嗜好、10代には確立 30歳から関心薄れ)、これからブルックナーの5番が好きになるというのは難しいのかもしれない。
 私ですらこういうありさまなので、短い音楽ばかり聴いている最近の若い人たちが、大人になってからブルックナーにハマる事態は想像しにくい。
 ・・・それにしても、ブルックナーに熱狂する人たちは、14歳くらいの時に聴いていたのだろうか?
 たっぷりと時間のある人でないと聴けないと思うので、おそらく、受験戦争などとは縁の無い人たちだったのではないだろうか。

 
 
 
 
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ダブルビル

2025年02月09日 06時31分00秒 | Weblog
 「レパートリーの拡充を目指して制作した"フィレンツェ・ダブルビル"を再演。ともに20世紀初頭を代表する作曲家ツェムリンスキーとプッチーニの秀作を、奥深い芸術の町フィレンツェをキーワードにカップリングしたダブルビルです。
『フィレンツェの悲劇』は、耽美的で豊麗な音楽で知られるツェムリンスキーの代表作。デカダンス文学の旗手オスカー・ワイルドの戯曲を原作に、夫婦と妻の愛人の3人が繰り広げる奇妙な悲劇を描きます。ツェムリンスキーはマーラーに見出されて世紀転換期のウィーンで活躍した作曲家で、豊潤な前奏曲や終盤の官能的な二重唱では、後期ロマン派ならではの色彩豊かで壮麗な音楽が堪能できます。一方の『ジャンニ・スキッキ』は富豪の遺産相続をめぐる強欲な人間たちの騒動と若いカップルの恋をテンポよく描いたプッチーニ晩年の1幕物。『三部作』を締めくくるとびきりの喜劇です。ラウレッタのアリア「私のお父さん」は、ソプラノの名曲としてコンサートで歌われることも多く、テレビCMなどでもお馴染みの人気曲です。

 ちょっと珍しい”フィレンツェ・ダブルビル”。
 いずれもストーリーはいたってシンプルだが、悲劇と喜劇であるし、演出方針も真逆である。
 「フィレンツェの悲劇」は、オスカー・ワイルドの原作で、余り日本では知られていない作曲家・アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーの代表作らしいが、テーストは明らかにワーグナーとR.シュトラウス路線である。
 主人公・シモーネが出張から帰宅すると、家には見知らぬ男・グイード・バルディがいて妻・ビアンカとねんごろな様子だったので、シモーネはグイード・バルディに決闘を申し込み、最後は素手で首を絞めて殺すというもの。
 上演時間は約1時間だが、演出の粟國淳さんによれば、

 「浮気に気づいてさっさと殺せば10分で終わる話ですが(笑)」(公演パンフレットp10)

 多くの場合ダブル・ミーニングのセリフの応酬で結末を遷延させる手法がとられている。
 そのセリフだが、登場人物3人のうちセリフの半分くらいをシモーネが占めるので、バリトンが決定的に重要である。
 今回のシモーネ役は、2021年『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でハンス・ザックスを熱演したトーマス・ヨハネス・マイヤー
 期待通りの素晴らしい声と演技で大満足である。
 というか、この人が出るとどうしても観たくなるのである。
 ラストの、

ビアンカ「なぜ言ってくれなかったの。あなたがこんなに強いということを。
シモーネ「なぜ言ってくれなかったんだ。お前がこんなに美しいということを。

と言うやり取りと、この後二人が死体の横で熱い口づけを交わすシーンを見ていると、やはりワイルドの「サロメ」のラスト・シーンを思い出さずにはいられない。
 二本目の「ジャンニ・スキッキ」は、ラウレッタが歌うアリア「私のお父さん」で有名な作品。
 だが、私はこれが初見で、奇抜な演出に面食らった。
 というのも、ストーリーがシンプル過ぎて、普通の演出だと地味な印象だけ残りそうだからである。
 とはいえ、結局は「私のお父さん」を絶唱したラウレッタ役の砂田愛梨さんの強烈な印象が残った一夜であった。
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生放送

2025年02月08日 06時30分00秒 | Weblog
NHKバレエの饗宴2025は、約3時間の上演時間を予定しております。
上演演目順は以下の通りです。
第1部(約40分)
牧阿佐美バレヱ団
『白鳥の湖』第2幕
―休憩20分―
第2部(約60分)
前田紗江&中尾太亮
『ラ・シルフィード』第2幕からパ・ド・ドゥ
佐久間奈緒
Five Brahms Waltzes in the manner of Isadora Duncan
中村祥子&厚地康雄
『椿姫』から3つのパ・ド・ドゥ
高田茜&平野亮一
『ロメオとジュリエット』からバルコニーのパ・ド・ドゥ
―休憩25分―
第3部(約35分)
スターダンサーズ・バレエ団
コンサート

 かつては毎年4月の第一週の週末に1回開催されていて、頻繁に「東京春音楽祭・ワーグナーシリーズ」とのバッティングが生じていた「NHKバレエの饗宴」(スケジュール調整)。
 だが、2022年から4月には開催されなくなったようで(背の高さは七難隠す)、2023年は開催されず、今年は2月に、初の2日間開催となった。
 しかも、二日目は8Kで生放送という、おそらく初の試みがなされた。
 フィギュアスケートもそうだが、バレエの生放送というのは観ている方も怖い。
 目も当てられないような失敗(ジャンプの着地でコケる、リフトからの転落など)があると胸が苦しくなるからである。
 さて、演目について言うと、「白鳥の湖」は、ニュー・フェイス(奏悠里愛さんと小池京介さん)の登場に加えマイムを多用するコリオで意外にも新鮮な印象。
 ロイヤルバレエ団の若手二人(前田紗江さんと中尾太亮さん)はブルノンヴィルの難しいコリオを見事にこなしたのと、初めて聴く音楽が素晴らしい。
 佐久間奈緒さんはイザドラ・ダンカンを”演じ”ており、中村祥子さんと厚地康雄さん(佐久間さんのご主人)はダンスの中で「疑似心中」を”演じ”ていた。
 ロイヤルバレエ団のプリンシパルコンビ(高田茜さんと平野亮一さん)は、定番の「バルコニーのパ・ド・ドゥ」を流れるように軽々と踊り、危うさを感じさせない。
 ラストの「コンサート」は、予測の出来ない動きが次々と繰り出され、観ていて頭の体操になる。
 ・・・という感じで、あっという間に3時間が過ぎていった。
 これだと生放送もバッチリだろう(契約していないので録画していないけれど)。
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とちり席?いろは席?

2025年02月07日 06時30分00秒 | Weblog
P.I.チャイコフスキー:四季 Op.37a
F.ショパン:12の練習曲 Op.10 F.ショパン:12の練習曲 Op.25
<アンコール曲>

 私はこのピアニストは初見なのだが、フライヤーの、 

 ”アシュケナージが認めた逸材”
 ”前回の武蔵野公演は3,500円(友の会),今回は1,300円(友の会)!!
  掟破りの”友食い状態”だ!!
 アウトレットで朝4時から並んで買いたくなるような激安料金”

というくだりでどうしても買いたくなった。
 ここの主催者は、こうした言葉のパワーで、(お金を余りかけずに)完売を連発しているのである。
 最前列中央やや右寄りの席をゲットしたのだが、私は、この位置を、長年の経験から「ピアノの音が最も強烈に降り注いでくる位置」だと認定している。
 これに対し、オーケストラやオペラのコンサートの場合、通常、最前列は「最も良い席」とは限らない。
 もちろん、「最も良い」という定義の問題はあるが、主催者側が先行予約の際に勧めて来るのは、前から5~10列目のことが多いように思う。
 某オーケストラの事務局の方にきいても同様の見解だったし、二期会の最速チケットを購入した際も、「あんまり前だとよくないので、5列目くらいにしますね」と言われたことがある。
 つまり、おおむね「とちり席」が良い席と考えられているようなのだ。
 ところが、ピアノのコンサートについては、やはり最前列がおそらく「最も良い席」だと思う。
 これは、グランドピアノの音が、上と下に向かう(音がおちる、音がのぼる)からだと考える。
 下に向かう音は、ステージの斜め下に落ちていくのである。
 なので、小ホールで最前列で聴くのと、大ホールの最後列で聴くのとでは、それこそ天と地ほどの差が出てしまう。
 イリヤ・ラシュコフスキーは、力強く躍動感のあるタッチが魅力のようで、席が前の方ほど迫力が感じられるパターンであった。
 なので、曲によっては(例えば、四季「舟歌」、エチュード25の10番や12番などは)、聴いていて逃げたくなるような恐怖を感じるくらいだった。
 ”アウトレットで朝4時から並んで”買ってもよいくらいなのである。
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回復途上

2025年02月06日 06時30分00秒 | Weblog
モーツァルト
 アダージョ ロ短調 K.540
 幻想曲 ハ短調 K.475
 幻想曲 ニ短調 K.397
 ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ショパン
 ノクターン 変ホ長調 op.55-2
3つのマズルカ op.59
 ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.35「葬送」
<アンコール曲>
シベリウス:悲しきワルツ

 読響とのコンチェルトで素晴らしいパフォーマンスを示したポゴレリッチのソロ・コンサート。
 近年の注目は選曲であるが、昨年(ホールとサロン(3))と同様、やはり「死」、「悲しみ」をテーマとした曲が多い。
 妻を失った哀しみは完全には癒えていないのかもしれない。
 (一連のキャリアの空白期間について)
 「機械でも車でも何年もフルに使えばメンテナンスが必要になる」「それが短くて済む人もいれば、自分のように長くかかる人もいる」(公演プログラムより)
と語るとおり、この人の場合、哀しみからの回復にはそれなりに長い時間がかかるのかもしれない。
 アンコールの「悲しきワルツ」は情感のこもった名演奏で、今年も最後はスタンディング・オベーションが沸き起こった。
 
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