「ヴィントシャイトさんは、1856年に、「訴権」に代わるものとして、「請求権」という実体上の概念を発明しました。」(p25)
「民法は、みなさんが思っているのとは異なり、裁判官を名宛人として、裁判官が裁判をするときの規準を示したもの(=裁判規範)なのです。民法の中には、裁判でなければ行使できない権利もあります(民法424条)。」(p66)
爆売れ中のこの本は、「コラム」の部分もなかなか奥が深い。
引用した記述によれば、岡口判事は、請求権について、「訴権に近づけて考える考え方」(奥田昌道「
ドイツ民法学における請求権理論について」p94「請求権の訴権ないし訴訟的把握」)を採用しているように思える(ちなみに、民法424条の詐害行為取消権の起源は、パウリアーナ訴権(actio Pauliana)である。)。
だが、この「訴権」について、民法や民事訴訟法の教科書で、十分納得のゆく定義を示しているものは驚くほど少ない(と思う)。
例えば、我妻榮「民法講義」や原田慶吉「ローマ法」などを見ると、いきなり「訴権(actio)」という言葉が出て来る感じであり、比較的詳しい新堂幸司「新民事訴訟法」でも、「個人が訴えを提起して裁判を受けられる関係」、結論として「訴えの利益や当事者適格を要件として成立する本案判決を求める権利」とされていて、何だかモヤモヤ感が残る。
「訴権」というのは、定義しがたい概念なのだろうか?
おそらく、そうなのだろう。
「民事訴訟,したがって法,は,占有原則が懸からなければ出動しない。出動するときには政治システムを背景に創造的に働く。法律家ならが「形成的に」と言うかもしれない。これらのことから,訴権 actio という形式が生まれる。発動の可能性が具体的に開かれたとき,発動推進の行為を指すが,その可能性を前にして,具体的な個人が保持していると概念される。占有の問題は必ず個人に関わるからである。」(p117)
木庭先生によれば、占有原則(この意味については
譲渡担保を巡るエトセトラ(8)をご参照)が懸かる状況においては、民事訴訟・法が発動する可能性が開かれることとなるが、その発動推進の行為をもって「訴権」と呼ぶということのようである。
ところが、ヴィントシャイトによって代表される19世紀ドイツ法学による訴権の「克服」によって、占有原則の観点が希薄化してしまったらしい。
こうした「請求権思考」は、場合によっては危ない話になる。
どういうことかというと、占有原則の観点が欠落してしまうと、極端な例(端的な実力行使のケース)では、ロシアがウクライナの領土に侵攻したときに、「権原」(「原因」)に基づく言い分(NATO拡大に対する「自衛権」の行使など:
これに対し、「訴権思考」だと、実力行使に対しては、占有判断の時点で「権原」(「原因」)に基づく言い分(マイケル・マクフォール氏いわく「ロシアの disinformation」)は斥けられ、本案審理に入る必要はないことになるだろう(この点で、訴権と「訴えの利益」や「当事者適格」との関係を挙げた新堂先生はさすがに鋭い。)。
こういう風に考えてくると、「請求権思考」というのは、ドイツかぶれの一種なのかもしれないという気がしてくる。
そう言えば、ドイツ国歌では"Recht" (正義、権利)が ”Freiheit”(自由、要するに占有)の前に出てくるが、これも「請求権思考」の一つのあらわれなのだろうか?