Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

人形と王子とドロッセルマイアー、あるいは役割分担の問題

2024年12月31日 06時30分00秒 | Weblog
 「クリスマス・イヴの夜。少女バーバラの家では、クリスマスパーティーが開かれています。子供達はドロッセルマイヤーからプレゼントをもらい、大はしゃぎ。バーバラはその中のくるみ割り人形を気に入ります。パーティーが終わり、真夜中に突然ねずみの王様と人形たちの戦争が始まります。くるみ割り人形が攻撃されるなか、バーバラの勇敢な行動により、ねずみの王様は退散します。すると、くるみ割り人形はたちまち王子様の姿に大変身。二人はお菓子の王国で夢のような時間を過ごします。
 今回上演するのは、ジョージアの首都トビリシを舞台にしたジョージア国立バレエのオリジナル版。衣裳や舞台装置など随所に感じられるジョージアの趣と、ロマンティックで色鮮やかなファンタジーの世界を、是非劇場でご体感ください。

 毎年出来るだけ違うバレエ団で観るようにしている「くるみ割り人形」だが、今年は12年ぶりに来日するジョージア国立バレエ(振付/演出:A.ファジェーチェフ、N.アナニアシヴィリ)を鑑賞。
 解説にもあるように、舞台がジョージアの首都トビリシに設定されており、衣装や舞台装置などがジョージア風にアレンジされているのが新鮮である。
 ストーリーの点で大きな特色と言うべきところは、くるみ割り人形と王子を別のダンサーが演じるところ。
 解説には「くるみ割り人形はたちまち王子様の姿に大変身」とあるが、これはやや誤解を招く。
 1幕と2幕1場までは確かに「くるみ割り人形」=「王子」(衣装は赤・黄・青で同一)なのだが、「お菓子の王国」にたどり着くと、「王子」は別のダンサーで、白の衣装に変わっている。
 これは、普通に考えると「くるみ割り人形」と(「お菓子の王国」以降の)「王子」は別人という設定と見るしかない。
 どう解釈すべきか?
 私見では、「通過儀礼の主催者」というドロッセルマイアーの役割(本当は怖いドロッセルマイアー)を、「くるみ割り人形」が取り込んだと考える。
 このヒントは、「ダフニスとクロエ」にある。
 「ダフニスとクロエ」では、ドロッセルマイアーに相当する年増女:リュカイニオンが登場し、ダフニスに”愛の手ほどき”を行う。
 その後、ダフニスは、クロエに対し、リュカイニオンが教えてくれたことを初めてこころみるというストーリーなのである。
 ということは、「くるみ割り人形」と(お菓子の王国の)「王子」との間には、リュカイニオンとクロエに相当する、役割の違いがあるということになるだろう。
 ・・・あれ、こうなると、ドロッセルマイアーは「名付け親」くらいの役割しかなくなるのだが・・・。
 いや、実際のバレエでは、最初から最後まで、狂言廻しとして大活躍していた!
 
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12月のポトラッチ・カウント(10)

2024年12月30日 06時30分00秒 | Weblog
 さて、12月のポトラッチ・ポイントを集計すると、
・「金壺親父恋達引」・・・・・・1.0
・「一谷嫩軍記」より、熊谷桜の段と熊谷陣屋の段・・・・・・5.0
・「壇浦兜軍記」より、阿古屋の琴責の段・・・・・・1.0
・「曾根崎心中」・・・・・・10.0
・「あらしのよるに」・・・・・・2.5
・「加賀鳶」・本郷木戸前勢揃いより赤門捕物まで・・・・・・5.0
・「天守物語」・・・・・・5.0
で、合計は29.5ポイントとなる。
 意外に少ないのは、時代物が2演目(「一谷嫩軍記」と「壇浦兜軍記」)だけであり、後者は音楽メインだったという事情が大きい。
 やはり、ポトラッチは武士の切り札なのである。 
 例えば、これまで突出してポイントが大きかったのはバレエ「ザ・カブキ」(210ポイント:10月のポトラッチ・カウント(1))だが、原典は「仮名手本忠臣蔵」である。
 要するに、
・純正ポトラッチ型「命という贈与(つまり、自殺や子殺し)によって、敵対者に対し恒久的なマウントをとる」(ポトラッチとしての自殺
あるいは、
・疑似ポトラッチ型「命という反対給付(つまり、自殺や子殺し)によって、贈与者に対し償いを行う
という思考・行動こそが、武士の論理の中核を成していたのである。
 ・・・こんな風に、今年の2月からポトラッチをカウントしてきたのだが、12カ月すると切りが良いので、来年1月まで行うことにしたい。
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12月のポトラッチ・カウント(9)

2024年12月29日 06時30分00秒 | Weblog
<あらすじ>つづき
 「静まりかえった天守。薄明かりの中に富姫が一人佇んでいると、一人の武士、姫川図書之助が階段を上り、五重へとやってくる。何故来たのかと問いかける富姫に、天守の五重は、百年来、人間の来た例はないが、鷹を失った罪で切腹を申しつけられたところを、鷹の行方を見届けることを条件に猶予を与えられたと語る。富姫は図書之助の清々しさに心を打たれ、ここは人間が一度足を踏み入れたなら、生かしては帰さない場所であるが、この度だけはと許して帰す。 
 戻る途中で妖かしに雪洞の灯を消された図書之助が、再び五重に姿をあらわす。約束を破ったことを富姫に咎められると、闇の中で梯子を踏み外し男の面目を失うよりは、富姫に命を取られようとも、再び灯をもらいに来たと答える。富姫はその詞に感銘を受け、深く心をひかれる。そして鷹は自分が奪ったものだと明かし、筋道の通らない人間世界に帰したくないと引き留める。図書之助は迷いはあるものの、世の中への未練が断ちきれない様子。富姫は断ち切りがたい思いを抱えながらも、ここへ来た証拠にと秘蔵の兜を持たせて帰す。

 異形の世界に侵入してきた図書之助は、鷹を失った科で主君から切腹を言い渡されている。
 これに富姫は、
 「私は武士の切腹は嫌いだから・・・。主と家臣というだけで、命を差し出すなんて間違い。鷹の命と人の命のどっちが大切だというのか」(記憶に基づく再現なので、不正確かもしれない)
と嫌悪感を露わにする。
 異形たちは、武士の論理・倫理を否定しているのである。
 その一方で、光を失った二人は、
図書之助「私の命をあげましょう
富姫「私もあなたの手に掛かって死にたい。あなたの顔が一目見たい
とポトラッチ合戦を行う。
 日本の伝統とも言うべき「死によって成就される愛」 (25年前(4))の本歌取りのようである。
 但し、この後桃六によって光を取り戻し、異形の世界で二人の恋は成就するので、ハッピー・エンドということになる。
 こうやって見てくると、富姫は、「曾根崎心中」のお初と似た役目を担っていたように感じる。
 つまり、「汚れた現世から相手を救済する観音様」である。
 ・・・というわけで、二人のポトラッチは未遂に終わったため、ポトラッチ・ポイントは、5.0×2人×1/2(未遂)=5.0。
 
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12月のポトラッチ・カウント(8)

2024年12月28日 06時30分00秒 | Weblog
 十二月大歌舞伎・第三部は、「舞鶴雪月花」と「天守物語」。
 前者はなかなか見どころがあって面白かったが、所作事なので分析対象外。
 後者は、やはり玉三郎が出演するとあって、満席の盛況である。

<あらすじ>
 ここは姫路城天守閣五重。天守閣の最上階は異形の者たちが棲むと言われ、人の通わぬ別世界となっている。中央には見事な獅子頭が据えてある。晩秋の日没近く、主である天守夫人富姫が簑を付けて雲に乗って帰ってくる。今日は可愛い妹分の亀姫が空の旅路をはるばるとやってくるのに、姫路城主播磨守の鷹狩の一行が弓矢鉄砲を使って騒がしいから、夜叉ヶ池(福井県)のお雪様に雨風を頼み、鷹狩の行列を追い散らしたのだという。
 ほどなく猪苗代(福島県)から亀姫一行が到着。富姫と亀姫は仲睦まじく寄り添い語り合う。亀姫が土産に持ってきた品は、播磨守と瓜二つの兄弟亀ヶ城の主・武田衛門之介の生首だった。生首を喜ぶ富姫だが、自分の用意していた土産、播磨守の家宝の兜では見劣りがすると言い、見せるだけにとどめる。二人が手鞠に興じた後、ふと鷹狩の一行に目をとめた亀姫が播磨守の白鷹を気に入るので、富姫は鷹を捕らえ土産に持たせる。 
 
 前半は、いかにも鏡花らしく、異形の世界で目を楽しませてくれる。
 設定で注目すべきは、武家の世界の上方に、富姫を筆頭とする異形たちの住む世界が位置していることである。
 つまり、異形たちの力は、武家の権威を凌いでいる。
 なので、富姫たちは、鷹狩の行列を追い散らす、武田衛門之介の生首・播磨の守の家宝の兜をプレゼントの対象にする、播磨守の白鷹を捕らえるなど、播磨守らをコケにするかのような行動に終始するわけである。
 当然のことながら、富姫たちには、武家の論理も通用しない。
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12月のポトラッチ・カウント(7)

2024年12月27日 06時30分00秒 | Weblog
【1】 「先日湯島天神の境内で、定火消(じょうびけし)と大名火消「加賀鳶」との間で大きな喧嘩があった。それから数日後の今日、決着をつけようと加賀鳶の面々が今にも敵方へ飛びかかろうと勢揃いし、名乗りを上げている。そこへ止めに入ったのは加賀鳶の頭・梅吉(うめきち)。もしこの先を進むのなら、自分を殺してから行けと座り込む。さらに兄貴分の松蔵(まつぞう)も加勢するので、加賀鳶の若い者たちは引き上げていく。
 所変わってここは日の暮れたお茶の水。百姓の太次右衛門(たじえもん)は所用で江戸にやってきたのだが、急に腰が痛み出し土手際に座り込んでいた。そこへ運良く按摩(あんま)が通ったので、地獄で仏と腰をさすってもらうことにする。しかし親切そうに見えたこの按摩の正体は道玄(どうげん)というかなりのワル。太次右衛門が大金を持っていると知ると、殺した上で金を奪う事に成功し、喜んで帰っていく。偶然通りかかった加賀鳶の松蔵が、道玄の落とした煙草入れを拾うのも知らずに・・・。

 第二部の前半は「加賀鳶」・本郷木戸前勢揃いより赤門捕物まで。
 引用した序幕でポトラッチ(らしきもの)が2つ炸裂する。
 梅吉と松蔵による
 「そんなら俺を、殺して行け
である。
 このポイントは、5.0✕2人✕1/2(未遂)=5.0(★★★★★)となる。
 だが、この演目のメインは、道玄による悪事とその露見のようである。
 とはいえ、序幕とのつながりが「煙草入れ」という、なんとも木に竹を接いだような話ではある。
 
【3】 「道玄とお兼は、お朝の親戚だといい伊勢屋を訪ね、主人を呼び出す。はじめはしおらしく振る舞うが、「桂川」のお半・長兵衛を引き合いに出し、年の離れた主人が、年端もいかない姪っ子を傷物にしたのだから百両を出せと脅す。主人は全く覚えがないので、証拠があるのかというと、お兼が例の手紙を出す。そこにはお朝の手で「伊勢屋の旦那と関係を持ったことを後悔し、世間に顔向けができないので家出をする」と書かれているというのだ。主人は「誰が書いたかわからないではないか」と金を出さないので、道玄たちは店先で寝転び出し、営業妨害をする。番頭が仲立ちとなり、五十両の金で話がまとまりかけるが、そこへ登場したのが松蔵。証拠とやらの手紙と、お朝の手習いの清書とを照らし合わせ、明らかに筆跡が違っていることを指摘する。さらに煙草入れを見せられ、太次右衛門殺しの件をほのめかされ形勢は逆転。手も足も出ない道玄とお兼はとうとう引き下がるのだった。

 道玄は、"ゆすり"と”ゆすられ”の関係や、女性の人身売買・DVなどが満載の「絶望の社会」を象徴する人物だったのである。
 
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12月のポトラッチ・カウント(6)

2024年12月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「新作歌舞伎として平成27(2015)年に南座で初演された本作について、がぶを演じ続けてきた獅童は、「5度目の再演となります。今回は新たな配役として、私は狼の長である、がぶの父親役も勤めることになりました。また、私の倅の陽喜と夏幹も出演します」と、意気込みは十分。初めてめい役に挑むことになった菊之助は、「芯が強いながらも愛くるしく演じていきたい」と、笑顔で話します。

 今月の歌舞伎座は珍しく三部制で、第一部が「あらしのよるに」。
 原作の絵本が出版されて三十周年ということもあり、歌舞伎座で上演されることとなった。
 テーマは、人間(生き物)の本質とは何かというもので、結構哲学的である。

 きむらゆういち氏「恐らく全ての人は、大人か子供か?男か女か?どの国の人間か?階級はどこか?人種や民族は?富めるものか貧しいものか?偉い人かそうでないか?など、いつの間にかそのどれかに属している。もちろん誰でも枠は一つではない。
 さて、もしもどこかで人と人が出会ったら、人はそれを瞬時に判断して、喋り方や態度や対応の仕方をきめている。人間関係にはそういった情報が大切だからである。
 しかし、もし二人が出会った時、真っ暗闇で全ての外的情報がなかったとしたら、本人同士、素の姿で語り合ったとしたら、たとえ相手がどんな相手でも、たとえ相手が天敵だったとしても、二人は心が通じ合えるのだろうか?」(筋書p4~5)

 ここでのキーワードは「外的情報」である。
 哲学者であれば、「属性」などというのかもしれない。
 「オオカミ」と「ヤギ」という種、「がぶ」と「めい」という名は、いずれも「外的情報」であり、その人(動物)の本質をあらわしたものではない。
 それでは、「本質」とは何だろうか?
 おそらく、殆どの人はそんなことなど知らないし、そんなことなど考えることもなく、「外的情報」だけで生きている。
 対して、「あらしのよる」は、「外的情報」の一切ない世界を象徴しており、ここにおいてその人(生き物)の本質があらわれるというのが、きむらさんの主張なのである。
 あらしのよるに出会ったがぶとめいは、お互いの「外的情報」を一切持ち合わせないまま、暗闇のなかでコミュニケーションを行い、お互いよく似ていることが分かって意気投合する。
 ところが、明るい世界で出会うと、二人は「オオカミ」と「ヤギ」であり、「食欲」と「恐怖心」という本能と戦わなければならない状況に陥ってしまう。
 この状況を、二人は友情によって克服することが出来たのだろうか?
 ・・・ところで、ポトラッチについて言うと、三幕・第5場でちょっと出て来るだけである。
 すなわち、遭難して疲れ果てためいは、このままでは二人とも命を落としてしまうと考え、がぶに「わたしを食べて」と懇願する。
 もちろんがぶはこれを拒否するので、めいのポトラッチは未遂に終わるのだが、これを2.5ポイント(命が5ポイントで、未遂はその半分)と判定。
 
 
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12月のポトラッチ・カウント(5)

2024年12月25日 06時30分00秒 | Weblog
曾根崎心中(そねざきしんじゅう)
 生玉社前の段
 天満屋の段
 天神森の段
 

 第三部は「曾根崎心中」の通しで、野澤松之輔氏の脚色・作曲(ファンでなくとも一度はお参りしたい人間国宝のお墓~野澤松之輔編)。
 原作のコアな部分を活かしつつ、残虐なシーンなどはカットしてマイルドにした、なかなか良い脚色である。
 初心者や外国人を主な対象としていた3月の「BUNRAKU 1st SESSION」も野澤版だが、こちらはなぜか最後の残虐なシーンが長かった。
 既に3月に「天神森の段」を見ているので(3月のポトラッチ・カウント(2))、ポトラッチ・ポイントは10.0(★★★★★★★★★★)で確定なのだが、児玉竜一先生の解説が素晴らしい。

 「九平次は、徳兵衛の金を借りる時点から完全犯罪を企んでいます。判を落としたと称して届けを出す。そのころ徳兵衛は金策に駆け回っていますから、知るよしもありません。念のためといって借用書を作るにあたって、どう巧く言い回したのか、文言を徳兵衛に書かせたのが罠の急所です。」(パンフレットp58)
 
 そのとおり。
 借用書が九平次本人の筆跡であれば、この物語は成立しないのである。
 あと、私が個人的に感心したのは、徳兵衛の「恥」(=帰属集団内における地位の低下・喪失)が増大していく過程を描いた天満屋での場面と、そこで垣間見える天満屋の亭主の処世術。

 「衆人環視の中で、徳兵衛を裾に隠して床下へ忍ばせるお初の大胆な行動力。そこへ、人もこそあれ九平次一行が来るので、以降のお初の言葉はすべて、座敷の九平次と床下の徳兵衛の双方に聞かせるものとなり、観客はその双方を同時に見ることになります。徳兵衛の悪口たらたらの九平次と、床下でじっとこらえる徳兵衛。九平次に話を合わせず適当に奥へ引っ込む、亭主の処世術も世慣れたものがあります。」(p59)

 確かに、その場に居ない人の悪口が始まると、良心的な人は話を合わせず、その場を離れるテクニックを使うことが多い。
 さて、通しで観てみると、心中を主導していたのは実はお初であったことが良く分かる。
 何しろ、最初の「生玉社前の段」の時点で、
 「逢ふに逢はれぬその時はこの世ばかりの約束か、死ぬるを高の死出の山、三途の川は堰く人も堰かるゝ人もござんすまい。」(p43)
と死を仄めかしている。
 上に挙げた天満屋のやり取りでも、
 「情が結句の身の仇で騙されさんしたものなれど、証拠なければ理も立たず、この上は徳様も死なねばならぬ品なるが、ハテ死ぬる覚悟が聞きたい」(p45)
と裾の下にいる徳兵衛に死を促す。
 近松が述べたとおり、お初は、汚れた現世から徳兵衛を浄土に導く「観音様」として位置づけられていたのである。
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12月のポトラッチ・カウント(4)

2024年12月24日 06時30分00秒 | Weblog
令和6年12月文楽公演 ●第二部 (午後2時30分開演)●
壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)
 阿古屋琴責の段
 

 第二部の後半は、「壇浦兜軍記」より、「阿古屋の琴責の段」。
 最大の見ものは、琴・三味線・胡弓の演奏で、人形劇というよりは、もはやコンサートである。
 ストーリーは、平家没落により姿をくらました景清の行方を突き止めるべく、源氏方の畠山重忠と岩永左衛門が、景清の愛人である五条坂の遊女:阿古屋を尋問するというもの。
 だが、普通の尋問ではなく、証言の信用性を、三曲をそれぞれ違う楽器で演奏することによって証しせよと命じるもの。 
 つまり、「楽器責め」である。
 阿古屋は、恋人の景清のために身を捨てる覚悟で、この”尋問”を見事に切り抜ける。

阿古屋「平家盛んの時だにも人に知られた景清が、五条坂の浮かれ女に、心を寄すると言はれては、弓矢の恥と遠慮がち。・・・」
畠山 「琴の形を竪に見れば、漲り落つる滝の水。その水をくれるこころの水責め。三味線の二上がりに気を釣り上る天秤責め、胡弓の弓のやがら責めと品を変へ責むれども、いつかな乱るゝ音締めもなく、調子も時の合の手の、秘曲を尽くす一節に彼が誠あらはれて、知らぬことは知らぬに立つ。

 何とも美しい日本語だが、阿古屋は景清の行方について「知らぬ」との認定を受けた。
 阿古屋の「身を捨てる」ポトラッチが成功したので、ポトラッチ・ポイントは1.0(★)。
 ・・・それにしても、遊女と交際するだけでも「弓矢の恥」というのだから、武士にとって色事全般が忌避されており、不倫などはもってのほかだったのだろう。
 ところが、現代の日本の政治家は、「弓矢の恥」とはおよそ無縁のようだ。
 それに、不倫相手も、阿古屋のような「身を捨てる」ことまではしないようである。

 

 
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12月のポトラッチ・カウント(3)

2024年12月23日 06時30分00秒 | Weblog
令和6年12月文楽公演 ●第二部 (午後2時30分開演)●
一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
 熊谷桜の段
 熊谷陣屋の段
 

 第二部の1本目は、「一谷嫩軍記」より、熊谷桜の段と熊谷陣屋の段である。
 ちなみに、熊谷陣屋の段は、正月の新春浅草歌舞伎で上演されている(「周辺」からの逆襲(3))。
 なので、ポトラッチ・ポイントは5.0で確定なのだが、それにしてもストーリーの酷いこと!
 「熊谷桜の段」では、藤の局が相模に対し、露骨な échange を持ちかける。

藤の局「なんと相模。以前に御所で職場恋愛の不義が明らかになって、佐竹次郎とお前を牢に入れよとの帝が決定されたな。それを私がなだめて、夜のうちに逃がしてやったのを覚えているか。
相模「も、もちろん。その時の御恩は、どうして忘れるはずがあるでしょうか。
藤の局「では、その恩を忘れてないというなら、助太刀してお前の夫の熊谷を私に討たしてくれ。

 藤の局は、相模に対し、「過去の恩を忘れていないなら、助太刀して相模の夫=熊谷を殺させよ」と迫る。
 相模は拒絶できる立場にないのだから、これは強要である。
 この種の、「恩着せ」と「恩返し」に名を借りた”ゆすり、ゆすられる”関係が、武家の社会には蔓延していたのだろう。
 そもそも、「一枝を伐らば、一指を剪るべし」という言葉自体が、レシプロシテ原理の露骨な表現なのだった。
 案の定、「熊谷陣屋の段」では、義経までが、弥陀六から受けた「旧恩に報いる」ため、敦盛の首を忍ばせた鎧櫃を与えるのである。

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12月のポトラッチ・カウント(2)

2024年12月22日 06時30分00秒 | Weblog
 「万七肩に負う風呂敷包みより、例の金壺とり出し、
 『父さん、金壺は返します。そのかわり、お舟さんをあきらめてくれますね』
と、いいつつ手渡せば、金左衛門、ひしと金壺抱きしめて、
 『金壺よ、金壺を、もう決して離れまい、離れまいぞ』
と、京屋の口真似に、各々どっとうち笑う。

 誰もが金左衛門の行動を気味が悪いと思うだろう。
 金左衛門の根本思想は、コッペリウス博士のそれと似ているのである(「主体」化、あるいはコッペリウスとプーチン)。

 「・・・つまり実力による奪取が蓄蔵貨幣への amour の簒奪に置き換わる。もとよりヴァレールもまた amour に生きる。ヴァレールの amour はもちろんエリーズに対するものであるが、讒訴に対して amour を自白するヴァレールを前にして、同じ amour の世界を生きながら amour と実力支配を同義と捉える新種の人物アルパゴンにとって、蓄蔵貨幣への amour も非論理でも何でもない。」(p109)

 井上ひさし氏は、「守銭奴」を換骨奪胎して、金左衛門=アルパゴンの気味の悪さを見事に表現した。
 と同時に、日本風に、「イエを捨ててお舟と世帯を持とうとする万七」というポトラッチを設定し、このポトラッチが成功を収めたのである。
 ・・・ということで、「金壺親父恋達引」のポトラッチ・ポイントは、1.0(★)。

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