明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



うっかりしていたが、チラシにオイルプリントのことが書かれていなかった。当然出品する予定である。写真の古典技法に興味がない方々にはなかなか見てもらえないが、出せるものは出そうという今回のような個展では、どさくさに紛れて見てもらえるだろう。 仕上げをしながら、最後に手がける作品を、太宰治、徳川慶喜から選ばなくてはならない。慶喜は作った後、あまり写真作品にする機会はないように思える。将軍といえば、キュウリは斜めに切ることが多い。私は子供の頃、近所のおばあさんから台所でキュウリを切りながら聞いたことがある。「将軍さんに申し訳ない。」つまり普通に筒切りにすると切り口が葵の御紋に似ているから、ということである。そのおばあさんは江戸っ子であったが、将軍家ファンの親だかそのまた親からいわれ続けたのであろう。「将軍さん」といういいかたが「大家さん」みたいであった。 そういえば頭だけ残っているといえばドストエフスキーがいた。一度著者と書かれた人物を共演させてみたい、と思っていて提案した作品である。後の撮影を考えるとドストエフスキーかもしれない。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第4回



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伊集院静氏は野球ボールを持ってもらうつもりで、ボールとそれを握っている手を作っているが、利き手がどちらか確かめもしないで左手に持たせてしまった。いつもはそういうことを気にするのだが。 写真資料は裏焼きしたまま書籍、雑誌に掲載されていることが多い。何版も重ねても修正されないままであることも、たまにあることである。そのために服のボタンや、時には髪の分け目でさえ注意するのだが、つい注意をおこたった。画像を検索してみたら、右手でペンを持っているカットがあった。私としたことが。 ボールを持ってもらうのを止めれば済むことである。しかし私の作品は、できるだけ何もしないでただ立たせるため、ポケットに片手、両手突っ込み立っている像が多い。ボールを持っているなど、正岡子規でも作らない限り作る機会はないだろう。それにピッチャーズマウンドに立っている訳ではなく、私服で立っているだけだから、左手にボールを持っていてもおかしくはない。せっかくだから持ってもらうことにした。しかしだったら鷲づかみで良かったのに、いかにも直球を投げるような握りにしてしまったのが少々気になるが、まあ、たまたまそういうこともあるだろう、ということで。

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少々感激することがあった。私は良い人達に囲まれている、とつくづく感じるここ4年である。なんでそこまで、と恩を受けた私が思うくらいであり、そんな奇特な人がいるわけないだろ。といってるその人が顔も知らない友人から同じことをいわれている。私は何一つしてあげたことなどないのに。有難いことである。私には個展に来てもらって笑ったり呆れたりしてもらうぐらいしかお返しができない。 他にやることがあるのでベランダで乾かしたままにしていた夏目漱石の胴体。腕組みして着物姿で座っている。まだ座布団を作っていなかった。やはり座布団が要る志ん生と一緒に並べて作ることにした。 漱石は痔に苦しんだ。近いうち痔の手術をする、という友人と、漱石の痔の話をしたばかりである。柔らかめの座布団にするべきか? 『御尻は最後の治療にて一週間此所に横臥す。僕の手術は乃木大将の自殺と同じ位の苦しみあるものと御承知ありて崇高なる御同情を賜はり度候。』乃木は明治天皇崩御の翌日割腹したが、介錯人はおらず、苦しみ悶える声が一晩中近所に響きわたった。

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古今亭志ん生、エドガー・アラン・ポー、伊集院静、坂本龍馬、三島由紀夫がもうそろそろ着彩の準備に入れる。一斉に塗った方が効率的だろう。 あと残りの時間で誰を仕上げられるか、である。深川江戸資料館としては徳川慶喜、九代目市川團十郎を、ということだが、まず團十郎は無理と判断。作ったのは助六だが、背中どころか膝から下がない。場合によっては上半身に後から下半身を継ぎ足してしまう私だが、カタチが重要な歌舞伎、それも“劇聖”九代目である。明治天皇への天覧歌舞伎で、歌舞伎の地位を上げた人物である。これは次回の宿題としたい。その代わり2メートル超のプリントになる予定である。お家芸の睨みを象徴する目玉がどのくらいのサイズになるだろうか。この目にはちょっとした工夫をしている。白粉の下の生身感を出すため、白目の部分を黄色くしているのである。 あとは慶喜だが、坂本龍馬も出すとなれば様子は良いのだが、慶喜と太宰、この二人で悩んでいる。ところどころ修正や塗りなおしを要する作品もあり、どちらかを作って、それでもまだ作れそうなら、考えることにする。とにかく避けなければならないのは制作途中で時間切れ、というやつである。昔は個展の中日だというのにまだ作っていたことがあったが。今回会期中は、ただひたすら飲んでいたい。今ホットスポットの清澄白河。昼間から飲めるところは当然あるだろう。検索している場合ではないけれど。

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拡大プリントが届いた、と思って午前中に見に行くつもりであったが、出来たのは告知用のポスターであった。おそらくチラシを拡大したようなものではないか。だったらまだいいや、と坂本龍馬の仕上げを進める。 ツイッターで手塚治虫の言葉が紹介されていた。“漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め”ということであった。私は子供の頃から、一番の関心ごとは人間であり、人の形状であった。人物伝の如き物は小学生時代から未だに読み続けているし、人の形状といえばあらゆる人種の様々な裸を、毎週テレビで見続けていた。力道山時代から。(少々偏った形状の人達であったが) 人がテーマならば、人が生み出し創作したイメージよりも、まず人そのものが肝心である。私が恐れるのは必要のない物を見聞きし体験することにより、自分自身に取り入れてしまうことである。一度入った物は出て行かない。特に今の時代、身につける必要の無い物から自分を守らなければならない。 自分の質として、頭で考え学ぼうとした物は無駄になり、知らないうちに身に付いた物だけが頼りになる。というのが、自分との長い付き合いで判っている。よって好きな音楽聞いて、好きな本を読んで、後は酒場に出向くことで勉強は充分である。問題といえば日々勉強に励んでいるのに、はたからはそうは見えないことである。

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そろそろ端のほうから仕上げにかからないとならない。長くやっているので個展へ向けてのペース配分には自信があったはずだが、今回はいつもと勝手が違い、出品作を、どこでキリを付けてよいのかが判らない。もっとも避けなければならないのは、時間をかけた作りかけの作品が残ることであろう。次の人物を着手したいところを抑えて、坂本龍馬の仕上げにかかることにした。 深川江戸資料館から拡大プリントが届いた、とのメールが着た。『江戸川乱歩』『樋口一葉』『九代目市川團十郎』『三島由紀夫』『エドガー・アラン・ポー』『永井荷風』『古今亭志ん生』『円谷英二』『ディアギレフとニジンスキー』『稲垣タルホ』が2メートル超のプリントになっているはずである。それにしても個展はなにがしかテーマを決めてやるものだが、何の脈略もないラインナップである。

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鼻筋  


神奈川近代文学館に夏目漱石像を渡す。今回デスマスクが展示されるようなので、是非チラシの鼻筋と比べていただきたい。 漱石に触れるたび鼻筋のことについていっているが、私が写真師の修正に気がついた、といいたいわけではなく、漱石が写真師にワシ鼻の修正を依頼するような人物であった。というところが面白いと思うのである。制作の対象がどんな人物であるか、その人となりを知るため残された肖像写真を穴が開くほど見つめるのは当然である。しかし文豪が、どんな顔でワシ鼻修正を写真師に依頼したのであろうか。そんなことを気にしていたら胃潰瘍も悪化するばかりであったろう。 そういえばここのところ、経歴詐称で話題の人物がいるが、整形により外人化している疑いがあるそうである。そう思うと漱石がワシ鼻を修正した眉間のあたりに何か注入しているように見えなくもない。

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私の場合頭部制作に7、8割の時間をかける。最初から撮影用と決めていた場合は写る所しか作らないので9割という場合もある。何十年経っても出来るかどうか判らないという気分で作る頭部さえ完成していれば、出来たも同然である。頭部はただひたすら完成を祈るという作業だが、身体の部分は何も考えずに作ることができる。 今度の個展は、すでに頭部が有る物に限り、一から作ることは絶対にしない、と肝に銘じつつ制作しているが、後何体作って良いのか。ペース配分を考えながらやっている。担当者は複数体ある人物も、展示するのは一人について一体だけの方が良いのではないか、という。まだ決めていないが、複数体を勘定にいれ、制作中の人物が完成すれば、すでに目標の30体は超えている。 撮影の方は、全方向撮れる作品が完成しつつあるのだから、新たに撮りたくなるに違いないが、中途半端になってはいけないので、三島の唐獅子牡丹以外は制作しないつもりでいる。しいていえば青空を背景に、太平洋を眺めているかのような坂本龍馬は、屋上にでも持って行けばすぐ撮れるな、と思わなくはない。いささかベタではあるけれども、判りやすいし拡大プリントには向いているだろう。

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坂本龍馬そろそろ仕上げに入りたい。交通局発行の都営地下鉄駅に置かれたフリーペーパー『中央公論Adagio』用に制作した作品で、依頼がなければ作ることはなかった人物だろう。首だけ残しておいた。特集人物や特集場所は広告が取れるかどうかでおおよそ決まっていたようだが、背景は特集駅の周辺ということになっていた。いずれ来るだろう、と恐れていたのが昔の人。たとえば侍である。現代の風景の中、刀を差した人物をどう配せば良いのか。そして来たのが“坂本龍馬と大手町を歩く”であった。大手町周辺を歩き廻り、ようやく旧江戸城は大手門に決めた。おそらく龍馬の身分では近寄ることさえ出来なかった場所であろう。しかし昔の人物を昔の景色にただ配するのも癪である。敗北感が残る。そこで城内にはガイドに引率されたハトバスツアーや家族連れ、外人カップルを配し、龍馬は例の調子で腕組みして立っているが、“こんなはずじゃなかった”的な表情に見えるようにし、完敗は避けられたのではなかったか。隔月で4年続いたこのフリーペーパーにより、大分私も腕力がついた。と当時思ったものだが、鍛えられたのはむしろ頓知力だったのではないか?と今思った。

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自分の作品を撮影するようになったのは、会場にポツンと作品を立たせていただけでは、この人物は私にはこう見えている。という部分が言い足りないような気がしたからだが、『江戸東京たてもの園』で、園内のたてものを背景に人形を撮影した作品と被写体の人形を展示したことがある。その時はこの人形を使った、と横に書いてあるのにかかわらず、「いや、これは違うよ」つまり撮影に使ったのはもっと大きい人形だ、という人がいた。人の頭は頑固なものだな、と横で聞いていて驚いた。以前、江戸川乱歩邸の机の上に飾っていただいていた気球にぶら下がっていた乱歩を、あそこまで嘘くさいのにかかわらず乱歩の実写だと思った雑誌編集者がいた。そもそも作家シリーズに転向したのはジャズシリーズの写真を被写体とともに展示したのに写真は人間を写した、と勘違いした人(これも雑誌編集者)がいたのが最初のきっかけである。私はこれは私が作った、といいたいのである。必要以上の表面的リアルは追求はしない。 しかしそうはいっても、今回2メートル前後のプリントを展示する予定だが、人間大、またはそれ以上に拡大された人形がどう見えるのか。作った私が想像ができていないのだから、いってる私の頭も案外硬い、ということなのだろう。

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村山槐多を乾燥させながら、坂本龍馬に靴を履かせながら夏目漱石を作っている。資料館の個展と同時期に神奈川近代文学館の漱石展に出品するので、もう一体作ることにした。神奈文には漱石の遺品で書斎が再現してある。ガラス越しだろうが撮影させてもらえそうなので、羽織を着て座っているところを作ることにした。これを文机の向こうに配せば書斎の漱石となるわけである。この人形自体は神奈文の搬入には間に合わないので、資料館の個展に出品することになるだろう。 今回は今の所、寝床に本をならべ寝心地を悪くして睡眠時間を削る、という事態にはまだ至っていないが、ずーっと作りっぱなしである。酒でも飲みに行かないとストレスの解消にならないだろう、と友人はいうが、酒飲んでいるより作っていた方がストレス解消になるというのが判ってもらえない。こんな時は酒の効きも悪いのである。 己の作る物が原因で、慢性的にうっすらとした罪悪感に苛まれて続けている私としては、今回は一応江東区の財団からの依頼という形である。つまり何を作っていても罪悪感を感じる必要がない。滅多にないことなので、この一時を満喫しないわけにはいかないのである

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小さいので乾燥しやすい、という理由で選んだ村山槐多をおおよそ作り、明日から乾燥に入る。全身完成させ出品する人物をあと6人の中から選ぶことにする。まだいけるだろう。そしてこれで限界、という体数まで作って乾燥させ、仕上げをする。 さて次に誰を作るかである。ここだけの話であるが、その6人の中には肝心の頭部が出てこない。というのが何人かいる。私は本当に作り終えた作品に冷たい。これは何度か書いていることであるが、子供の時、頭に浮かんだ物はどこへ行ってしまうんだろう、と思っていた。頭の中には間違いなく在るのに。頭に在る物を頭から取り出し、やっぱり在ったな。と確認したところで大部分満足してしまう。特に最近は“証拠写真”を撮るので、撮り終えたところで安心し、次行こう。となってしまうのである。出てこないのが誰かはいわないでおくけれども。

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ゼンマイ式柱時計を久しぶりに使いだした。音を数えて時間が判るので、母には好評である。二本の金属棒を叩く仕組みだが、二本の音がブレンドされ良い音がする。ただ少々大きいので、テープを貼って消音化している。駆動用のゼンマイと鐘即き用のゼンマイは別で、鐘即き用は息も絶え々の、事切れる寸前くらいの音がゆるく、音色も良く感じられるのであまり巻かないようにしている。 これには思い出がある。銀座青木画廊に柱時計に入った夢野久作を出品した時のこと。初日に張り切ってねじを巻き過ぎ、元気一杯でカンカンカンと忙しなく喧しく、ドグラマグラとは程遠いことになってしまった。今思えば振り子を外してしばらく放っておけばゼンマイを緩ませることは出来たわけであった。 この時は経験を踏まえ緩くした。

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展示できる状態になかったエドガー・アラン・ポー、伊集院静、向田邦子、坂本龍馬、手塚治虫、を平行して作っているが、そろそろ見切りをつけないと、中途半端のまま間に合わないということになりかねない。次に早世の天才、詩人であり画家の村山槐多を選ぶ。槐多は学校を出て、岐阜の山奥の製陶工場に勤めていたときに知った。周囲に20代の人間は皆無という環境であり、田んぼの間を2キロ歩いて毎晩飲みにいっていた。自覚はなかったが、寂しかったのだろう。もっともそれは人寂しいなんて話ではなく、自分の進むべき道が見えない寂しさであった。肺病病みの詩人の物語は沁みた。 槐多は死の直前、病の快癒を願い房総を旅する。海岸を歩きながら胸に一杯の陽光を受けたことだろう。そんなポーズにしよう。そしてフンドシにはあの文字を入れよう。臨海学校だかの写真の槐多はフンドシにアルファベットで“メランコリー”と書いている。

『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』3月10日予約開始

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私が長い間、ジャズやブルースの黒人ミュージシャン(たまに作りたくなるボクサー)を作っていたことを知っている人は少ないだろう。ジョン・コルトレーンやカウント・ベイシー、バド・パウエルなど、写真が腐るほど残されている。それをわざわざ人形作って撮影してもせいぜい演奏風景を作るくらいで、発展性もない。それなら作り物でないとできない作品を、と作家シリーズに転向した。 一方例えばエリック・クラプトンや、ストーンズなどもレパートリーとしたロバート・ジョンソンは、十字路で悪魔と取引したという伝説が残っているが、本人の写真がようやく数枚発見されたくらいで、実際に悪魔と取引したわけではないので、創作の甲斐があった。どういう訳か何事か企んでいる面持ちになっている。もう一人、右側の盲目のブラインドレモン・ジェファーソンは、はすに向いた写真がⅠカットしか残されていない。言い伝えではブリキのカップをギターにぶら下げ、いくら投げ込まれたか音でわかったという。この人物も創作の仕様があった。できればこんな人達も拡大してみたい。

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