明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



私の人間の好みは一言でいって過剰な人間である。それは様々な意味であり、通常サイズからはみ出した存在。やり過ぎ、大き過ぎ等々。今は東大関係者でも簡単には見られないという標本室に出かけたのは、巨人力士、出羽ヶ嶽 文治郎の骨格標本を観に行ったのであった。亡くなった後、奥さんがアワアワしているうちに東大に運ばれ解剖されたそうだが、なのにぞんざいに扱われ、いつか段ボールに入った馬の骨のような物が出てきた、と報道された。しかしそれは見られず、代わりに別の意味の巨人、杉山茂丸の骨格を観ることになった。 私が小学生になり図書室に入り浸り、伝記、人物伝の類を読み漁ったのも、そこらに転がっている普通サイズの大人達に早くもうんざりしていたからであった。おかげで未だに人間以上に興味深い物はない。子供の私が残念だったのは、偉人伝など、全て現場を目撃した人が書いていると思い込んでいたので、私がいくら桜の木を折ったところで見ていて書いてくれる人がいなけりゃしょうがない、とがっかりしていた。 それにすっかり騙されてしまったのは、人が誰もやれないことをするのが偉い人だ、というのは、少なくとも日本では違うだろう。せいぜい家元のように2、30人の上に君臨するくらいが程が良いようである。 という訳で、三島由紀夫である。これ以上過剰という言葉が似合う人物はいない。やり過ぎる人がいなくなったら世の中は全くつまらない。サイズ的には三島は小さかったけれども。
明日いよいよ最終日です。








コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


道程  


個展は明日、明後日までである。良い悪いを別にすれば、他所では観ることができない景色が並んでいることだけは確かであろう。何しろ私の眉間にレンズを当てる念写の試みであるから、誰も見たことがないのは当然である。そして2年後には写真展のタイトルに有るまじき寒山拾得展である。 初個展から38年。人形を作り始めてからは40年であろう。私に誇れる事があるとするならば、モチーフも含めて作品の変わり様である。 陶芸家を目指していた頃、二十歳で岐阜の山にある製陶工場に努めた。周囲には若者などおらず、技術もなければ何もない。目指す道のあまりの遠さに酔っ払ってあぜ道に落ちたりしていた。翌日工場に行くとみんな知っていた。 あの頃の私に、ふげん社の作品を、私の人生上の最突端だと見せたらどう思うだろう。まず写真嫌いのメカ音痴、信じないだろう、しかし幼い頃からの無類の伝記、人物伝好き。人物のラインナップに私らしさを見るかもしれない。少し信じ始める。工芸学校で石膏デッサンなど二十枚くらいしかやったことがないし、何かを見ながら作るなど子供の頃から苦手である。そう思うとよくやった、と多少感心し始めるかもしれない。だがしかし、ここまで来るのに約40年かかったのだ、と私は言い出せるだろうか。憐れになって言い出せないかもしれない。激昂して私をあぜ道に叩き落とす恐れもある。 子供の頃、何故年寄りはあとちょっとで死んじゃうのに、平気で八百屋に買い物行ったりできるんだろう?と思っていた。まあ、急に年取った訳でもなく、その道程を知っているから納得している訳である。 何も二十歳の私の前に急に現れ、わざわむごい仕打ちをすることもないだろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


私の三島由紀夫の最古の記憶はというと、テレビのスタジオで三島と中村メイコが並んでいる。右に三島。モノクロテレビであったが、グレーのスーツを着ているように見えた。ここからは怪しいのだが、二人は遠い親戚だという。そんな話は聞いたことがないから、捏造された記憶であろう。 やり終えてしまった今、三島について書くべきことがない。何しろ制作開始から十年以上思い続けたモチーフである。完成してしまえば、あれだけ三島三島言っていたのに背中を向けて煙草一服の私である。もっとも、この性格のおかげで次に向かえるのだが。 椿説男の死の会場で寒山拾得の図版など眺めていると、背中に妙な気配を感じるが、だから会期が終わるまで、せめて作り始めませんよ。と気配に対し。 つい先日まで、洗濯物を干していても、私と洗濯物の間には三島が挟まって、三島越しに洗濯物を見ている始末で、三島という存在に覆われて生活している状態であった。終わったからといってすぐに作り始めることはできないだろう。本当に終了感が湧いて来るのはもしかすると10月にニューヨークで出版されるという篠山紀信版男の死を初めて目にする時かもしれない。最も、さすがにその頃になると、薄っすらと寒山拾得越しに世の中が見え始めていることであろう。 今回も先日ユーチューブで歌って踊っているのを見たばかりの今拓哉さんと岩崎宏美さん夫妻に来て頂いた。車で犬を連れてきたので、交代で。相変わらず宏美さんは歌声と会話が同じ声である。いつでも被写体になりますよ。こういうのは無理だけど。とゲンセンカン主人の半裸の女を。 2年後にふげん社で個展をということに。帰宅後計算してみたら、初個展から40周年ということになる。まったく誰だよこんな絵図を書いているのは。









コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


奇縁  


三島ともなると数々の偶然を招く。没後何周年の度に篠山版男の死出版の影に怯え、2011年にギャラリーオキユルスにて三島へのオマージュ展男の死を開催したものの全てを出し切れず。そして今回の個展である。実は数年前、篠山版は、三島の奥さんとの約束で出ることはない、と確かな情報を得ていた。それが今回の椿説男の死の会場で、ニューヨークで10月に出版されることを知るとは。もしふげん社が会期延長をしていたなら。私にすればコロナで人が来ないなどとは比べることの出来ない大打撃を被るところであった。 本日帰り際に、ふげん社社長の、少女時代の三島についてびっしりと書かれた大学ノートを拝見した。内容はというと、怖くて?読むことが出来なかったが、このノートがそもそもふげん社で私が椿説男の死を開催する遠因になっていたことは間違いない。そして4ヶ月とはいえ、篠山版男の死より先に発表出来たのは、三島本人にウケることだけを何年間も考えてきた私への、三島からの褒美だと解釈している。そしてこうしたことは連鎖するものであり、男の死をすでに卒業した私からすれば、寒山と拾得が実は普賢菩薩、文殊菩薩の化身であり、そこからふげん社が名付けられたという奇縁の方がすでに大きくなっている。 数々のヘマ失態を犯してきた私だが、はるか上空の棚から降って来るぼた餅を取り落としたことはただの一度もない。拾い損ねているようでは何も引き寄せることは出来ないのはいうまでもないだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




4年間隔月で表紙を担当した都営地下鉄のフリーペーパーだが、その間常に怯えていたのは篠山紀信撮影の薔薇十字社版男の死が出版されることであった。ちょっとでも本家より先に発表しなければ、人形作って何をしている?とかなり痛いことになる。人伝に孫が高校を出たら出版されると聞いた。フリーペーパーの廃刊が決まって真っ先に関の孫六の模造刀を入手。企画者の元薔薇十字社の内藤三律子さんにお会いし、こんなことをしたいとご相談した。趣旨が違うから、と快諾いただいた。そうこうして震災が起き、何しろ先に発表しなければの一心で震災でキャンセルになり、偶然三島の命日を含む期日の個展を開催した。寝床に本をばら撒き、寝心地を悪くして睡眠時間を削って望んだ。しかし時間はいかんともし難く、イメージのすべてを形にはできなかった。そして結局、男の死出版はガセネタであった。 そして降って湧いたような今回の椿説男の死である。おかげでやり残したイメージもすべて形にした。 コロナ騒動の中、個展決行は色々な意味を持つことになったが、決行は正解だったというのはここでもすでに書いた。ところが最後のオチが待っていた。 今日お出でいただいた三島のコレクターの方に伺って知った。篠山紀信の男の死が10月にアメリカで出版が決まり、すでに予約も受け付けていた。個展が延期になっていたらと思うと。没後50年の内の4ヶ月。タッチの差とはこのことである。お天道様は決して助けてはくれないが、私を見ているのは間違いないようである。
https://www.rizzoliusa.com/book/9780847868698/


6月7日まで延長。明日は休廊日です。






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




自分の頭に浮かんだイメージを可視化することに成功したことにより三島関連の制作は終了した。これが現在の私の人生上の最突端といえる。本人がいうのだから間違いはない。それはそれとして、後に並んで出番を待つ鮫の齒のように次にすべきことがある。 本来個展の会期中なのだから、当ブログも三島について書くべきだろうが、悩み終わって作り終わって結果も出たので思う所が何もない。よって会期中にして寒山拾得のことばかり書いている。 仮に椿説男の死が会期延期になっていたならどうだったろう。ハードル間の距離を急に変えられたからといって勢いと歩幅の調整は効かない。個展を延期せざるを得なかったアーティストはどうなのかは判らないが、私には気分の切り替えは難しかったであろう。とりあえずはゴールを駆け抜け、おかげで新たな取り組みに気持ちの切り替えも成されている。私のような渡世は人と比べることも世情も関係なく、自分だけの世界で納得し完結できる所が何より良いところである。悪い所はというと、書いていたら字数が足りなくキリがないの書かないでおく。当ブログの唯一のルールは都合の悪いことには触れない、である。 寒山拾得に関しては会期が終わるまでは作り始めないことにしている。三島への義理立てもあるが、私のブログを長くご覧の方は、ご存知であろう。自分をわざと焦らして、弓の引絞り効果を狙い、集中力を高める、という姑息な手段をしばしば取るのである。明日27日は2時くらいまでには顔を出すつもりにしている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ふげん社移転後、口明けの個展をやられた土田ヒロミさんがお見えになる。燃える金閣寺の三島の前で記念写真。ところがスマホを渡された私が、いくらツンツンしてもシャッターが下りず。仕方ないので私が構え、シャッターはたまたまいた知人に押してもらった。私はこの世にいるつもりでいるのだが何故だ? 制作に集中していると様々な偶然を引き寄せることがある。例えば泉鏡花の貝の穴に河童の居る事を制作していた時は、フクロウが登場するのだが、どこで撮れば良いのだ、と思っていたら、ごく近所に猛禽類カフェができる。こんなことは良くある。三島で凄かったのは、三島の個展会場を探していて、ある展示スペースを紹介された。良かったのだが、管理をすべて自分でやらないとならない。私の苦手なことで躊躇していたら、なんとそこの先代の社長が三島が市ヶ谷に持っていき介錯に使われた日本刀、関の孫六を三島にあげた人で、現社長が居合いをやっていて、17歳だがで切腹の作法を教えたという。地球上で、他にどこでやれば良いのだ、という話である。ところが三島にあげた刀があのような使い方されて残念だ、と報道され、残念とは何事か!という右翼の言いがかりで、商売にも差し支え大変だったそうである。そのせいで何十年も経っていたにも関わらず、何をやっても良いが、三島だけは、と断られてしまった。 今日もかなりな偶然を知った。寒山と拾得は実は文殊菩薩と普賢菩薩だということになっている。ところが個展会場のふげん社とは、社長が子供の頃、森鴎外の寒山拾得を読んだことで名付けたという。なので先日の飯沢耕太郎さんとのトークショーで、私が突然寒山拾得、と言い出したので驚いたそうである。写真関係者の口から寒山拾得はまず発音されることはないだろうから、そのいわれをどのくらいの人が知っているのか。 三島を終えたからこそ、私の中で寒山と拾得が大きくなってきた。ふげん社に最初にお邪魔したときに、三島を持っていなかったら、果たしてこんなことが起きただろうか。 私もこのようにはしゃいでしまうと、いよいよ寒山拾得で決めないと、かなり格好の悪いことになりそうである。東京でやるならふげん社で、といっていただいた。 






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今回の個展が他の誰でもなく三島由紀夫だったこと、また三島でやり残したことがないこと、そしてコロナ以前とコロナ以後、と語られることになりそうなコロナ騒動。コロナの収束を待って、以前の状況に戻って欲しい、というのは当然私にもあるが、創作者としてはまったく別な観点がある。明らかに椿説男の死に辿り着く前と今では私が変わってしまっている。これは人に見てもらえない、来てもらえないで残念、会期を延期していたらどうだったか、などとは別な話である。ここが依頼されずとも長年勝手に作り続けてきた私の考え方だが、自分が変化することこそ生きていることであり、コロナ如きでそのペースを崩さずに済んだ、というのは後で効いて来るだろう。もちろんそれには、自粛自粛が嫌だった、というふげん社という会場有りきである。一昨年、三島で、というのが決まり、足が地に着かない気分で帰った。聞き間違えではないのか、と念のために昨年確認に来たくらいである。おかげて想いは吐き出せただろう。この渡世も長い、私には確信がある。寺山修司ではないが、百年経たずともその意味判る、だろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ここまで寒山拾得、寒山拾得と連呼してしまって良いのであろうか、新たなことというには、寒山拾得はなかなかハードルは高い。昔は友情を持って止めてくれる友人がいたものだが。 今回出品しているが、豊干がいつも乗っている虎を、まだ虎を見たことがなかった日本の絵師の虎にするため近所のトラ猫を撮影して虎にする試みはすでに成功しているし、松尾芭蕉は、これは豊干だ、と私がいえば豊干で通るだろう。先日書いたように、すでに寒山の住まう岩窟も作れそうである。となると仕込みはかなり済んでいると言えそうである。 今回あまりにマイナーで、出品しなかった船の挨拶という戯曲がある。ある海上保安庁の職員が、一人灯台守をしている。毎日汝の安全なる航行を祈るという国際信号旗を揚げている。そこへ突如怪しい密航船が現れ銃撃を受ける。日々日常に飽きていた男はその銃弾を待ち望んでいたかのように感謝して死ぬ。実に三島らしい作品である。幼い頃、家に突然神輿の集団が乱入し、庭を踏み荒らしていったエピソードにも、凶事を待ち望む三島の心理が現れている。現実には密航船も神輿の集団も現れぬまま、市ヶ谷のクライマックスを迎えた。何でこんな話になってしまったか、というと、寒山拾得に気が行っていても、何処かでそれを踏み荒らしてしまうような神輿の集団、一発の銃弾で粉砕してしまうような密航船などの禍事、凶事ならぬ新趣向が降って来はしないだろうか、と何処かで待ち望む自分もいるのである。

汝の安航を祈る 船への挨拶より

6/7まで延長





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




思い残すことがない、というのは思っていた以上にすがすがしいものである。サーカスという作品の構想を練っていた時期があったが、空中ブランコ乗りの少女役が得られないままに終った。しかし椿説弓張月や、最終カット、とずっと考えていた市ヶ谷駐屯地の事件現場の三島が最後に観たであろう窓外に水平線、そこへ日輪が昇る場面も完成し、すっかり溜飲を下げることができた。そう思うと過去のジャズ、ブルースシリーズも初出版となった江戸川乱歩も、やり尽くした感はない。昔、パワー不足で使わなくなったパソコンを久しぶりに開けてみたら、江戸川乱歩の出版に向け、青銅の魔人、パノラマ島奇譚その他、途中まで手掛け完成に至らなかったデータが見つかり、まるで借金とりに追われ、慌てて夜逃げしたかのようなであった。そう考えると、開催中の椿説男の死はやり尽くした感に満たされている。今回DM、ポスターになった三島を眺めると、かつての任侠映画ではないが、我慢に我慢を重ね、堪忍袋の緒が切れて討ち入りに至り、背なで泣いてる唐獅子牡丹。それというのも、自粛自粛の世の中で、構うことネェやってしまいな!という、ふげん社あってのことである。人は来ないだろうが、見ている人は見ている、との飯沢耕太郎さんからのメールも染みる。 私の創作行為とは、頭の中のイメージを可視化し、やっぱり在ったと確認する行為であり、世界がどうあろうと、自分次第でそれだけは遂げることができる。三島には決行が似合うといったのも、まんざら冗談ではないのであった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




それにしても自粛である。私は縁がなさ過ぎて、生まれて初めて発音したのではないか?自粛なんて言葉が辞書に載っていたなら、これほどの親不孝にならず、まして三島の次は寒山拾得だ、などと口走ることもなかったろう。そう思うと、そんな物が載っていなくて良かった。その代わり、個展に来るようにいったのはの毎日ふげん社の前を自転車で通勤の友人だけであり、すでに3回来た。そんなことはともかく。 寒山拾得は最初の森鴎外で読んだが、実に奇妙な話である。何をいっているのか私には良く解らないが、何故か気になる。私の経験によると、頭で理解できているようなことやモノはおおよそ作品として手掛けるに値しない。頭はかしげながら、ヘソ下三寸辺りは反応している。そんなモチーフこそが良い。 寒山拾得が書いたとされる寒山拾得詩なるものがあり、以前、たまにページをめくっていたのだが、引っ越しの際に持って来そびれた。勿論漢文なんて読めないので翻訳だが。寒山拾得は、絵画その他、星の数ほど残されており、親しまれたモチーフであることがわかる。だがしかし、調子に乗って己の解釈を加え、これが私の寒山拾得だ、なんていうのは危険である。むしろ能面師の面打ちの如き謙虚に対するべきであろう。まずは人形作って写真に撮る、という手法を用いるだけで、先ずは上出来とする、ぐらいの心持ちで望むべきではないか。あの意味あり気に薄ら笑う不気味な2人組には油断は禁物という気だけはする。




6/7まで会期延長。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昭和残侠伝唐獅子牡丹の三島は、私を作った後、誰を作ろうというんだ?と私に言っている。確かに魅死魔幽鬼夫の後は、もう人に非ずなものを手掛けるしかないのではないか?となるとやはり寒山拾得だろうか。なぜ寒山拾得か、というと実は良く判らない。これは毎度のことであり、制作しているうちにわかってきて、その暁に、始めから計画的に考えて作りました。という顔をする寸法である。これは陰影をなくす手法も、今でこそ始めから計画通り、みたいな顔をしているが。ブログを読んだ人以外にはバレない。 そういえは、谷中の全生庵で、三遊亭圓朝旧蔵の幽霊画とともに圓朝像を展示した時、全生庵が、中国寒山寺と同じ臨済宗の禅寺と知り、来た!と思わずいずれ寒山拾得を作ります!と玄関先で口走っていた。 こうやって常に行き先も見えぬまま、行き当たりばったりただ衝動に従い、毛細血管が匍匐全身をするかのように、少しづつ変化していく私である。諦めの悪い私も手法としては石塚式ピクトリアリズムこと大リーグボール3号が最後であろう。常々思うが人生とは、夏休みのバイトの如く、慣れた頃に夏休みは終わるのであろう。夏休みが終わるまで、投げられるだけ投げておきたい。









コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




三島がドナルドキーンに宛てた最後の手紙に私もとうとう魅死魔幽鬼夫になりました。と書かれてあったそうだが、仮面の告白に書かれた、幼い時三島が好きだった絵本、王子が竜に噛み砕かれ苦しみながら死ぬ描写。しかしその度生き返るのか気に食わず、その部分を隠して読んだ。幼くしてすでに魅死魔である。 たまたまその文才のために小説家として生きたが、極端に言ってしまうと、それ以外のこと全てが、死に行くためのお膳立て、彩りに過ぎず、それこそが仮面ではなかったか。一般的にその仮面の部分だけが論じられているように私には思える。仮面部分にはまったく興味がないので一切触れず、三島の作品という衣を着せて魅死魔幽鬼夫を描いて見た、というのが今回の椿説男の死である。 死ぬ直前のインタビューで、自民党には利用されない、見ていて下さい。といっているが、あの手この手、あらゆる手段を講じてあらゆる人達を利用し、自分のシナリオ通りに魅死魔を全うし、大満足で死んでいった希代の人物。というのが私の印象である。某雑誌創刊号に掲載された生首は、まるで温泉に浸かって大満足の表情である。 薔薇十字社版男の死で好みのガテン系人物に扮し、死んでいる所を撮らせていたことを知ったとき、私がビンゴ!と小躍りしたのは、私の見立が正解だと思ったからで。仮面を脱いで最後の最後ににやりたかったのは魚屋やヤクザや兵隊に扮して死んでみることであった。そこには天皇も憲法改正もない。あんな嬉しそうな三島は見たことがない、と編集者はいった。 しまいに自衛隊員は、説得は通じない、もはやこれまで。と断念し割腹、という悲劇の花道の演出にヤジをもって利用されている。あの時肝心の先鋭部隊は富士の訓練で不在であった。調査ミスといわれているが果たしてそうだろうか。用意周到な三島である。訓練を共にし汗し、少なからず三島に共感を示した隊員がいた先鋭部隊である。一人立ち上がっていたら花道は台無しであったろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




飯沢耕太郎さんにお付き合い頂いたトークショーは無観客ということになった。長いのでダイジェスト版が作られるかもしれない。なんといっても成否を分けたのは、私が飯沢さんより大分後ろに下がって画面上の大きさのバランスをとったことであろう。 今回、ほとんど自粛している中、個展が決行されたことはつくづく良かった。あの時自粛なんてせず、三島で決行したんだぜ、と後々言いふらしたい。 私は昔からこんなことをしているのは地球上で私だけ、になりたかった。その孤独感だけが私を甘い真綿で包むような幸福感に浸すことができる。人と違うことをしたいなどというへそ曲がりレベルのものではなく、ただ胸に手を当てて、やりたいことをやっていたらただ一人になっていたでないとならない。ただし、そのくらい素晴らしいことを成したなどとは一言もいっていない。何しろバカバカしくて誰もやらない、というのは、私の主要な武器といって良い。大事なのは本心からやりたいことを追求していたら他に誰もいなかった。である。地球上には様々な人間がいる。なかなかそうはいかないものである。サンディエゴ写真美術館の館長デボラ・クラチコさんに作品を見ていただいた時、何か質問はと聞かれて唯一聞きたかったのは私のようなアプローチをする人は他にいますか?であった。ウ~ンとうなって紙片に書いてくれたのがシンディ・シャーマン。?つまりいないということであろう。飯沢さんからもいないと伺った。さらなる私の自負は、石塚式ピクトリアリズムは、陰影を出さない様に撮影して切り抜いて貼り付けるだけであり、簡単にも程がある、というところが、私にしてはカッコ良すぎる。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人形4体と出来立てのプリント松尾芭蕉を持っていく。お馴染みの風景だが会場でドリルで穴を開けたりまだやる。それにしても完徹がこたえるようになった。色を塗り一休み。ゴロリと横になる。お前寝ようとしてるだろ?色を塗らないまま始まってしまう恐怖を想像し耐える。結果塗り残しなどあるが、これを被写体にしました、ということで、その辺りはおいおい。 それにしてもこの時期に何故、と方々からいわれたが、確かにDMを送る相手も施設もない、というあるまじき有様である。しかし仮にお日柄も良い秋頃に延期になったとしよう。状況が好転していたとしても、私自身が変わってしまっている。珍説弓張月で、こんなことまで可能だと私は知ってしまった。三島を成仏させた私はもう別のことを考えているだろう。 前回男の死をやる際に2ヶ所に断られている。理由はいずれも右翼が怖い、であった。その点、前回も今回も女性オーナーである。一言もそんなセリフは出ない。そもそも死の直前、右翼今に見ていろ、と三島はいっている。私にいわせれば三島は右翼調に見えるだけである。とにもかくにも最大の後ろ盾は、死ぬ寸前に、魚をぶちまけ包丁を腹に刺して死んでる魚屋に扮した三島本人である。今回延期にしなかったのは自粛、自粛が嫌だった、と伺った。決行といえば三島。それをモチーフの展覧、しかも作者が感心されるくらいなら呆れられた方がマシなんてヌカしている。確かに自粛は似合わない。詳しくは明日発表されるだろうが、延期でなく延長が決まった。 毎日ふげん社の前を自転車で通る友人とちょっとだけ飲んで帰る。電車内は昨日までのように距離を保ちようがなく。当たり前である、みんなそれぞれやるべき仕事がある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »