明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日長野の印刷所の立ち会いを終えて帰って来た編集者Sさんが、改めて上手くいったと嬉しそうに連絡をくれた。 今回短編とはいえ、一作まるまるビジュアル化するのは初体験であるし、どんな体裁の本になるかイメージできないので、どの程度のボリュームで制作して良いのか判らなかった。簡単にいえば何カット作って良いか判らない。Sさんは忙しがって打ち合わせができないのでなおさらであった。編集サイド(1名であるが)としては大方完成した物を提出してもらわないと編集できない、という。私としては前段階の作業で、何日もかけて作りこんだ風景をずいぶんカットされていた。押し迫って来て無駄な物を作っているわけにいかないので、本当に必用なカットを見極めながら進めたい。最後は編集作業と平行に制作を進めるやり方になったが、これが上手く行った。肝心の異界の者どもを最後の3週間にもってきたことで集中力を持って締めることができた。 私は河童が主人公の作品に携わっているのだから、もっと楽しそうな顔をすべきだろう、といつもいっていた。柳田國男と河童が向かい合っているのだ、驚くか呆れるかしろよ、と。すると「すぐ褒められようとするんだから」。ちょっと待ちなさい。私は子供ではないぞ。こんなオダテがヘタクソな男はいないのである。いや私はただ、かかわったもの同士、楽しく盛り上がって行こうじゃないか。それをいっている。 もっとも編集者としてみれば、あと三週間の予定なのに、主人公のパートがすっからかんでは笑っていられなかったろう。それを思うと、ようやく編集者Sさんの本心の笑い声を聴いた気がした。 私としては心配することなど1つもない、というつもりで常にいたが、慌てたことが1つだけある。正直が売り物の?当ブログでも書かなかったし、誰にもいっていない。よくあれを逆転したものである。T千穂のカウンターで1人、クリント・イーストウッド調で遠くを見る目になる私であった。

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笛吹きの芸人役のMさんと、ご近所の人限定の出版を祝う会の打ち合わせ。打ち合わせといっても、その件は早々に終わり、後はほとんど柔らかいにも程がある話に終始する。 近所のド素人の方々に演じてもらうことについては、集合しやすい、気心が知れている。誰も知らない。ギャラがかからない。ということもあるが、私のコントロール外の要素を入れる、ということも期待していた。これは最近書いたような書いていないような。良く覚えていないので書いてみるが。 河童の三郎は常に霧吹きで濡らしながら撮影したが、その際、目玉にかかりさえしなければ、髪には一切手を加えていない。どんなカットであろうと乱れるにまかせている。編集者が顔に貼付いた髪が気持ち悪いといったのは、そのせいであろう。 手持ちで撮影していた当時は、後ろを偶然人が通るのを期待し、私の意図しない物を画面に入れることを常に考えていた。そうすることによって動かない人形までが生き々してくる。そしてそんな心構えの撮る側が、準備万端で被写体に対していてはおかしいので、カメラは常に手持ちであり、本作でもついに一度も三脚を使わなかった。ついでにいえば、光を反射させて足りない光を補足するレフ版も使わない。 素人の皆さんは、私の意図していない想定外の動きをしたカットをかなり採用した。素人衆の意外な演技も乱れるにまかせた河童の髪も、コントロールの及ばない要素を画面に入れる、という意味では同じである。そして一冊の本ということでいえば、動かない造形物が主役の作品が、素人の皆さんのおかげで生き々して見えていれば成功である。

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冷房の寒さで目が覚める。書籍表使用の庶民的変身ヒーローの顔を作りながら、今から作る必用はないと判っていながらスライド上映用のデータを作る。老眼で活字が読めない人に対し、というのも一方では本気である。なじみのない鏡花の文体に拒絶反応を示す人もいるだろう。朗読は一応駄目元で某俳優さんに録音での参加をお願いしているが、おそらく気分を込めれば1時間を超えるだろう。まずとりあえず近所の人や、K本の常連席に岸壁のカラス貝のようにへばりついている人達相手にそこまで、という気もする。区内に朗読のボランテイアグループもあるらしい。 風濤社より色校はでたが、不満があったのでやり直しをさせているという。それでも印刷された状態を見たいので向かう。印刷の場合、紙がインクを吸うので、その辺りも考慮する必用がある。やり直しをしたくない印刷会社の営業と、多少のバトルがあったようである。それでも想像したほど酷いわけではなく、金曜に改めて届く色校を見た後に案配すれば済みそうである。安心して社長、編集者と飲みにいく。 昨年この作品のビジュアル化はどうですか、と編集者が持って来た話が海外作品で、挿絵ならともかく丸ごとビジュアル化するには長い。だったらこれはどう?と私がいって決まったのが『貝の穴に河童の居る事』である。その後何かのおりに「石塚さんがやりたいっていったから」。というセリフを私は確かに耳にした。一緒に飛び降りたのに、着地寸前にクルっと私を地面側にしようとしたろ?そして編集者はいう。「次は江戸川乱歩ですかね」。腹に一物あるような笑みである。「冗談じゃないよ。正式に依頼するっていうなら考えてもいいけどさ」。何をいっているんだ私。

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先日まで追い込みで集中していたせいで、今年はまだ冷房を使わずに済んでいたが、すっかり魔法が解けてしまい、我にかえってしまった。身体を覆っていた耐熱服を脱いだ感じである。ところがクーラーのリモコンがでてこない。そうしたものであろう。 結局データは無事印刷所へ。来週水曜日に見本が上がってくるという。よほどのことがなければ、今月末には書籍になる。出版部数を考えれば、どこにも置かれるというわけにはいかないが、来月始めには書店にならぶであろう。 出演者が近所の人ばかりということもあり、9月早々出版記念会というか報告会というか、とりあえず近所で乾杯しようと、出演者のMさんがいってくれているので、定員30人ほどの施設を予約した。参加者は老眼鏡必携のこと、としたい。字が細かいとかいって画しかみない輩が続出することは目に見えている。中には60過ぎて、小説は二十歳のとき『十五少年漂流記』を一冊読んだだけ、というようなならず者も混じっている。河童がなんで青い舌を出しているか。それは鏡花が“青ミミズ”のような、と書いているからである。無理矢理でも内容を把握して帰ってもらいたい。一方ではスライドでプロジェクターに流しながら朗読してもらえば、読まない人にも判ってもらえるだろうとも考えている。乱歩の本を出した時も、ライブハウスと世田谷文学館で、スライドとピアノ演奏で朗読ライブをやった。今回もそんなことが可能かシュミレーションもしてみたい。 そもそも泉鏡花作品をビジュアル化するというのは、野暮な行為という気もするが、野暮ついでに関係者限定ということで、使わなかった没カット、合成前のカットなどを見てもらい、どうやってこの本が作られたか披露することも考えている。なにしろただ撮っただけ、などというカットは最初の1カットくらいであろう。あとは嘘ばっかりである。房総の海に東京から遊びに来た着物の一行が、足首まで海に浸かって楽しそう。なんて場面も、じつはマンションの広場だったりすれば、よっぽど河童に化かされているようであろう。

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編集者から私の制作した画像データについて質問がきた。「何かやりました?」彼には理解できない何かを施しているのではないか、という。まるで私がデータに結界を張ったとでもいいたそうである。いや何もしていない。 先日編集者が書いた本に載せる私のプロフィールを見ていて、あらためて思ったが、04年までは片手に人形を捧げ持ち、片手でカメラを持つ、その格好から“名月赤城山撮法”といっていたアナログな撮影であったが、05年に出した『乱歩 夜の夢こそまこと』ではいきなりフォトショップによる合成で制作している。それまでの手持ち撮影ではただ人形が風景の手前にあるから等身大に見えているだけで、よって常に人形が手前にくるしかない。毎ページそれではとてももたないと思ったからである。当初、編集者の頭にあったのは、そういった手持ちで撮影した乱歩の写真集であったはずだが、書籍の場合はストーリーを描ける、と考えた私がフォトショップを我流ではじめ、当初の編集者のイメージと違う本になってしまった。その当たりについて話し合った記憶がなく、何故方向転換が可能だったか覚えていない。それにしても、私はもう少し準備期間があったと思っていた。 もともと画像を加工するつもりなどなく、HPを作るつもりでウインドウズを使っていた。今思えば暴挙に近いが、下手糞でも作品に念さえこもればあとは些細なこと、と考えてしまう大雑把な私らしい。 以来、今回編集者が見抜いたとおり、主に切って貼るだけの単純な方法で制作を続け、先日、友人のスタジオでデータをチェックしていた時にも露見したが、私はそうとう妙な方法で制作しているらしい。これを主に使うべき、という機能をまったく使っていないので呆れられた。 そんなわけで、編集者が首をかしげるようなことは何もしていない。合成画像は統合され、ただのTIFF画像である。思い当たることといえば、私の念がこもっている。ということぐらいである。これは少々厄介かもしれない。

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明け方、一旦PCを閉じた。最近このまま起きていて『あまちゃんを』観るか、一度寝て再放送を観るか考えるのだが、ここで一仕事浮かぶ。今回ついに作中に登場しなかった著者の泉鏡花が最後のページにいる。もちろん実写ではなく私が作ったものだが、そこに万古焼きの兎を置こうと考えた。鏡花は酉歳生まれで、七つ先のいわゆる向かい干支を集めると出世する、という言い伝えを信じ、様々な兎をコレクションしていた。その中でも実物大の陶器の置物がお気に入りのようである。鏡花の人形に持たそうと、小さな兎を制作していた時、なんの気なしに覗いた富岡八幡の骨董市で鏡花所有の物と同じ兎を見つけた。箱入りで京都の倉から出たという。私もたまたま酉歳である。間違いなく私と縁がある。さっそく入手した。本文中でも一度使ったが、ほとんど文章の地紋の扱いで良く判らない。そこで最後のページの鏡花の目の前に置こうと改めて撮影した。この兎、可愛らしいがとんだ食わせ物で、言い伝えがたんなる迷信なことを私は知っている。せめてこんなところでもう一働きしなさい。編集者に送る。 入稿来、私の画像データをじっくり点検している編集者に、私はただ切り貼りしているだけだ、ということがバレてしまった。確かにコンピューターグラフィックスというにはあまりに単純原始的なやり方だと自分でも思うのだが。それにしても切り貼りしてるだけなんですね、と笑うが、これはどんな場面か充分考え、光線状態を吟味して撮影しているので、ただ切り貼りでも画になるんですね。ということまでは何故かいわない。

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まだ先の話だが、金沢の鏡花記念館で『貝の穴に河童が居る事』の中から展示することになったというので、10数点選ぶ。昔、鏡花の人形を2体携え金沢で撮影した。始め犀川へ行ってしまい、これじゃ室生犀星だ、と慌てて浅野川へ向かったのを覚えているが、なんで記念館に行かなかったんだろう、と思ったら、その頃はまだなかった。 展示作品には、ここぞとばかりに、表紙のつもりでボツになったカットを紛れ込まそうと考えている。使われていない分他に使いやすく、フェイスブックのトップなどにさっそく。他には河童の三郎と柳田國男の翁とのツーショットははずせないし、河童の三郎を中心に選ぶ。姫神が空中に浮かんでいるカットと、娘のふくらはぎに真っ赤な蛇が巻き付き食い込んでいるカットはどちらか出品しよう。 昼過ぎに古石場文化センターのスタジオへ。だるくてキャリアに載せた真空管アンプが重い。どうやら魔法が解けだしたようである。最初に症状が現れたのは入稿の翌日。K本にでかけ、チューハイの一杯目。“しょっぱい!”塩を一つまみ入れたかのようである。ギョッとしてしまった。次第に元に戻ったが。なんだったのであろうか。 スタジオへは30分遅れて到着。下手糞が練習していないので実に冴えない。それでも大きな音を出すだけで楽しくはあった。 終了後、近所の居酒屋へ直行。これがあってこそである。それぞれがやりたい曲を持ち寄りああだこうだしているが、私が唯一提案したのが、具体的な曲というわけではなく、ただブルース進行の曲である。『ひみつのアッコちゃん』も『バットマンのテーマ』もブルース進行だなあと話しをしていたら、Yさんが本気で混同して口ずさんだ。「バットマーン、バットマーン♪」。「それアッコちゃーん、アッコチャーん好き好きー」じゃないの?笑った。こうしてくだらないまま本日も夜がふける、

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昨日から未練がましくデータを眺めていたが、残念ながらやることがない。この気持ちが出版後、いつまで持つかは判らないが、今の段階では悔いもない。危ない場面がなかったとはいわないが、やってみれば打開策も見つかり上手く着地ができたように思う。 風濤社に遅れて到着。ここに至って慌てることもない。全体の流れからして、あえていうなら一カ所、画像のサイズがいくらか大きいほうが、というところがあったので、なおしてもらったが、これで本当に思い残すことなく私の手を離れた。印刷所から見本が上がってくるのを待ち、チェックの後、完成は今月末。発売は9月に入ってすぐ、ということのようである。 編集者と軽く飲む。どう考えたってこんな本は他にないだろう。という話をしていて、編集者が余計なことをいいそうだったので、私は手で制した「皆までいうな」。確かに一年以上かけて、こんな馬鹿々しいことをする人間は他にいないだろう。“私の代わりは誰にもさせない”。そのためには私はどんな卑怯な手でもつかうのである。そもそも馬鹿々しいことを全力でやる。これは私のメインとなる重要な武器である。しかし私が自分でいうぶんにはいいが、担当編集者が本人にむかっていってはいけないと思う。

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一日  


後書きの手直しを終えた。74カットの画像データを眺めても、どう考えても、やることがない。明日は印刷用に調整を済ませたデータを出版社に届ける。そしてやることを一足先に終えた私は、モニターを前に作業をする編集者の横で、潤沢に備えられたアルコール類のなかから選んだ焼酎を早々に飲み始め、氷をカラカラいわせてしまおう。 昨年の制作開始当初考えていたものより、数段良い物になった気がしている。

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念願かない、ようやく手掛けることができた異形の者。可愛らしいキャラクターになりがちな河童は、私が手掛ける以上、すくなくとも女性にカワイイなどとはいわせぬつもりで始めた。涙を地面に溜まるほど流しながら、ついでにハナを垂らし(三郎は垂らしたハナがやたら似合うが我慢して2カット。)かなり不細工に仕上がった。 これは以前も書いたが、柳田國男の翁と三郎相対する神社の境内のくだりを撮影していた時、土下座して翁に懇願する三郎をモニターで拡大してみたら、制作者である私が想定していなかった純で真剣な表情をしていた。私としては娘の尻を触ろうとして結果的にケガをした馬鹿な河童のつもりで作っていた。なのに拡大してみたら、私の演出と違う演技をしていたわけである。 ところが作者である私がグッと打たれてしまった。そうかそれもあるな。人からみて馬鹿なことでも、当人にとっては人生をかけた一大事ということがあるだろう。と自分で作った粘土製の河童に教えられた。そもそも私自信が周囲からそう見られている可能性がある。 私は制作中、河童の面相にいつのまにか入り込んでしまったのは、かつてのハリウッドの悪役リチャード・ウイドマークのつもりでいたが、真剣な土下座で懇願の一件以来、むしろ火野正平に見えて来て、出演者の女性からついに三郎を「カワイイ」と評されても、残念には感じず、『やはり男は真剣さが肝心なのであるな』。と思う始末である。 昨日ツイッターとフェイスブックにアップしながらブログに載せ忘れた、表紙のつもりで制作しボツになったカットである。やはり表紙はこれではなかったろう。この三郎の眼にはかつての火野正平的妖力を密かに封じ込めており、見つめていると女性は思わず手に取り(中身を確かめることなく)レジに向かってしまう手はずだったのだが。

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昨日から友人のスタジオへ行き、印刷向けに完璧に調整されたモニターを使って最後の色調整。幸い大きな変更をする必用はなかったが、ウチでは気づかなかった部分を修正する。 手掛けたかった人に非ずな物は、ヘンな化け物であれば河童でなくても良かったが、喜怒哀楽の表情を表現できたという意味では河童は良い選択であった。これほど豊かな表情が違和感のない妖怪はいないであろう。 私が普段制作している人物は、必用のないかぎりはすべて無表情である。見る人の状況、心持ちに応じ表情は変わって見えるので、その選択の余地を残しておきたいからだが、撮影に際しても立体はライテイングで表情が変わるので都合が良い。 結局家にいる時同様、スタジオのモニターの前でわずかに寝てしまったが、最終調整が終わる。幸い1カット、元データーをチェックする必用のあるカットが見つかり、今日でおしまいにならずにすんだ。なかなか離れ難い。なんとか眠気を8時までガマンし、『あまちゃん』を携帯で観ようとしたら電波届かず。今日は絶対観たかったのだが。 これが終われば書籍の表紙で変身ヒーローを作ることになっている。ゲラをまだ読めていないが、輝く強化服カッコイイぞ的ではなく、かなり庶民的なヒーローらしい。思えば河童に始まり会社社長、ドストエフスキーにヒーローと、私には異例な賑やかな年である。 ところで友人のスタジオで客観的に眺めてみたら、私が表紙用に制作した三郎より、編集者が選んだ方があきらかに正解であった。

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人形制作者の私が作るのであるから、様々な風景、人物によって構成された本であっても、最終的には主役である河童の三郎の表情が肝心で、三郎がこんな顔になるのは、こういう物語があったからだ、となるべきであろう。 そのつもりであったが、数週間前には河童があまり登場しておらず、このペースでは今年中の良いタイミングでの出版は無理かも、という編集者の表情であった。ところが私としては素材をすべて並べ、あとは料理してかぶりつくだけ、という最も美味しい日々が始まるつもりでいた。今考えれば、いくら私の頭の中にイメージがあり、それを期日までに頭の中から確実に取り出せる自信があっても、編集者には完成作を見せなければ伝わるわけがない。隙間だらけの原稿を見て嘆息するのも今は判るが、その時は私とは関係ない、何か社内的問題でも起きたのか、と勘違いしたくらいである。財布には間違いなく現金があるから大丈夫。といっている私と現金を見なけりゃ安心できない。という編集者。そんな感じだったろう。 そこから幸福な2週間が始まる。河童を空に飛ばしたり土下座させて泣かせたり、ハナを垂らさせたりハエをとまらせたり、念願だった柳田國男との共演シーンも一気に制作した。私にはこれ以上の快楽は考えられない。そしていよいよ完成が近づいている。 “及ばざるくらいなら過ぎたるほうが絶対マシ。というやり過ぎ傾向にある私は、編集者の客観性を信頼してきたが、おかげで表紙はこれだろう。と最後の最後に残しておいて制作した作品がボツになり、裏表紙のつもりで作った作品が表紙になってしまった。えっそっち?しかし頭の切り替えは早い。こんなカットが入らないほどの出来なのだ、と今は納得している。ホント。でも、あともう一回くらいいわせて! ※ボツカット近日公開予定。

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デザインも決まり、後は画像データの最終調整と後書きなどの、本文以外の文章の修正を残すのみとなった。朝から細かい部分の修正を繰り返す。画像総数74カット。先日の打ち合わせで、その3週間前は硬直した表情だった編集者も、良い本になったと笑う。「誰が買うかは別として」。余計なセリフを後ろにつけないでよろしい。 1冊目の『乱歩 夜の夢こそまこと』2005年(パロル社)を入稿した日、帰りに街行く女性が急に奇麗にみえたのを覚えている。『昼過ぎ外に出ると、ここ数ヶ月、街行く人が流木や石ころに見えていたのが一変している。特に女性が輝いている。昔4キロ四方、誰も住んでいない廃村で、男三人で焼き物をやっていた頃、たまに東京に帰って来た時の状態にそっくりである。』集中していたせいであろう。今回はというと、この夏、まだ扇風機のみで冷房を入れたことがない。火もまた涼し、といわないまでも、確かに制作中はどうということもなく、気がついたら背中に太陽の直射光があたっていたことさえある。 乱歩本の編集作業も佳境に入っていた頃の話である。『大江戸線で門前仲町から雨の中帰るが、門前仲町の交差点を渡ると、前を行く若い女性が傘もささず、慌てる様子もなく歩いている。ビニール傘の私は半分濡れているのに、何故か濡れていない。そんな素材の服なのかと思うが、一滴も濡れている様子がない。1メートル数十センチまで近付いたが、筆先のように束ねた髪が、雨が滴りもせず乾いている・・・。まあこんな事もあるさ。私は角をまがって家に向かった。』と書くのは、昨日チューハイグラスの幻覚を見た私である。

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 アクリルの板は、電気ドリルでうかつに穴を開けようとすると割れるそうで、危ないところであったが、タップホルダーにドリルの歯をつけ、手で少しづつ開けて事なきを得る。午前10時に幻冬社の編集の方にアクリルケースとともに吉本興行大崎社長を無事にわたす。 昨日、作った作品が本人の元に渡ったのは始めてかもしれない、と書いた。他に誰かいたような気がしていたが、肝心な人達を忘れていた。スティービー・ワンダーBBキングである。直接本人に手渡している。これであとはマイルス・ディヴィスとジェームス・ブラウンだ、と当時思ったものだったが。ローリング・ストーンズの『ミス・ユー』で印象的なハーモニカを吹いているシュガー・ブルーもいた。グラミー賞取っていないのは大崎社長だけである。 

風濤社に送るデータのこともあり徹夜。朝、母から電話があったので、徹夜だったのでこれから寝るという話をした。つまり今日はもう電話をしてくるな、ということに決まっているわけだが、30分後にどうでも良い電話。おかげで眠るタイミングを失する。 本日中に『貝の穴に河童の居る事』のデザイン用データを、風濤社にすべて送ることになっており、最後の撮影。河童が吐いた唾で穴が空いた長靴である。いつでも撮れると思っていたせいで、これが残った。手直ししたデータを宅ファイルで送るが届かない、というトラブルがあったがなんとか届き、後は最終デザインをPDFで受け取るのだが、もう耐えられない。ほとんど完成形は見ているので、最終チェックを、という編集者に後はまかす、と8時の閉店まで30分のK本へ向かう。かけつけ2杯。返す刀でT千穂へ。ようやくところどころ寝てしまう。目の前のグラスを取ろうとするが何度も空振り。女将さんは何しているんだろう、と思ったらしいが、そっぽを向いて空振りしたわけではなく、目を開けて、チューハイグラスの幻をつかもうとして空振りしていたのである。なるほど人間、妖怪やお化けくらい見て当然である。

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昨日裏表紙の画像を作った。そして本日、ようやく肝心の表紙である。水に胸まで浸かりながら某俳優なみの、母性本能をくすぐる表情。かどうかはともかく完成。本日は表紙その他、後書きも含めてほぼ完成形に持っていく打ち合わせである。確かめることがあり、事前に編集者に電話する。裏表紙の話になり、あまり濃くしないよう釘を刺された。私を良く知っている。三郎がかなりの目力でこっちを見ている。たしかに裏表紙でこれはキツイかもしれない。話の舞台は房総の海辺だが、三郎の本来の住まいは印旛沼あたりの沼である。静かなせせらぎなど、もともとそんな風景写真を考えていたくらいである。急遽こっちを見ていないカットを用意した。おかげで予定より1時間遅れて風濤社へ。ここまでくると、ちょっと見にはどこを変更したか判らない程度の修正になってくる。そして表紙である。 私には頭のどこかに予感があった。たびたびそういうことがあったからである。つまり、私がここにはこの作品だろう。しかしこんな物もある、というと、こんな物の方が良い、といわれることである。えっそっち?だったら持ってこなければ良かったという話だが、頭のすみにこっちもあるかな、というのがあるのである。そして本日は裏表紙用に作った、こっちを見ているバージョンが表紙に良いという。えっそっち?編集者の客観性にまかせるつもりでも、さすがに俄には納得がいかない。なにしろ表紙用に考えた、とっておきの作品が没になるからである。そこで帯を含めてプリンターで両データで2種作ってもらい並べる。どっちでもいいや。納得すれば切り替えが早い。明日、一応営業の意見も聞いて見るとのことであった。

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