明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



制作中のDは、彫像が3体残されているという。検索したら、唯一Dの存命中に制作された、女性彫刻家制作の半身像を見つけた。それにしても、3体並べたら、同一の人物がモデルとは思わないくらい違う。 具象彫刻というものは、リアルに作ってあるので、モデルをそれなりに正確に写すものと、なんとなく思っていたが、私の手元にある写真帖とも大分違うように見える。デッサンもろくすっぽやったことのない独学者の私からすると、私の目がおかしいのか、と思うのも無理はない。前述の男性彫刻家の作品は、偉い人を偉いように作るため偉そうだが、女性彫刻家はまるで違っていて、なんとも頼りない表情で、あきらかに男性作家とは、制作のテーマが違う。私はこれが一番好きかもしれない。  随分時間をかけてきたDの首だが、明日は写真帖を返さないとならないし、いい加減、時間が無くなってきたが、ここへ来て私の病気が出た。これを書いている今も、頭の中では、今に至って余計なことは止めろ。と思っているのだが。原因は、先日も書いた坪内逍遥がいう、これらの写真には、本来の表情が写されていない、という箇所である。“特にあの立派な目が劇的には活きていない。あの爛々たる大きな目をぐっと睨ませて、如実に撮影し得たと想像して見たまへ、あの大きな厚い唇を思ひ切って引歪めて撮影し得たと想像して見たまへ”。そして決定的だったのは、先日、Dの御子孫の、当時は写真を撮るのに時間がかかったため、というご意見を伺ってからである。写真の中のDは、目の大きいことがバレないよう、注意している、とさえ思うほど、大きな目を見開いた写真がない。  ここに至って表情を変える、というのは危険すぎる。しかも、ポーズから衣装から、方向転換をしなければならないのだ。だがしかし、私が前述の彫刻家の巨匠お三方に、勝っている所があるとすれば、亡くなって100年以上経っている今、都営地下鉄のフリーペーパーの表紙にしようと考える酔狂度合いであろう。だとすれば、逍遥の挑発に乗る、というのも有りということか。


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