こう見えて私自身は、地道に枝葉を伸ばすように今に至っている、と考えている。あるいは思い込んでいる。唯一、発表する気などなく、ただやってみたい、とヒートアップしたのは、野島康三のピグメント技法に一目惚れし、オイルプリントを独習したことで、枝葉が伸びるようにとはいえなかったが、結果的に、現在の手法、陰影のない一種のピクトリアリズムの遠因となったのは間違いがない。 一休宗純を作っていて、その枝葉の連なりとして、ある禅師が気になっている。実に興味深く魅力的な人物のわりに、墨蹟などは残されているが視覚化されている要素が少なく、手掛けるべきモチーフが私に向かって両手を広げているように見えている。考えないようにしていても、一休が佳境に入った隙を狙って縦列に並んだサメの歯のように、次は俺の出番だ、と出っ張って来るのであった。