明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



寒山と拾得は、他の人物と違って、精霊、妖怪じみるべきだと思っていたが、おかげでリアルだ、といわれた豊干禅師と3人並んだ『三聖図』となると違和感あるかもしれない。どちらかというと、整合性にこだわってしまうところがあったが、一皮剥けたか、そんな◯◯の穴の小さいことでは寒山拾得には届かないと考えた。様々芯をずらすような感じに作った。これは写真が残っているような実在した人物では試みることは出来ない。 それもこれも主役なのに年が明けても出来ていないくらい難航した挙句に得たことである。しかしそれも、金魚を眺め、考えずに感じるまで待とう、と心がけたこと、予定になかったラインナップを作ったこと、全体が見えて来た今となると道教的仙人は余計だった、と思うが、それすらもここに至るには必要だったことのように思えている。髪を貼り付け、明日は拾得の箒を作る予定



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朝ドラカムカムエブリバデイの劇中でおしんをやっていた。2回目の個展の時だったろう。おしんの前の森本毅郎のニュースワイドで、個展の告知をしてくれた。相当数観られたろう。 あの頃は、ジャズ、ブルースシリーズで、一部を除き架空の人物であったが、40周年を前に、再び架空の人物に戻って来た。まさに思えば遠くに来たもんだである。一回目の個展は、あらかじめ作ってあった作品もあったが、翌年の2回目はプレッシャーで全く作れなくなり。キャンセルしようとギャラリーに向かったくらいであったが、一年禁酒して臨んだ。 テレビで酒場のシーンが出てこようと平気であったが、ただ一人、金原亭馬生の落語だけは別で、だんだん酒が回ってくる馬生に耐えられず顔を観るとすぐにチャンネルを換えた。まさか後に父親の志ん生を作ることになるとは思わなかった。禁酒明けの最初の日本酒で、人生で最初で最後となった二日酔いをした。 あの頃は独学、無手勝流に苦しんだが、今では、頭に浮かんだ程度の物は形になる。眼高手低という言葉があるが、眼と手が同程度が理想と考え、入った物は出て行かない、と必要でない技術、知識は身に付けないよう心がけた。周りを見ずに、頑なに自分イメージだけにこだわってきた。結果、良いか悪いかはともかく、独学、無手勝流でないと至らないであろう、寒山と拾得になったのではないか。明日は髪を貼り付けよう。



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寒山の表情にはどこか見覚えがある。ブログ内を検索して判った。当日のブログは見つからなかったが、その日のことを思い出しているブログを見つけた。20年以上前だろう。東京駅電車内、発車して間もなく、一車線おいた向こうのホームに並んだ客の中、前からニ、三列目に、オールバックに三白眼の妙な空気を発する顔が見えた。時間にして一秒あったかどうか。いつか悪魔でも作ることがあったら使ってやろうと思った。ようやくその出番が。私には犯罪現場を目撃されない方が良い、なんて書いていた。 人間の生きた喜怒哀楽の表情を見たければ酒場に行くが良い。引っ越し以来会うことは少なくなったが、私が三大酔っ払い、と名付けた連中はシラフだと人の目もまともに見ないような連中ばかりであったが、中に鼻を殴られたことある?と聞いた爺さんがいて、鼻筋といえる物がほとんどない。思い出して寒山と拾得の鼻に採用した。特に寒山の額に深い2本のシワを入れたら横顔がさらに似てしまった。精霊あるいは妖怪の類いのつもりなのでこれで良いのである。



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〝私が月を差すとき指ではなく月を見ろ”とブッダはいったそうである。言葉に囚われることは、指を見て月を見ないことである。言葉では伝わらない、と禅画が描かれた理由もここにあるのだろうか。かつてバスガイドの山田邦子は、右手をご覧下さい。一番高いのが中指で御座います。といったけれども。 ところで自分でも何故寒山拾得なのか判らないまま約一年。ようやく解って来た。最後になってしまった寒山の首が出来て、やはり私のような渡世は、自分で作ってみる事でしか打開も解決もない、と改めて。これで個展会場では、まるで策がなく、行き先も見えないまま、水槽の金魚を眺め暮していたことなどお首にも出さず、初めから計画通り、予定通りこうなりました。という顔をすることにしよう。 ところで最後に出来た寒山にはモデルがいたことに本日気が付いた。すっかり忘れていたが。どこかで見た表情だ、と。数十年経ちようやく記憶が役に立った。最近ブログがくどく長い。明日にしよう。



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昨日のブログの、月を指差す寒山のことで友人からメールが着た。 ブルース・リーに教わるまでもなく〝考えるな感じろ”は知っていた。何のことはない、頭を使って企んだことはことごとく外し、欲動のままやったことに限り、何かに導かれるような結果に至る。元々自分の頭の性能を疑っていたので、早々に気が付いた。 友人からのメールは、ブルース・リーのセリフの続きを知っているか?であった。禅的な何かの引用だろう、とは思っていたが。「Don’t think. feel! It’s like a finger pointing away to the moon. Don’t concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory.」考えるな感じろ!それは月を指差すようなものだ。指を見ていては栄光はつかめない”  何故寒山拾得なのか。ようやく見えて来た。



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いよいよ拾得が持つ箒を作る頃である。素朴でざっくりとした箒にしたい。寒山拾得には描き継がれて来たパターンがある。代表的なのは巻物を持つ寒山、箒を持つ拾得。まさにバカボンのパパとレレレのオジサンである。赤塚不二夫只者ではではない。これでいいのだ。様々な所に詩を書きつける寒山。横で墨をする拾得。その他二人で寄り添って笑い合っていたり。この辺りは2人の子供を描くようで良いだろう。天台宗国清寺の炊事場で働く拾得、そこへ現れる寒山のために、残飯を竹筒に詰めて渡している。必ずやってみたいのは、寒山が月を、月が出ているであろう上空を指差している。これは寒山に限らず、禅画では良く描かれるモチーフである。 後は豊干、虎、寒山、拾得が寄り添い眠る『四睡図』 人形用ヘアーを注文。以前河童で使ったのと同じ繊維であれば良いのだが。



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高校の夏休み、バイト代に釣られて鉄骨運びのバイトをした。腕力だけではないな、となんとなくコツを掴んだ時には夏休みが終わり、もしや人生もこんな調子で終わりを迎えるのではあるまいか?とふと思ったことを覚えているが、いよいよリアルになって来た。なのに実際は、これから登るべき山を見上げながら、そのふもとに向かって尾根を下っているような、理不尽な想いに歯噛みする気分を相変わらず味わっている。40年も登っていると、ショートカット用吊り橋など、どこにもないことは知っている。それでも登る山があるのは結構なことではあるし、物心ついてからこの山を登るべくして登っていることを納得しつつある。それに本日、拾得に遅れて寒山の首も完成し、後は人形用毛髪を貼り付けるだけである。今日の午前中には絶対戻りたくない。



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〝どうでも良いことは流行に従い、重要なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。”と小津安二郎はいっている。私とは渡世が違うので、そのまま参考にはならないが。 鉄拐仙人の杖は鉄製で、なので鉄拐といわれているのだが、持ち手がTの字型で多くは描かれる。寒山と拾得は髪はボサボサ、爪は伸び放題なのに髭が生えているのを見たことがない。私でいえば〝どうでも良いことは歴史に従い”となろうか。 今回つくづく感じたのが、歴史上の絵師達は先達の物を写すことが学ぶことであった、ということである。仙人の顔立ちから何から、ちょっとしたポーズも、オリジナルな表現だと思っていたら、前例があった、ということばかりである。モチーフ、お題を古典から拝借したものの、それにかこつけ、ここぞとばかりに人物像を創作したい。一番美味しい創作のし所なので、その点は自分に従いたい。それでも蝦蟇仙人だからといって本人がカエルヅラしている必要はなかった、とは思っている。



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布袋尊の撮影。陰影の有る普通の撮影。七福神としては唯一実在した人物とはいわれているものの、イメージ上の人物に、さもこの世に有るかのように陰影を与えるなんて。こんなことに関し、ただブログでぶつぶついっている。あまり話は通じないだろう。それで良いのだ、それが良いのである。この孤独感こそ私の大好物であり、一般人が家庭の団欒に包まれているような温かい心持ちになる。これは物心ついて以来なので着ける薬はない。 何度も書いているが、やらずにいられない、それがたかだか小さな人形を作り、写真を撮ることであったのが幸いである。やらずにいられない、それがどういうことか、私には判っているので、ある種の犯罪者に対しても同情的である。犯罪者にも明らかに死ななきゃ治らない”考えるな感じろ”タイプがいる。私は冗談めかして良くいうが、”これは生まれ付きなので私には責任がない。脚が短かったり、不細工に生まれたのが、その人の責任ではないように”  余計なことはいうまい。私は自分のやるべきことで手一杯である。



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ここ数日、寒山や布袋の顔を作ったり修正したりしていてつくづく思うのは、数十年実在の作家を作り続け、おかげで首、表情を自由に創作するという、美味しい所を味わい損なっていた、ということである。何しろそれが面白くて40年前に、架空のジャズ、ブルースマンを作り始めたのではなかったか。しかも、最初は写真なんて撮るつもりなどなく、見る人の解釈に任せるため無表情ばかり作って来た。写真で撮ることになると、無表情な分、陰影で表情を演出できた。しかし陰影のない石塚式だと、陰影の助けも借りられないが、ここに来て、ようやく好きに表情を創作出来ることになり、すでに今まで作った以上の笑顔をここ一年で作ってしまった。本日は満腹布袋尊に着色。



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最近おそらく目が覚める直前だと思うが、リアルな夢を見る。粘土を着けている所もブログにしてもすべて本当のことで、起きているのと変わらない。これは追い詰められると良くあることである。しかし追い詰められるといっても、好きでやっているのだから大したことはないけれど。無呼吸症候群による影響かもしれない。昨晩は装置を着けずに寝ていた。   寒山拾得が気になったそもそもは、由来の解らない顔輝派の笑顔であったろう。昨年作って気に入らなかったのは顔輝派的な表情だったからである。そういえば、三遊亭圓朝を作った時、鏑木清方の名作圓朝の顔が写真と違うし何か企んだような表情も納得が出来ず苦労したことを思い出した。   子供の頃何が嫌だったか、というと〝まねっ子饅頭豆屋の小僧”といわれることであった。せっかくこの歳までいわれずに済んでいるのだからという気がする。



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寒山拾得の首がほぼ完成した。首が出来れば出来たも同然である。結局作ることによってしか打開も解決もなく。20代30代の初め頃までは、”私はこうだ”といいたがりで、情報誌片手に作品展など見て回ることもあったが、自分のことでさえ何も判っていないことに気付き、頭を使ってもロクなことに至らないことも判り。以来〝考えるな感じろ”でやって来た。そして至ったモチーフが寒山と拾得なのかもしれない。 七世紀の初め閭(りょきゅういん)という官吏がいて、ある日頭痛に悩んでいたところを豊干という僧に治してもらう。聞くとこれからの任地先天台の国清寺から来たという、その寺には寒山と拾得というものがいて、実は文殊と普賢だという。そこで何かためになることでもあるか、とりょきゅういんが二人を訪ねると、「豊干がしゃべったな。」と笑いながらどこかへ行ってしまった。



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