明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

完成  


昨年12月27日に母が亡くなり、2週間後に私が冠動脈の手術で、何かと慌ただしかったが、こんな時に、よりによって新たなことを始めてしまったが、作ってさえいればなんとかなる。母の四十九日までには、と思っていたが間に合った。 宗時代の中国。日本からの留学僧により日本にはまだ本格的な禅が根付いていないことを知り、日本に渡ることになる蘭渓道隆。後に建長寺の開山となる。その遠くを見る目の先にあるのは、これから訪れる日本なのか?或いは真理の道なのか?そのつもりはなくても、この間の私の様々な思いが反映していてもおかしくはない。



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途中挫折の可能性を低めるために、長期の予定を立てず3体まで、というのはグッドアイデアだったが、新しいことを始めてしまえば、そんな悠長なことはいってられない。平面的な、陰影(立体感)を与えられたことがない人達を手掛けたい。今の所、松尾芭蕉、葛飾北斎、一休宗純、大覚禅師、無学祖元であるが。浄土宗の法然上人を完成させ、資料として迫真の頂相が残されている臨済宗にこだわらなければ、私が作る踊る一遍上人も見てみたい。一休が尊敬し、二十年間、乞食の中で修行したという大燈国司も、白隠禅師描く乞食大燈像とは違うリアルなアプローチを試みたい。ここに至れば、多少の毒を食っても回る前にくたばるだろうから、健康より食いたいものを食うべきである。毒もものともしない最強の年頃といえなくもない。それを友人にいったら、お前が身体にいいもの食ってるとこ見たことないけど?といわれた。



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山頂より遠くを眺める大覚禅師、細部の修正を残し完成。写真にあらがい続けた私の長い旅路は、個展会場で、ジャズ、ブルースをモチーフにした写真作品を、人間を撮影した実写に間違われた。そんなおっちょこちょいが一人いたことに始まる。腐るほどあるジャズ写真風な物を、わざわざ人形作って制作するなんてまっぴらである。長い旅路の果ての答えが、陰影を排した手法のはずだった。予定通り寒山拾得など説話中の人物制作に進んでいれば。それが鎌倉や室町時代の人物を手がけてみると、腐るほどある当時の肖像画風な物を、わざわざ人形作って制作している人になってしまった。気がついたのが死の床でなかったのが何よりである。 さすがに鎌倉時代にカメラあったんですか?なんておっちょこちょいは現れまい。

 



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陰影がない世界では、艶や輝きも存在しない。川瀬巴水など新版画の作家達は、陰影のない浮世絵と陰影のある西洋画法の盾と矛を上手に使い分けている。その間で水の反射、輝きを表現している。石塚式ピクトリアリズムは絵画調ではあるが、あくまでカメラで撮影された写真なので特に水の表現には限界があった。 艶といえば、数年ぶりに大覚禅師の肌を磨いて肌艶を加え撮影。曇天だろうと電灯の灯りだろうと色温度などかまわないが、本格的に〝現世“に帰って参りました、という気分で〝まことの陽光“を使いたい。岩山の先端に立つという設定で石を撮影。主役は画面の真ん中に、出来るだけ大きく配したくなるが、長辺150センチのプリントにする予定なので、背景の青空を広く見せたい。



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自分を焦らしているつもりはないが、大覚禅師の撮影を前に、次に再撮予定の無学祖元の色の塗り直しをやっておくことにした。無学祖元は大覚禅師の後に来日し、同じく鎌倉は円覚寺の開山となる。円覚寺の山号、瑞鹿山は、無学祖元の法話を聞こうと白鹿が集まって来たことから付けられた。前作では作った白鹿を使ったが、現世の光を与えるとなれば、上野動物園の鹿を撮りに行くつもりだが、鹿の角は3月ごろ、生え変わるために落ちてしまうことを急に思い出した。 ここ数年行ったことも見たこともない中国の深山風景さえ作ってきたので、存在しない物は撮れないという、写真最大の欠点を久しぶりに思い出した。イメージのためならどんな奇手でも使う所存ではある。ドストエフスキーを作った時、意外と透けてまばらなアゴ髭は粘土では表現できない。ロシアの文豪のアゴに、我が陰毛を合成しようかと一瞬考えた。問題といえば、実行した場合、黙ったまま墓まで持って行く自信がない。

 

 

 



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田代まさしがドーパミンというのはセックスの時でも150から300だが覚醒剤だと1000ぐらい出てしまう、といっていた。 私には自分を焦らして、創作上の快感を高めよう、という悪癖があるが、結果、集中力が高まるという実利的効果がある。まして昨年末まで、新たなことを始めるとは思わなかった。つまり臍下三寸、丹田辺りのもう一人の私に、性能が今一つの頭がついていけず、当ブログでああだこうだ駄文を晒し、擦り合わせついていこう、というのが正直なところである。 件の快感物質については、よくこの状況で笑っていられる、と少々頭の足りない人を見るような顔をされるが、私からいわせると、よくアレなしで、あるいは150から300程度で、こんな現世で生きていけるものだ、と感心している。しかし亡き母に、そういうことは決して顔に出してはならない、と幼い頃から躾けられたので、ここだけの話にしておく。完成したはずの作品を塗り直しながら。

 



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たまたま昨日の誕生日に大覚禅師(蘭渓道隆)立像がほぼ完成した。先日亡くなった森永卓郎は、一学年下らしいが、死を覚悟し13冊も書いたそうである。私は一休禅師の〝門松は冥土の旅の一里塚〜“のせいで死の床であれもこれも作りたかった、と苦しむであろうことを恐れ続けた。そのおかげで作り残しを避けるため作り続けてきたし、さらに途中挫折を避けるため、先の予定は3体まで、という策を弄していたのに、その一休のせいで、これで終わるつもりでいた陰影を排除する手法から、鎌倉、室町時代の人物には、むしろ陰影を与えるべきだ、と新たなことを始めることになってしまった。やはり頭で考えたことは上手く行かない。そこで頼りは、幼い頃からお馴染みの快感物質である。大覚禅師に陰影を与える期待感で、どうでも良くなっている。冥土の旅の大きな一里塚とならないものだろうか。

 

 



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人生上の皮肉といえば大げさだが、写真やパソコンなど、かつて嫌いだったり、苦手だったりしたことばかりが、現在主要な手段となっている。そして何より、超が付く面倒くさがりが1カットのために時間を費やし、年々面倒な方向に突き進んでいる。 手法により適合するスタイルというものがあるのだろう。陰影を排した手法は、構図の自由さは得られたが、どうしても長焦点レンズ的になり、古典的日本画調になった。それが一転、鎌倉、室町など、絵画上、陰影が与えられたことのない人物に陰影を与えようとなると、デジタルカメラを手に、私一人鎌倉時代に降り立ったような顔をして、あれだけあらがい続けて来た〝写真的“に撮りたくなってくる。これを人生上の皮肉といわず、ポジテイブな意味での転がる石に苔むさず、ということにしておく。



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写真発明以前の人物制作は参考写真を集めて始めれば良いが、それ以前の人物を手掛ける場合、元にする肖像画の、描写が肝心なのは当然だが、生前に製作された寿像、没後に製作された遺像があるとしたら、迷わず寿像を選択する。そして何より、これが実像に近い、と信じたなら、他の作品が、どんな巨匠の作だろうと、文化財だろうと一瞥もせず、師の姿を後世に残そうとした人達の想いをひたすら尊重する。 各地方、各時代に制作された別人が如き像が存在する場合も多く、それぞれが拝されている。『ミステリと言う勿れ』の第一回で久能整が、かつて誤認逮捕をした刑事にいう〝真実は人の数だけあるが事実は一つ“まさにである。私なりにではあるが誤認制作?は避けたい。そしてその像に陰影(立体感)を与え、それを被写体に現世の光を与え撮影となる。昨年末より様々あり、ようやく大覚禅師立像、着彩に入る。


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月一のクリニック定期検診。母もそうだったが、椅子に長時間座っていると、膝から下が浮腫む。そこで心臓の検査を、ということになった。いやこれはそうではなくて、と思ったが、紹介された病院に行って、冠動脈2本に不具合が見つかった。自覚症状がまったくなかったので運が良かった。このままでいたら岸部一徳得意の、心筋梗塞の発作をいずれ起こしていただろう。昨年末、タウン誌の連載に、私の死生観に影響を与えた一休禅師について書いたが、初の入院について触れたので、ホームの母に心配させても、と退院してから見せるつもりが知らずに逝った。 区の定期検診で安心している連中に、それじゃ絶対見つからないぜ、と島帰りの悪党のようにアドバイスしているが、区の定期検診といえば、小学生のように、おじさんがパンツ一丁で並ばされる、とずっと思い込んでいたので、冗談じゃない、と様々な不具合の発見が遅れた私であった。



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頂相は大体きょくろくという背もたれのある椅子に座っており、脱いだ中国風の沓が台の上に置いてあり、だいたい斜め45度を向いている。禅宗でも黄檗宗の隠元禅師などは真正面を向いている。その辺りの事情が知りたいところである。沓も今の寺で用いられる沓とは趣が違うようだが、絵画として描かれているので参考になる。 陰影を排除した手法を始めたことは、結果的に、寒山拾得を入り口として、信仰心に欠ける私を鎌倉や室町時代の高僧制作に誘導することになった。作家シリーズから、このモチーフへの移行は、他にどんなストーリーも考えられない。水木しげるの漫画で、奇妙なものに出会った少年が、今のはなんだったんだろう?などと、うっそうと描き込まれた山道をぶつぶついいながら歩いてる、そんな場面がたまらなく好きだが、今朝の私は寝床の中でそんな感じであった。

  

 

 

 

 



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法衣の色というのは色々決まりがあるようで、つい無難な色にしてしまう。しかし昔の頂相(禅宗の高僧の肖像画)を見ると、なかなか色彩に富んでいる。二十代の頃、深夜、ジャズのラジオ番組を聴きながら、架空のジャズマンに色を塗っていた。ちょうどその時、モダンジャズギターの開祖、チャーリー・クリスチャンが、飛行機から降りたった時の服装を説明していたが、モノクロ写真しか存在していない時代の人物ゆえチンドン屋か?と唖然として筆が止まった。私が作っているのが架空の人物だというのに、こんなことで良いのか?以来(多少)カラフルになった。制作中の昨年末に母が亡くなり、その二週間後に冠動脈の手術を受けた。まして実質的に新シリーズの一作目である。大覚禅師の遠くを見る目に、あるいは法衣の色に多少でも、私の何らかの想いが反映されていても良いのではないか。



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親に似る、ということがあるなら親に似ない、ということもあるだろう。工学部出て脱サラするまで錨’の設計をしていた父は日曜大工が趣味でノコギリからカンナ、砥石の使い方、パンダ付けなど子供の頃に教わったが、ことごとく下手くそであった。こんなことをしていると器用だと思われるが、そんなことは全くない。頭に浮かんだ物を見てみたいの一念のみで、その方法は、合理的とはいえない。執念の分、作品に何某か趣が加わっているのではないか、と期待してはいるけれど、実情はその分膨大な時間を費やす結果となっている。今日はある作業を試み、ただイライラして断念。腹立たしいので何を試みたかは書かない。



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