花鳥風月・・・気ままな写真日記

ようこそ、どんこの小部屋へ。ゆっくりくつろいでください。
日常を出来得れば自然と融合したいと思っています。
 

「無医村に花は微笑む」  筆者との60年ぶりの手紙での再会

2007-06-16 | 文化、文学、芸術
 平成19年6月16日(土)

無医村に花は微笑む―亡き妻が遺した「花笑みの村」での村医十九年

ごま書房

このアイテムの詳細を見る


 去年の12月8日の記事で、この「無医村に花は微笑む」の著者・将基面 誠氏のことについて紹介したところたくさんの方からコメントが寄せられ、感動一入のものがありました。 記事
 小学校3年次のほんの短い間の出会いでした。ずっと探していた人の名前に巡り会った喜びは言葉では言い表すことが出来ませんでした。

 出版社へ手紙を託す方法も考えましたが、ずっと控えておりましたところ、今年の4月、将基面氏のご子息(次男・匡昭様)から、思いがけなくブログにコメントをいただいたことがご縁となって、かれこれ60年ぶりに、手紙での上で再会を果たすことが出来ました。

ご子息のコメントの記事

 12月8日の記事はご子息の匡昭様がコピーをしてお父様に差し上げられたと伺いました。
 匡昭様とのメールのやりとりをコピーで報告し、4月26日、こちらから先にお手紙を差し上げました。今は公園になっている小学校の跡地や4年生になってからの学芸会の写真等を添えました。3年生次の写真は1枚も写っていません。終戦直後で写真どころではなかったのです。
 私信なので詳しい紹介は出来ませんが、すぐにお返事をいただきました。お母様の故郷と言うことで身を寄せていたこと、平壌の収容所から脱走し、命からがら祖国の土を踏んだことなどが詳しく綴られていました。
 「あまりに身辺の変化が激しくてしっかりした記憶がありません」と綴られていました。やむを得ないことです。

 一家で身を寄せられていたI家のM子さんは将基面さんのいとこだと分かりました。私と一緒に級長をしていた聡明な彼女は中学2年で夭折しました。転居先でこの報せを受けた将基面氏はお母様共々涙を流したと述懐されていました。

 将基面 誠氏が一時転校されて私たちと一緒に過ごした校舎の一部です。学校の百年史(昭和51年刊)より引用しました。



 現在は校舎は新築移転して、公園になっています。昔を偲ぶのはこの榎だけです。



 将基面さんが送ってくださった対談や人となりが掲載されている機関誌等の一部です。



 岩手県では中学校道徳の副読本にもご本人と親交のある津村節子氏の文章「花笑みの村」の格調高い文章が採用されています。



 他の機関誌の関係記事です。将基面 誠氏の業績の一端や人となりを伺い知ることが出来ます。





 44歳の若さでお亡くなりになったお母様は「男は将来命を賭けないといけないような事がある」と諭されていました。そして亡くなられる一週間前の「直情的にならないように」と言う言葉が遺訓になりました。
 「親は尊敬の対象ではなく敬愛の対象」とおっしゃる氏の言葉には説得力があります。

 ブログを読んでくれた多くの方々から、その後、将基面 誠さんとは連絡が取れましたか?著書を読んでとても感動しました、身内にもこの著書をプレゼントしました、テレビドラマは見ました等々多くの反応がありました。

 出会いのきっかけを作ってくださったご子息の匡昭様、気軽にお手紙をくださった将基面 誠様に心からお礼を申し上げます。

 そしていつも応援してくださる私のブログ仲間にはこの稿で報告に代えたいと思います。本当にありがとうございました。





 
 

 
 
コメント (17)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「湧水の郷」 と早咲きのコ... | トップ | 雨を迎えた紫陽花・ユリ »
最新の画像もっと見る

17 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
数奇な運命 (momomama)
2007-06-16 06:46:59
おはようございます。
変わったお名前に遠い昔を思い出されたことから
書かれていた記事を 拝見して、私も
「無医村に花は微笑む」読みましたよ。

後にブログでご子息のコメントを拝見して
他人事ながら、よかったと感動しました。

この方のようなお医者様や本に書かれていた村長さんがおられる村はいいですね。

どんこさんの「級長」姿
どんなだったでしょうね。。。。
返信する
良かったですね~~?? (とん子)
2007-06-16 08:33:13
このようないいお話・・全然知りませんでした。。
息子さんのコメントも読んでみました・・

昔の事を懐かしく思い出されていらっしゃる気持ちがとてもなんだか人事には思えません!!
そんな時代でしたからね~~~??
級長さんこの言葉もなつかしか~~??
何となくほろり・・とん子も大分時代を思い出しました。
となりのN市にいた同級生が私と二人でやっぱり・・してたんです。。彼はUターンして大分へ??寂しくなりました。。
故郷は遠き似て思うもの??それは悲しい言葉??
年1回くらいは行きたい所かな??
しんみりしたどんこさんのお話でした。
返信する
人は母親によって大きく成長する・・・ (縄文人)
2007-06-16 14:34:14
・・といってしまえば男なんて・・・・と、時限の低さを与えかねない。
 将基面 誠氏の無医村に掛けた情熱は人一倍、いや何倍も努力してで余りありましょう。真髄に一本通っ信念、村人に対する奉仕、どうにかしなければという一念であった事でしょう。

それにも増して、妻春代ざんの遺徳は、計り知れないものがあったことでしょう。
いったんは、あきらめかけた無医村行きの決意を再びさせたのは春代さん
「・・・お父さんの、無医村に掛ける夢は、そんなチッポッケな事だったの・・・・」と奮起を促し、村に赴任してからも先頭に立って医療や村の発展に貢献した。

12/9日のblogを拝見し、十二分に心に留めていた感動秘話でした。

 将基面 誠氏との手紙のやり取り、中味の濃いお話が出来て本当によかったと思います。
大分での3年間という短い月日であった事でしょうが、話は尽きない事でしょう。
 旧交を暖めて、隠された国保・田野畑村診療所のドキメント物語の一端をお話願えれば嬉しいです。

春代夫人それに級長で一緒だった疎開先の??子さんのご冥福をお祈りします。

返信する
追記 (縄文人)
2007-06-16 20:51:50
4行目に追加してください。

≧44歳の若さでお亡くなりになったお母様は「男は将来命を賭けないといけないような事がある」と諭されていました。
この一文をいつまでもいつまでも、心に秘めて無医村の為に貢献したのでしょう。
母は強し、女性は強し。
返信する
運命 (えみりん)
2007-06-16 22:25:05
こんばんは~♪
どんこさんの去年の12月9日のブログへお伺いしてみました。
記事ではリンクされていないようです。


 >無医村に花は微笑む
えみりんは、フジで三浦友和・伊藤蘭で放映されたこの番組を見ました。
だって、引越しの荷物のほとんどが梅の木だったシーンは感動的でした。
村にとけこむ為の梅の木…花は微笑んだんですよねぇ
この無医村の医師がどんこさんの同級生ですか?
すばらしいです。…

えみりんが学級委員になった時には、父が『級長さん』ってそういえば呼んでいました。(笑)
返信する
感動再び~ (^-^ayura)
2007-06-17 14:00:09
良かったですね 

これこそドラマになりそうな話ですね~
胸が一杯になりました!! 
返信する
あーよかった! (まころん)
2007-06-18 23:13:13
二人の「誠少年」たちが、60年を経て交流が再開するのか?とても気になっていました。

すばらしい大人に成長し、すばらしい仕事をし遂げ、ちょっと余裕の年齢を迎えられた今、人生っていいなーと、人ごとながら感無量です。

再会もあるのではないか?また、次の展開が気になるところです。


返信する
素晴らしい内容 (siawasekun)
2007-06-19 02:48:28
素晴らしい内容ですね。

じっくり、ゆっくり拝見させていただきました。

これほどの内容は、今まで、ブログで拝見したことはありません。
感動しました。

ブログ交流って、本当に、いいものですね。
ありがとうございました。
返信する
つながり (orangutansmomo)
2007-06-19 20:18:51
インターネットは、怖い部分もありますが
こんな交流は、逆にありがたいですね。
うまくつながって良かったですね。
温かい気持ちになりました。
ありがとうございます。
返信する
遅くなりました (どんこ)
2007-06-20 22:32:28
momomamaさん

それにコメントをお寄せいただきました皆さん、返信が遅くなったことを心からお詫び申し上げます。

実はこの稿をアップした16日の朝から4泊5日の北海道ツアーに参加しました。やっと今夜(20日)帰り着きましてパソコンを開いている次第です。
momomamaさん、
将基面さんの著書を読んでいただいた上に、心温まるコメントまで頂戴し、お礼の申しようもございません。
村長さんの行政能力に着目されたのはさすがだと敬服しました。我が意を得たりです。
返信する

コメントを投稿

文化、文学、芸術」カテゴリの最新記事