帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

理不尽に叱る

2005年12月10日 | 研究-教育・育児

今日は娘を厳しく叱り飛ばしました。
理由は簡単です、約束を守らなかったということ、たったそれだけです。
今日は友達と一緒に映画を見に行っていたのですが、その映画を見た後、うろつきまわることなく帰宅することを約束していました。
大型の映画館があるこの町は、駅前にデパートやらトイザラスやら、さまざまな店が並び、その誘惑にこの年齢の女の子なら惹かれ始めるのが普通です。 新宿や渋谷などに比べれば、危険性はゼロに等しいところでもありますが、私は仲間とウロウロすることを禁じています。
年齢の上昇に伴う開放というものが必要だと考えているからです。
世間では、年齢が11歳、小学5年の女の子になれば、話して聞かせるだの、目線に立つだのというおかしな理論真っ盛りのころですが、私はそのようなやり方には真っ向から反対ですので、たとえ友達の家が許そうが許すまいが、私の家のルールを、絶対的なものとして適用しています。
しかし、娘が帰宅したの夜7時。
映画は12時半頃終わり、それから昼食を食べたとて、2時。 それからバスで帰るとして、3時半には家にいなくてはなりません。 
私は帰宅した娘にビンタを食らわすと、怒鳴りつけました。
理由を聞くと、食事後トイレに言ってる間に、お別れする前にみんなが黙って行ってしまった、だから帰ることを告げるために探していたとの事です。
それも4時間近く?・・・・・
たとえそれが真実であろうがなかろうが、そんなことは関係ありません。
これが嘘で、友達とふらふら遊んでいたのかもしれません。
なぜ、帰宅しなかったのか? もし遅れるのなら、自宅に電話くらいはできるわけです。
嘘をつくことを極端に嫌う私は、絶対嘘を許しません。
ですから、それが嘘である事がわかれば、さらに激怒することがわかっている娘は何度聞いても、同じ事を言います。
友達は食事後にうちの娘だけ帰宅することを知っており、そのこともあったのか、行ってしまったのは間違いないようですが、友達にしてみれば、自分たちの行動とは別行動をとる娘に対しての、あてつけ的な物があったのかは分かりません。 これには私も経験があります、グループの中で、一人でも違う行動をとろうとすると、リーダー格の子が仲間はずれにしようとする行動です。
正しくないいじめといえばよいでしょうか? まあ、それが事実かどうかはわかりませんが、仮にもそれまで同じ行動をしていたのですから、「それじゃ!」「気をつけてね」といって別れの挨拶することは常識なのです。
それは娘にしても、娘の友達であっても最低限の礼儀としてなければいけません。
娘には、それをする事を礼儀のひとつとして育てていますから、何の連絡もなくいなくなった友達に、帰ることを伝えるために、本当に探したのか?
そのあたりの事実は、今だわかりません。

先も書きましたが、しかる理由は約束を守らなかったことです。
それが上記のような理由であったとしても、許可の絶対条件である、直帰は守らねばならず、それができない要素があるなら、その旨を電話するなりできたわけです。
娘の話では、夕方5時ころには合流できたようです。
このようなことがあった場合、話を聞いてあげる事は大切ですが、聞くのとしかる事は別物です。 話して聞かせればというのは、一見格好よく見えますが、実はとんでもないことです。
というのは、親は正しいトラウマを子供に持たせなければなりません。
同じ目線に立って話せば、とにかくその場は収まります、親も大変楽です。
しかしそれは、まだ子供が親より体格的に小さく、思考も幼いうちは成り立ちますが、やがて成長に伴い、嘘もうまくなり、親にしかられないよう、巧妙な細工もするようになります。
叱られずその場をすませることを繰り返すことは、子供は反省の気持ちより、「してやった」という気持ちが強くなり、それを蓄積させていきます。
そしてそのまま成長を続ければ、だんだんと自分の価値観や主張が表れ、親を超え始めます。 そうなれば、親など自分以下の存在としてしか見なさなくなり、言うことなど聞く必要等なくなるわけで、さらに、親という存在が絶対でない存在として育ってきていますから、初めから終わりまでなめてかかります。
それがやがて学校をなめ、社会をなめきる態度へと変化します。
親は子供が社会を見渡すための窓のような存在です。
親をみてそれを社会として育つのです。
娘の言っていることは真実かもしれません、そうであるなら、私がしかる事は単なる親の権力を暴走させていることになります。
ただ、ここで肝心なのは、私がしかりつけていることは約束を守らなかったという事に限定され、それを超えることはありません。
はじめから最後までそれに付いてだけなのです。
不理屈だろうがなんだろうが、まず約束を破ることによって自分にもたらされるものを心に叩き込む、これは理屈ではなく、約束を守らないと大変なことになるのだという、正しいトラウマを娘の心の中にしみこませるために親が品ければならない重要な仕事です。
やがて、娘が成長を遂げたとき、家族に対しても、友達に対しても、そして社会に対しても、約束を破ったときの怖さという漠然としたイメージとして残り、それは染み付いた習慣として生き続けます。
真実を話しても叱られる事は、自分の思い通りに行かないことに絶える訓練でもあり、学校や社会の矛盾をなんてことないものとしてやりすごす力になります。
ひとしきり怒鳴りつけたあと、私は耐えられずに風呂にはいってしまいました。 誰が好んで子供を叱るでしょう、娘の将来、人生を考えるがゆえに叱らねばならない。
その親の思いを汲める子になってもらいたい。
自分にもたらされるあらゆる誘惑を振り切り、自らの力で正しい道を選びながら歩く力を持ってもらいたい。
そのためには親もつらい思いをしなければならないのです。