夜、トイレに行ったところ、トイレが清掃されて、ピカピカになっていました。 あれ?と思い聞いてみると、娘が掃除したそうな。
そういえば、お茶汲みが差別だと問題になったという話を何度か
耳にしたことがあります。
このことについては、私は女性がお茶を汲むことに差別的なものを
持ち込むことに違和感を覚えています。
というのは、お茶を汲むことは非常に高度な事と、私は捉えているからです。
私の若い時代は、職場に女性はいませんでした。
そのため、それに類する仕事はもっぱらぺいぺいである私の仕事でもありました。
正直、初めはその仕事がいやでしたが、やがて、そこにさまざまな工夫があることに気がつきはじめました。
まあ、お茶ではなくほとんどがコーヒーだったのですが。
同じ作るにしても、粉の種類、入れ加減、温度、時間など、さまざまな工夫があり、それにより、普通の豆でさえも、うまく入れることが出来れば、
かなりの味になることなども繰り返すうちに学びました。
また、メーカーや、砂糖などのあるところを含めて、その周りを常に衛生的に保つことに面白さを見出し、誰もが安心して、かつ気持ちよくコーヒーを楽しめるように、工夫もこらしました。
言葉になど出すことがない、男所帯であっても、感謝されていることは空気で読むことは出来ました。
単にお茶を入れるというだけのことですが、それをバカバカしいものだとみなす姿勢は、その人間がいかに鈍感で愚で有るということを自分でさらすのと同じ事です。
差別ととる姿勢は、自分勝手な理屈しか通さない姿勢をあらわしてもいます。
お茶をいれること、その小さなことが、どれだけ重要ことかが分らない人間に、部下を使う能力など有りはしません。
部下の仕事を自分で勝手にランク付けするからです。
あの豊臣秀吉が、なぜ天下人となれたのだろうか?
彼が、単なるお茶汲みをなぜ芸術にまで育て上げたのか?
普段何気なくしていることの中にどれだけ心豊になれることが含まれているか?ということを悟るのは大切な事なのです。
黙ってトイレをきれいにした娘の、心の中はどのような気持ちで満たされていたのかを、覗いてみたい気持ちになる私でした。