昨日の事です、娘になんだか元気がありません。
「なにかあったのかな?」と問いかけると、「友達が怖い・・・」と言うのです。
ついに来たなという思いが私の心を駆け巡ります。
人であれば必ず訪れる瞬間です。
この日の為に私は娘とさまざまな事をし、共にすごしてきました。
“なぜ、怖いのか?” 私は娘とそのことについてそれからかなり長い時間話をしました。
怖いにいたった経緯を短くまとめるは難しいのですが、要約するなら、自分が一番信じていた(信頼していた)友達の陰口(悪口)が娘の心を大きく傷つけたということでしょうか?
娘には幼い頃より仲の良い友達がたくさんいますが、その中でも特に気が合う子が何人かいて、遊ぶことも含めてその子達が中心でした。
時は流れます、それぞれの子がそれぞれ成長を遂げ、それに伴い、その子なりの性格や個性が出てきます。
以前から気にはなっていた一人の子がいたのですが、その子に絡んでのことでした。
非常にわがままなところがあり、とにかく周りの人間が自分の思うとおりになってくれないと気がすまない。 そんな子です。
その子が娘の悪口を娘の友達に言いふらしているらしく、それを聞いたのが、同じく悪口を耳にした、娘のこれまた仲の良い友達からなのです。
娘は家内に似ているために、そういうことを極端に嫌います。
表面上は仲良くしていて、影でこそこそする。
あまり続くために、「何が言いたいのか知れないけど、言いたいことがあるのならハッキリいえば!」そう娘は言ったこともあったそうです。
そのときの答えは、誤解だ、ちがう、うそだ、など等 のらりくらり。
娘からしてみれば、何人もの友達から同じ内容の話を聞いており、ほぼ間違いのはない事。
そしていまだにその子の行動は修まらないようです。
ここで問題なのは、二人がハッキリと喧嘩になればよいのですが、そうならず、
娘が強く押すと、泣き、その後べたべたとしてくるわけです。
その子の言葉を信用して、そして繰り返し来る裏切り。 それにいい加減嫌気がさしているのが今の娘の心の中ということでしょうか?
こういった場合、私は目線を娘のレベルにまで下げます、娘の年齢と思考ならどう介しているだろうか?をまず探るためです。
しかしながら、それに対しての親の回答は、親の目線からのものです。
親は子供よりはるかに多くの経験をつんでいます、ゆえにその経験を子供に悟らせるには、同じ目線ではできません、親としての目線に立たねばならないからです。
「どうして?」そう聞いてくる娘に、さまざまな例を織り交ぜながら、少しでも詳しく話を聞き、逆に問いかけ、考えさせ、整理していきます。 しかしながらまだ小学生、友達を信じる純粋な心と、それを傷つける現実。 超えなければならない現実と苦しみ。 自分の頭のなかで娘の視線と、自分の視線のギャップにある違いを整理しながら、分りやすく話を進めていきます。
実は、女の子が引きこもりになりやすい第一の原因といってよいのが、この友達関係のひずみにあります。 このとき、その気持ちをほぐし、受け止める存在として父親がそこにあるかというのは、非常に大きな事です。
ただ可愛いかわいいと接してくると、女の子はそこに嘘の姿を見ます、表面の姿だけで見ている事を知っているからです。 そういった娘は父親に話をしようとはしません。
褒められ、叱られ、時としてビンタ(体罰)をされ、そうして幼いときより父親という人間をすべて見せられてこなければ、自分にとって親がどのような存在なのかをしっかりと理解することが出来ないからです。
「感情のままにしかり、褒めよ」の意味です。
娘の口から流れさまざまな悩みをよく聞き、そしてそれをどう処理させるかということに関して、ただ「頑張れとか」、「そんな友達と付き合わなければいいんだ」などという答えを返すはあまりにも愚かであり、明確な答えを子供の心にもたらすには、人とはどういった生き物なのかということを理解させることが絶対に必要です。
それには、人の心の奥底にある、本能というものがとても大事になります。
人は動物の一部であり、ゆえに本能の上に生きています。
男の本能、女の本能、そして人としての本能。
すべての答えはこの本能をどう親が勉強理解しているかにあります。
なぜ、悪口を言うのか? それを解き明かすには、人の本能的な行動を基礎において女の子の本能的行動をおりまぜ、その後に男の子との違い、それがどのようにして友達関係や世の中、そして社会につながっていくのかを分らせなければなりません。
おかしな平等(男女平等含む)意識や、権利意識、人権等、言うならば、大人が形式的に物事を整理するために作り出した物を一切廃し、人というものをきちんと把握しておかなければならないのです。
そのためには、親自身が人というものをもっと深く掘り下げて考えることを、普段から心がけなければ、子供の「どうして?」、「なぜ?」という問いに答えることなど出来ないのです。
「子供が子供を育てているのが今の世の中だ」と。
その意味は、上記のことにあると私は解しています。
すなわち、人を学ばず、ゆがんだことだけ頭の中に叩き込まれて育ち、
ゆがんだ精神と思考で子供を育てる、その末路が虐待であり、引きこもりであり、非行なのだということなのです。
形式でなりたつ世の中において、そのなかでうまく立ち回ることが出来る人間は、確かにそれなりの地位に着くことが出来ます。
ただ、そんなことが一切通用しない子供に、小手先の業等を使ってみても、子供はなおさら混乱するにとどまります。
特に子供に一番近く、一番大きな影響を及ぼす母親が、子供のままである限り、
子供はずっと不幸です。
非行に走る子供の親をさまざまな方向から分析すると、二つのタイプに分かれます、親自身がきちんとしていて、子供は単に跳ね返りの範囲内での非行で納まるタイプ。 このタイプは必ず最後に人として子供に接しています。
反対に人というものをなんら理解しておらず(というか理解しようとしない)、だれだれ教授が書いている、カウンセラーがこういってる、と必ず口にし、やれ男女平等だ、人権だと、自分にとって口ざわりのよい物だけを取り入れ、非常に狭い範囲に浸り、まったく正反対の方向から意見をする人間がいれば、眉間にしわを寄せて、やれ傷ついただの、やれ古い考えだのと拒絶して、歪み切りってがちがちに凝り固まった頭で子供に接している親がいます。
そのため、単なる反抗期に絡んだ非行行動の領域をはるかに越え、とっくに成人する年齢に子供が達しても、いまだ人の道を外れる行為を繰り返している。
話を戻します、なぜ怖いか?
それは人が見返りを求める生き物なのだというところに有ります。
信頼は、見返りでもあります。
裏切られたという気持ちはその見返りが誤っていたということです。
親が子供を信頼する、それは親が期待することを充足してくれるという見返りが根底にあります。
裏切られたという意識は、見返りがなかったか、自分の意図とした結果でなかったということです。
人間という生き物は非常に不安定な生き物です、そして常に自分の利益を一番優先に考えて行動します。
怖さは、見返りの期待が大きいほど大きくなります。
自分が何を求めているから怖くなるのかを分らせない限り、それを取り除くことなどできません。
同時に、見返りは自分のわがままであり、わがままが強くても怖さが増すのだと。
そうであるなら、なんの為に自分は友達と接するのか?
その答えは自分自身の成長であり、そのために互いに競いあい、磨きあい、さまざまな事を通して成長してくるものです。
そして悪口を言われて傷ついたのなら、そこから多くのことを学び、自分のものにする。 自分の持つ形の無い要求をきたいして、傷ついたと考えるのではなく、それもまた自分にもたらしてくれた恵みなのだと切り替える思考。
すなわち、何が起きたとしても、それに対して自分がどう考えるかでそれそのものは大きく変わってしまうのだと。
不平不満だけを並べ立て、表面的にしか物事を考える人間になるな。
自分が豊かな心になれる方向で考える勇気と力をつけなさい、そのためにはもっと傷つき、もっと苦しみなさい。
そう私は娘に言いました。
私の言葉がこの娘の成長に少しでも役に立てればよいけど・・・・・
そう思いながら、話を閉じた私でした。