今回のオリンピックにて、スノーボードで日本は惨敗でした。
まあ、あらゆる面で日本はアメリカにかないませんね。
さて、これらの結果を見て、やっぱりアメリカ人はすごいんだ!なんて考えていたら大間違い。
日本とアメリカでは、選手を取り巻く環境がまったく違うのです。
日本の選手は信じられないほど過酷な条件の下で戦っています。
天国のようなアメリカとはわけが違うのです。
ではどのように異なるのか?
たとえば、バスケットボールというスポーツがあります、アメリカは絶対的な強さがありますが、その裏でどのようなことが起きているのか等、ご案じの方はほとんどいないはずです。
アメリカは日本と異なり、州全体が、小さな町の構成で成り立っています。
そして町と町の間には何も無く、車で隣町まで2時間のドライブ等という事は珍しくもありません。
そういった町単位の世界で構成されている社会では、全体が極端になりがちです。 盛んな町では、子供の頃からとにかくバスケットボールだけ、勉強なんてしなくていい、(現実に勉強しません、才能教育が基本ですから)町の子供達全員が選手で、高校になれば、とにかく町の全てをあげて子供達を応援し競わせます、もちろん親も全員仕事を休んで応援にいきます。
そういった環境では、もちろん強い選手が出てきます。
年に一人でも二入でもNBA等のプロの世界へ行けるのです。
しかし問題は数年後、それらの子供達は選手として活躍しているのか?という事になります。
もちろん何年かに一人くらいは継続してプロの世界を生きていきますが。
大半の若者は、現実を知り町に戻ります。
そしてそれから先は、20歳くらいまでの人生の記憶だけをよりどころとながら、その後の一生を送るのです。
なぜなら、それ以外のことなどなんら学んでくることなど無いからです。
町にいればそれなりの暮らしは出来ます、しかしそれにとどまり、そこからは決してでることは出来ません。 他の町に行ったとしても、高校時代に活躍していた人間のことなどしりはしません、知識も無く、下手すれば足す引くの計算すらできないのですから。
挙句の果てには犯罪を犯し、晩年の人生をだめにする人間すら当たり前のように存在している国、それがアメリカの現実です。
そしてそれが自由です。 アメリカは能力が有るとされれば、割と容易にスポンサーがつき、選手はその下で思いっきり練習することも許され、わがままも許されます。 それだけに打ち込める環境が当たり前のように存在しており、能力のあるものは、十分に伸ばすことができる、そんな国です。
しかし、社会構成から始まり、上記のような環境と頃なる日本は、まずスポーツ=無償の概念が頑固に存在し、選手は生活と練習のはざまでゆれ続けなければなりません。
学校できちんと学ぶことを要求され、さまざまなことを両立させなければならないのです。
さらに、選手としてだめになったとしても、生きていける方法を常に意識していかなければなりません。
ゆえにアメリカで8時間練習できるなら、日本はその半分も練習でいないと言うのが現実なのです。
好きなことを好きなだけ出来、それに対して容易にスポンサーがつくアメリカ。
すべてをこなし、無償奉仕的に練習し、負ければ、何の努力もしない人間から好きなだけ文句を言われて叩かれるこの国。
スポンサーを得るには、ひたすら大会などで活躍しなければならず。
常に生活の不安にさらされる社会環境。
アメリカはパーフェクト等と勝手に騒いでいるけれど、選手達が安心して練習できる環境を提供しようなどとは決して呼びかけはしない軽薄なマスコミの姿。
アメリカが強いのはアメリカ人がすごいのではなく、環境の差にあるのです。
私はスノーボードで戦ったすべての選手達に大きな拍手を送りたいです。
君達こそが世界一だと。
最近息子が挑戦的です。
といっても、別に非行行為をするわけでもなく、違法行為をするわけでもありません。
すでにウインドを初めとして、体力的なものや身体能力的なものは、はるかかなたに行ってしまって私には追いつくことはできません。
最近は、再度の砦ともいえる、人というものをどう捕らえるかという事において盛んに攻撃(論争)を仕掛けてきます。
物事に関しての考え方の違いは、たとえ親子といえ、まったく異なります。
ひとつの事にの解釈について、特に人の心が絡んでくることに関しての論争的なものに対しては本来答えなどありません。 しかしながら、真正面から挑んできます。 こちらも神様ではありませんから、人間性というものにおいて欠陥はいたるところに存在します。 そのさなかにおいて、私自身がさほど気にしていなかったり、気づいていなかったりといった部分を、息子の言葉から気づかされます。 同じようにして、息子も私から学んでいるはず?です。
正しい方向で親の力を試し、自分の力を試し、自分がどこまで成長できているのかを冷静に判断する力と能力が備わるのが、反抗期の終盤に訪れるものです。 私から見れば、自分の感情をコントロールしながら、物事を考えたり処理したりする能力の完成まじか、すなわち大人への最後の一歩といったところです。
スクールに入る前の中学時代は自分を見失っていた上に、考え方が幼く、なんら勝負になるものでは有りませんでしたが、すでに年齢は18歳、たくさん本を読むこともあり、最近はいたるところで私のほうが敗北することが多くなりました。
まともにぶつかると若さに負けそうになるため、押し出してきた場合、一度撤収し、隙をみて攻撃を反撃し、押し戻します。 家康的戦術で対抗といったところでしょうか。
いや、年齢をますことで巧妙になる、ズルさ、爺くささともいえるかな・・。
「私なんぞ相手にしておらず、はよ踏み越えていけ!」と願います。
これが終われば、私が彼に勝てる事は、長年の経験で積み重ねてきた芸(技術)だけということになります。
こればかりは、彼も容易に抜けるものではなく、さらに膨大な学習と努力がひつようですが、中学時代になんらの勉強もしてこなかった彼にとって、容易なことではありません、当面こちらの優位は保てそうですが、ただ、息子が同じ方向に進む気は無いこと(教員になるといってるため)から、こちらの部分で負けることはこの先もないでしょう。
ほっとしますが、絶対息子に負けたくないと言う思いと、早く踏み倒していけという不思議な気持ちが絡み合う、それが父親と言う生き物なのです