数日前、僕が関連していたプロジェクトが無事に終了。
引き渡し前の一日は、朝5時から夜の10時半頃までずっと現場だった。
元請けの会社は 日◯石油の関連会社で、高速道路から滑走路、果てはマンションまで手掛ける大企業。
コアシステムの納品元は僕の大嫌いなT芝で、ここは最後の最後まで、ロクでも無い人間ばかりだった。
エリート意識だけの駄目会社・・・・・
直に関わっているわけではないけど、設計段階から携わり、 最後の一日は引き渡しの為のシステム統合テスト、途中で生じたトラブルの原因追求やら、他に僕自身がダイレクトに受注していた少作業まで併せて、わりとテンヤワンヤ。
何しろ時間制限があって、その時間内には絶対に終わらせねばならない。
現場で各エンジニアの方々とあれこれ一緒にやっていたら、いつのまにやらコーディネーターみたいな状態になってしまって、 最後にはあれこれ支持したり、提案したり、進めたり。
「ナンジャラホイ!」 と自分で笑ってしまうが、 システムを、メインとなって設計した技術者さんは何かある度に汗だく(冷汗)になっているのが僕にも判って、ビビる度に僕が呼ばれて「大丈夫ですよ!」という言葉をかける度に安堵していた。
僕が確認することで、二重に問題ない事を認識できるからですけど、
「気の毒だよな~、でもこれが彼の仕事だし・・・・・」と、思ったりもして
お昼を回った後に最終テスト段階に入り、それに伴って自分の持ち場が完了した業者が徐々に帰り始め、一番最後まで残ったのは元請け会社の現場監督、 電装設備総合元請け会社の社長、 これ又発注元の巨大組織検査官と、同エンジニア、そして同組織の現場代表の僕、併せて5人。
後は納品のT芝の設備モニターが数人(こいつらはどうでもいい存在)。
設備運用側としての、技術的検査完了確認書面へのサインをして、これで僕の仕事は終了となりました。
後は翌日の引き渡しですが、これは契約だけの世界なので僕には何ら無関係。
なので、最後の最後だけ少し顔出して終わり、3時間だけ寝て5時には再び現場に来ていましたけど(笑)
毎日沢山の人が来て、ゴシャゴシャしていたのがまるで嘘のように静かになった現場をゆっくりと見て回りましたけど、数百人、いや千人近い人が何らかの形で関わり構築されたシステムはただ静かに佇んでいる。
プロジェクト初動段階からの事を思い出しつつ、 人の輪(和)というものがどれほどに大切なものであるか?という事を再認識する僕。
人はそれぞれの持つ力で輪(和)を構成することによって、あらゆることをなし得る。
決して奢ること無く、常に謙虚な姿勢で構成された和(輪)ほどその能力も大きくなるわけで、晴れ渡る空を仰ぎ見つつ、なんとも充実した心持ちとなる翔なのです。
週末はどこの海に行こうか・・・・ こう見えても一応は海の男です、ただし、ド下手!ですけど えへへ
人という字は 歩く姿そのもので、どこぞの左巻き放送局がドラマで垂れ流した”支えあっている姿”等ではない。
人編のつく漢字を洗い出せば簡単に解るが、状態や業を表す漢字と組み合わせてある。
すなわち変化そのものを表し、人偏を付けると、常に未来と過去が文字に存在している漢字になる。
これが支えあってという解釈だと、例えるなら 傷という字等だけど、甚だ頓珍漢で意味不明の解釈となる。
傷は”人歩く姿”と、”矢”、そして”地平線を登る太陽(沈む夕日)”の姿の3つをかけ合わせてあり、戦(果実を得るための仕事やスポーツなど幅広い)そのものを表す”動き”であり、それに伴いできるもの。
これを支えあう解釈を入れると、他の二つの意味が極めておかしなことになる。
他にも像とかもそうだけど、なぜ具体化するのに人が支え合うのか?が意味不明となる。
歩く姿(進歩)でなければならない。
支え合う姿が人という文字という解釈だと言うなら、その字には一番重要な”進歩”という意味は存在せず、何故ならどちらかが歩み出せば簡単に崩れ去るものだからだ。
人は生まれながらに単独独立した存在で有り、進歩そのものであり、故に歩く姿。
もし支え合う意味を持たせたいのなら、もう一つ漢字を付け加えた 人間という言葉が一番適切な表現となる。
人同士の間をどう創り上げるか? それにより支え合う事が可能になる物で、共産主義、社会主義よろしく、漢字でもって「支えあい(”愛”)」を強制される結われ等、どこにも無いからだ。