「8ノット」
どれくらいの時間が経ったのだろう、すこし慌てる僕・・・・
時計をみると、たった数分の事だったと知り、少しだけ安心する。
青い空は変わらずで、一つだけ違うのは太陽の角度がさっきより左にすこしずれているだけの事。
ウトウトしているわずかな時の狭間に、バウ(船の先端)へ降りた数羽のカモメが羽を休めている。
船の速度は8ノット、静かにヒール(セイルに風を受けて傾いた状態)するハル(船体)は滑るように海面を飛ばす。
このところ、彼女の事で掻き回されている僕は少々寝不足。
右の遙か彼方に、わずかに見える陸をちらりと見てラットを固定、急ぎウインチのロックを外し、両腕でメインシートをギリギリと引き込む。
*クルーザーはセイルを引き込むときにハンドウインチを使います
そして再びラット(操舵輪)をリリースすると、少しだけ船をクローズ方向(風上)へ向ける。
ヒールは増し、右のガンネル(船の横ヘリ)が海の中に浸り始める。
速度は10ノットに増し。 南の風は、僕の体に夏を届けつつ、北へ向かっていく。
「秋を呼びに行ってるんだろうな・・・・」 なんて少しだけ思う。
もう一度空を見ると、 ブルーを割るように真っ白なセイルが風を孕んでいる。
デートの約束をほっぽらかして、船を出した僕。
焼きもち焼で、可愛くて、心に素直なあの娘。
きっとプリプリ怒りながら、ハーバーへの道を車で飛ばしているだろうなと・・・・
そう思うと、クスリと笑いが出てくる。
バウが海面を割るたびに上がる波飛沫は シーブリーズによってさらに細かく砕かれ、太陽と結託した虹を僕の前に創りあげつつ、後ろへと流れていく。
少しだけ大きなブローがやってきた、コンパスはそれを浮遊させている液体の中で揺れ動きつつも、同じ方向を指し示す。
時計をみると、時刻は14時13分、そろそろ帰らないとね。
メインセールのウインチロックを解除、同時にラットを回すと、マストは独特の振動をハルに伝えつつ、 船は風上を向き、そして、そしてぐるりと回頭する。
オートマチックジブ(二枚帆の前)がまず風を捉える、少しだけ遅れて、メインセイルに風が入るのを確認すると、 ウインチにシートロープを数回巻き付け、 ギリギリと巻き上げる。
両腕の筋肉が盛り上がるけど、十分に焼けた腕はウインチに似合うなと一瞬だけ思う。
ブローを捉えると船はヒールを初め、押し出す様に34フィートのクルーザーを走らせるが、 すこしだけランニング(追い風)方向へ向けているせいか、不安定だ。
コンパスを再度確認して、 ラットを右へ数分(5度位)だけ進ませると、なつのストリーム(気流)の中に、ヨットはすっぽりと入りこむ。
潮の流れはマリーナ方向へ進路をとっているので、 2時間もすると多数のマストが見えてくるはず。
さっきと真逆の位置に来た太陽が、新しい顔を僕に見せてくれているけど、
少しだけ困った表情をしている、 「わかっているよ・・・」、 どう彼女に言い訳したらよいかを心配してくれているんだよね。
「ありがとう!」そして 「なんとかなるさ・・・・」
ラットをもう少しだけ進ませる。
ヒールはさらに強くなり、多数の虹が現れては消え、 相変わらず南の風は僕の傍らを黙って通り過ぎていく。
耳に入るのは風の音と、波の音、 とても静かで居て、幸せな一時。
マリーナに段々と近づくけど、 もう少し行かないと防波堤に阻まれた桟橋は見えない。
タック(方向転換)した際に驚いて飛び去ったカモメが再び現れると、今度はマストを支えるサイドステイに留まろうと試みる、 それは真っ青に踊るホワイトの踊り子。
しばし翼の動きに瞳をとられるけど、無事にマストに留まったのを確認した僕は視線を前に。
白と濃紺で彩られた、建物、 多数のヨットには傾き始めた陽光が当たり、全てを輝かせている。
そして桟橋に眼を移すと、 真っ白なワンピースが両腕を大きく振ってここに居るよ!と合図している。
怒っているはずなのに、 合図って・・・・
すこしだけ、苦笑いする僕だけど、 どうやら今夜はとびっきりの夕飯をおごらされそうだ。
そう思いつつ、オレンジが少しだけ入り始めている夏の光に照らし出される彼女を目指して、僕は舵をにぎる。