真鶴町は箱根連山と、相模湾につきでた真鶴岬に抱かれるようなスロープにできた面積7平方キロ、人口9200余人の小さな町である。山から見ると、真鶴半島を鶴の首に見立て、鶴が羽ばたくような姿からこの地名ができたと言う。
この小さな町が脚光を浴びたのは、「まちづくり条例」の制定のときである。いまでこそ国の施策にも「美しいまちづくり」などと美をうたったものが出来ているが、条例と言う法律に抽象概念である美の基準を取り入れたことは例のないことで、注目を集めたのだった。そもそもまちづくり条例が生まれたきっかけは、バブル期の、あちこちで起こった野放図の開発、特にリゾート・マンション建設に待ったをかける必要からだった。こんな小さな真鶴町に50もの計画が持ち込まれようとしていたのである。
さかのぼると1973年、用途地域指定がすすめられており、県の案と町の案が示された。開発優先の町案に私たちは待ったをかけた。そこで町との話し合いの末、委員会に住民代表を数人送り込み作業に当たった。私が議員になったのは用途地域指定、真鶴有料道路問題、また真鶴岬に500室もの大型ホテルの計画が持ち上がっていたこういう時期、結婚して真鶴の住人になって9年目のことである。当時環境相だった三木武夫元総理の所にも、津田県知事のところにも行った。
用途地域指定で土地所有者らが譲らなかったところが無指定地域として残された。また海岸地域を特別風致地区にしたのだが、あとになってわかったのだが、それが生かされていなかった。無指定地域は傾斜地が多かったので、まさかこんな地に開発の手が及ぶとは思わなかったのだろう。しかし建築技術の進歩でこういった崖地でもなんなく建物が立ってしまうようになった。ここがリゾートマンションに狙われた。土地は安い、無指定だ。しかも防御するのには宅地 開発等指導要綱しかない。
要綱というのは指導的なものであり、法的効力はない。デベロッパーに言わせると真鶴町など「赤子の手をひねるよう」に簡単にやられてしまった。条例とは自治体がつくることが出来る最高の法律である。
真鶴町には水資源がない。隣町から高い金を出して水を買っている状況だ。水道法15条には建築物には水を供給する義務がうたわれている。少ない水をマンションのために用意しなければならない。
熱海のようなコンクリートの塊は自然が豊かな真鶴にはふさわしくない、町民が反対運動に立ちあっがたのは当然である。
たまたま町長選に二人の議員が立候補し、議員の補欠選挙も行われることになった。私は3期で議員を辞めていたが、マンション攻勢から町を守るには即戦力になると判断して、再度立候補し再選された。私のミニコミはここから毎月新聞折込で全戸配布しつづけている。
さて、そのときリゾートマンション攻勢から町を守ると公約して町長になったのが、三木町長、今回湯河原との合併をすすめ、住民からNOをつけつけられ、その責任をとって辞任した町長である。給水規制条例、地下水規制条例制定と、建設に待ったをかけていった。それでも先に許可になったものは建設されてしまった。町の開発の許可は県の仕事である。県は地元を知らない。まして国の建築基準法は机上の産物である。
その後、現状に合わない建築基準法は見直され、メニュー方式に改正されている。
戦いが始まった。県は指導要綱でいいと指導する。しかし指導要綱で守れなかった町は条例をつくると対抗する。このときの県知事が「地方の時代」を提唱した長洲知事であった。もちろん私は長洲さんの支持者だった。長洲さんとは大喧嘩した。「真鶴から地球の友へ」と長洲知事への抗議を世界へ発信した。連携してくれた人たちは多かった。
リゾートマンションは投機対象で値段は高騰、億ションも当たり前だった。やがてバブル崩壊、野放図の建設は規制は出来たのだが、水使用は少ないし、滞納などリゾートマンションが残した問題は少なくない。
湯河原町と真鶴町は広域行政で協力している。だから三木町長は日頃、頭がふたつ、体はひとつ、いずれ合併してひとつになるべきだとは口にしていた。私のミニコミのサブタイトルは「小さな町こそすばらしい」である。小さな町の方が顔の見える関係で、協力しやすい。この町の住民意識は少ないがゆえに育てられている部分も多いと思っている。しかし、どうしても合併が反対と言うのでもなかった。そのためには先ずは両町民が交流しなくてはなるまいと思っていた。もちろん個人的には知り合いはたくさんいる。
ところが合併問題が急激に動きだしたのは、国の特例債が示されてからである。どうせならもらえるものは貰おうという考えが優先したのだ。これが2年前のことだ。
今回の合併騒動はここから始まる。
この小さな町が脚光を浴びたのは、「まちづくり条例」の制定のときである。いまでこそ国の施策にも「美しいまちづくり」などと美をうたったものが出来ているが、条例と言う法律に抽象概念である美の基準を取り入れたことは例のないことで、注目を集めたのだった。そもそもまちづくり条例が生まれたきっかけは、バブル期の、あちこちで起こった野放図の開発、特にリゾート・マンション建設に待ったをかける必要からだった。こんな小さな真鶴町に50もの計画が持ち込まれようとしていたのである。
さかのぼると1973年、用途地域指定がすすめられており、県の案と町の案が示された。開発優先の町案に私たちは待ったをかけた。そこで町との話し合いの末、委員会に住民代表を数人送り込み作業に当たった。私が議員になったのは用途地域指定、真鶴有料道路問題、また真鶴岬に500室もの大型ホテルの計画が持ち上がっていたこういう時期、結婚して真鶴の住人になって9年目のことである。当時環境相だった三木武夫元総理の所にも、津田県知事のところにも行った。
用途地域指定で土地所有者らが譲らなかったところが無指定地域として残された。また海岸地域を特別風致地区にしたのだが、あとになってわかったのだが、それが生かされていなかった。無指定地域は傾斜地が多かったので、まさかこんな地に開発の手が及ぶとは思わなかったのだろう。しかし建築技術の進歩でこういった崖地でもなんなく建物が立ってしまうようになった。ここがリゾートマンションに狙われた。土地は安い、無指定だ。しかも防御するのには宅地 開発等指導要綱しかない。
要綱というのは指導的なものであり、法的効力はない。デベロッパーに言わせると真鶴町など「赤子の手をひねるよう」に簡単にやられてしまった。条例とは自治体がつくることが出来る最高の法律である。
真鶴町には水資源がない。隣町から高い金を出して水を買っている状況だ。水道法15条には建築物には水を供給する義務がうたわれている。少ない水をマンションのために用意しなければならない。
熱海のようなコンクリートの塊は自然が豊かな真鶴にはふさわしくない、町民が反対運動に立ちあっがたのは当然である。
たまたま町長選に二人の議員が立候補し、議員の補欠選挙も行われることになった。私は3期で議員を辞めていたが、マンション攻勢から町を守るには即戦力になると判断して、再度立候補し再選された。私のミニコミはここから毎月新聞折込で全戸配布しつづけている。
さて、そのときリゾートマンション攻勢から町を守ると公約して町長になったのが、三木町長、今回湯河原との合併をすすめ、住民からNOをつけつけられ、その責任をとって辞任した町長である。給水規制条例、地下水規制条例制定と、建設に待ったをかけていった。それでも先に許可になったものは建設されてしまった。町の開発の許可は県の仕事である。県は地元を知らない。まして国の建築基準法は机上の産物である。
その後、現状に合わない建築基準法は見直され、メニュー方式に改正されている。
戦いが始まった。県は指導要綱でいいと指導する。しかし指導要綱で守れなかった町は条例をつくると対抗する。このときの県知事が「地方の時代」を提唱した長洲知事であった。もちろん私は長洲さんの支持者だった。長洲さんとは大喧嘩した。「真鶴から地球の友へ」と長洲知事への抗議を世界へ発信した。連携してくれた人たちは多かった。
リゾートマンションは投機対象で値段は高騰、億ションも当たり前だった。やがてバブル崩壊、野放図の建設は規制は出来たのだが、水使用は少ないし、滞納などリゾートマンションが残した問題は少なくない。
湯河原町と真鶴町は広域行政で協力している。だから三木町長は日頃、頭がふたつ、体はひとつ、いずれ合併してひとつになるべきだとは口にしていた。私のミニコミのサブタイトルは「小さな町こそすばらしい」である。小さな町の方が顔の見える関係で、協力しやすい。この町の住民意識は少ないがゆえに育てられている部分も多いと思っている。しかし、どうしても合併が反対と言うのでもなかった。そのためには先ずは両町民が交流しなくてはなるまいと思っていた。もちろん個人的には知り合いはたくさんいる。
ところが合併問題が急激に動きだしたのは、国の特例債が示されてからである。どうせならもらえるものは貰おうという考えが優先したのだ。これが2年前のことだ。
今回の合併騒動はここから始まる。