もともと宵っ張りの朝寝坊である。年をとると早寝早起きになるから、宵っ張りの朝寝坊は若い証拠だとからかわれている。夜中に本を読んだり書き物をしたりするのは、以前は、電話や来客で集中している意識を中断したくないからだった。それが習い性になって、いまでも続いている。
寝たら最後、ちいとやそっとのことでは目を覚まさない。熟睡もいいところ、地震なんかもほとんど気がつかない。
ここのところ、朝寝坊が朝早く起されている。なんとニワトリたちにである。卵やsanの卵をチャボオバサンにだかせて、家で孵った家つき鶏だ。シロ、ブチ、ピコの3羽がいる。全部メスである。あ~、今日、外のケージではまたヒヨコが孵ったようだ。シロにしてもブチにしてもピコにしても、個々に名前をつけたので、個として存在している。名前を呼び、おいでと言うと、その鶏だけがやってくる。完全にそれぞれが自分の名前を認識している。ウサギもそうだ。自分の名前は覚えている。
退院後すっかり早起きになったPapasanが6時ごろには鶏たちをケージから出す。シロ、ブチ、ピコは家の中のケージで寝ている。シロはケージに一羽、ブチとピコは相部屋だ。遮光のカーテンがかかっているから、開けなければ鶏たちももう少しは寝ているはずなのだが、Papasanが起きるから一緒になって起きてしまうようだ。
ケージから出た鶏たちの毎日の行事、待ってましたとばかりに卵を産む。まずブチがテレビの後に座る。ブチは早くてさっさと生んでしまうそうだ。そこまではいいが、生んだ後、「生んだよ」とばかりにコケッコ、コケッコと大騒ぎをする。その騒ぎで目が覚めてしまうのだ。その声に付随して、モーツァルトがかかる。シロが座ったんだろうか?
ブチの次に座るのは、たいていはピコなのだが、時折順序が違ってシロが座ってしまうことがある。シロは3羽の中では先輩格だ。後の2羽は先輩を立てている。しかし、シロはなかなか生まない。待っているピコは盛んに鳴いて早く早くとせかしているが、我慢できなくなると、強引にシロの横に座り、卵を産むこともある。するとシロは追い出されるように外に出てしまう。テレビの後は一間の長さはあるから3羽並んだとて、狭くはないのだが、一緒に並んで生むのはいやのようである。ピコが生んでから、もういちどシロを乗せて音楽をかけてやる。私に乗せられるのがいやだと反抗するシロも、音楽を聴くと素直に座る。音楽は条件反射になっているようだ。シロちゃん、早いときは第二楽章で生むこともある。コッコたちの年中行事は、10時ごろまでかかる。
時折、シロはベッドまでやってきて私の布団に乗る。ネコかと思っていると、シロなのだ。シロは布団の上で、おとなしくなでてもらっている。シロはネコ並みである。
鶏たちに起され、朝食をとり始めると、3羽がやってくる。足元で頂戴、頂戴と、私の手元を見上げている。仕方がないので、ブルサンをおすそ分けしてやる。パンも小さくちぎってやる。食欲旺盛でこの程度ではすまない。仕方なく立ち上がって、鶏たちの喜ぶものを出してやる。まぁ、卵になって返ってくるから、シロたちにやるのは惜しくはないけれど。そんなことで、夕方はうつらうつら居眠りしている。でも早寝は出来ない。
新茶が届いた。去年のは後、半フクロで終わる。新茶を飲んでしまうと無駄にしそうなので、これを終わらせてしまおう。