Nさんから茅ヶ崎の社会教育を考える会の会報「息吹き}を送っていただいた。
先月のことだ、Nさんから「息吹き」に昨年私がブログに書いた、海で遊んでいたときに機銃掃射を受けた経験談を載せてもいいかという手紙を頂いた。もちろん、快諾した。その会報が出来たので送ってくださったのである。
「息吹き」305号の特集は「私の8月15日」。さっそく読ませていただいた。
はじめは「父の戦争」 筆者の父上がなくなる2ケ月前、病室で聞き書きしたのだそうだ。それにしても父上の記憶は確かだ。忘れられない記憶だからだろう。
中国戦線、そして南方戦線に送られた。最後はラバウル。ご苦労なさったのだ。戦争には、人の数だけの思い出がある。ましてや命令で徴兵され、戦わされた人たちは言うに言われぬ辛い思い出がある。
父上の行軍の地名を読みながらいろんなことが思い出される。
よく家に来ていたお兄さんはガダルカナルで戦死した。帰ってきた白木の箱を開けると一枚の紙切れと封筒に砂が入っていた。地図を広げて、一生懸命ガダルカナルを探した。ガダルカナルはソロモン諸島にあった。お兄さんはガダルカナルの土になったのだろうか。テレビで見たのだが、ニューギニア島には未だ野ざらしにされている日本兵の骨がある。それにしてもよくぞあんな遠くまで行ったものだ。今は木材がソロモン諸島からやってきてはいるが。
知人の息子さんから手紙が来た。末尾に「安田さんによろしく。満ちゃんによろしく」と書いてあった。安田さんも、みっちゃんも、知り合いがない。もしかして暗号かもと、親たちが 知恵を絞った。そして安田、満、アンダマンではないか。きっとアンダマン諸島のどこかにいるんだろうということになった。で、またアンダマン諸島を地図で捜した。
よく口ずさんでいた「さらばラバウルよ・・」のラバウル、これも見つけた。
もちろん、今私が持っているようないい地図ではなかったが、それでも小学生の時から、地図を眺めていたので、未だに地理は好きである。
もうひとつ、小柄な可愛い顔をした老婦人と知り合いになった。と言ってもどこにお住まいだか知らなかった。私はまだ50代だったと思う。気を許してくれたのかいろんな話をした。戦時中の話になったとき、彼女が、島の名前は言わなかったが、南方のある島から、急遽撤退することになり、潜水艦に乗って逃げた、と話した。一般人が潜水艦に乗って逃げた、という言葉に緊迫した空気が伝わってきた。「どうしてそんなところにいらしたんですか」と聞くと、彼女はじっと私の目を見て、「わかるでしょう?」と言った。私ははっとして、それ以上、尋ねることができなかった。もちろん慰安婦のことはよくよく読んでいた。戦後すぐ、熱海だから、海兵隊が何のために上陸したかも知っていた。
父は徴兵を受けるには年を取っていた。兄は少し若すぎた。だから直接戦争の惨禍に巻き込まれることはなかったが、ちょっとした時間のずれで、私だって、家族だって同じ運命を余儀なくされていたかもしれない。
Nさんの「東日本大震災 瓦礫の被災地をめぐって」まで読んだ。
今の私は災害地までは行けない。震災後、やっとボランティアが入れるようになったとき、若い知人が被災地に入った。実際はテレビで見る惨状なんてものじゃない、テレビや映像は一方向だけど、あの惨状が360°広がって続いているのだから、と報告を受けた。今日からだったか、和美さんも絵本を呼びかけた彼女といっしょに岩手県山田町に入る。