Cogito

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

本橋成一さんのエッセー

2005-08-13 12:53:41 | アート・文化
前にも書いたが、ブログを初めて一年。まだまだ文を書いて写真を入れるぐらいしかできない。最近アクセス解析に気がついた。そこをクリックするとこのブログのどこにアクセスしたかわかる。それをたどるとキーワードで他のブログもまとめられている。おもしろがって、あっちこっちお邪魔している。たまたま「チェルノブイリ原発事故」から本橋さんのポレポレタイムズにたどり着いた。

本橋さんは写真家であり、映画監督でもある。本橋さんの写真展はよく出かけているし、講演も聞いているし、写真集も持っている。ましてチェルノブイリ関連の写真はよく見ている。「ナージャの村」も「アレクセイと泉」の映画も見ている。「アレクセイと泉」は大好きな作品だ。ベラルーシの人たちに見せて上げようとDVDも買った。製作中の沖縄のおばぁの映画も出来上がるのを待っている。

本橋さんのエッセー「いのちに学ぶ」を読んだ。写真もそうだが、この人の根底には人間へのやさしさがある。

エッセーはこの中に。

http://www.ne.jp/asahi/polepole/times/
polepole/essay/number.html

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ブログ一年

2005-08-07 15:14:27 | アート・文化
ブログを始めてから一年経ったことになる。一年経つには経ったが、まだトラックバックはできないし、リンクもできない。ただ書いてるだけだ。まだまだ。今使っているHPは閉鎖する予定なので、ケーキのレシピなんてやたらと移したが、レシピがほしい人は使いにくいだろうな。どうしたらいいんだろう。

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三岸節子展

2005-08-05 16:16:44 | アート・文化
10
三岸節子展のパンフ

平塚美術館の三岸節子展へ行ってきた。初日に行ったのだが駐車場がどこも空いていなくて引き上げた。今日はいつもよりは人出はあるがまぁ空いている。特別展なのに料金は600円と入りやすい値段。
入るとすぐに、19歳で春陽会に入選した自画像がある。可愛い顔だが、目はしっかりと何かを見据えている。初期のマティスを思わせるような作品より、次に来るヨーロッパを旅して以後の作品の方が強い印象を受けた。ダビンチもミケランジェロもルオーも自分と闘っている。その成果が彼らの作品だ。三岸さんの自分との闘い、自分の本質をにらみ、抉り出し、更に追求を惜しまない、その真剣な姿勢。すばらしい生き方だ。描くことは生きることだ。
色彩感覚は生まれついてのものだが、三岸さんのはそれがいい。

傍らについているコメントも今回はじっくり読んだ。
「エネルギッシュだとはだれもが言うけれど、熟した枝とはだれも書いてない。40代や50代では描けない絵なのに。口幅ったいようだが」というくだりにはおもわずクスリ。

なぜ絵を描くか、と自分に問いかけ、生業のためなら物を売ってもいいではないか、それなのに絵を描く。それは完成したときのしびれるような幸福感を味わいたいからだ、と。

68歳の日記に、朝食に何を食べた・・としるし、「よく食べ、よく眠り、絵を描く。それでよし。と結んでいる。

広野に根を張って立つ巨木のように、何百年も生きるような絵を描きたい、と。彼女の絵は巨木のように何百年もいき続けると私は信じる。展覧会を見ての印象は「すごい」の一語に尽きる。


三岸節子 略歴

1905(明治38) 1.03 吉田永三郎、菊の四女として愛知県中島郡起町字中島(現在の尾西市)に生まれる。(本名・節)。先天性股関節脱臼で6歳のとき手術をする。生家は富裕な地主であった。
1920(大正9)  この年 不景気により父の織物工場が破産。   
1921(大正10) 名古屋の淑徳高等女学校を卒業。
上京して遠縁の紹介で洋画家岡田三郎助のアトリエに通い、指導を受ける。
1922(大正11) 女子美術学校(現在の女子美術大学)2学年に編入学。
1924(大正13) 女子美術学校を首席で卒業。9月、三岸好太郎と結婚。
1925(大正14) 3月長女陽子を出産する。
春陽会第3回展に《自画像》など4点を初出品、初入選。のち第9回展まで毎回入選を重ねる。
甲斐仁代、深沢紅子ら女子美術学校の出身者とともに婦人洋画協会を結成する。      
1928(昭和3) 3月次女杏子を出産する。
1930(昭和5) 9月長男黄太(現:黄太郎)を出産する。
1932(昭和7) 春陽会を離れ独立美術協会第2回展(東京府美術館)に入選。(以後第9回展まで出品)
1934(昭和9) 29歳。7.1 夫好太郎が名古屋で急死。享年31歳。         
1935(昭和10) 最初の個展、三岸節子個展を大阪・美術新論社画廊で開催。
1936(昭和11) 長谷川春子、藤川栄子ら女性画家6名とともに七彩会を結成。独立美術協会会友となる。
1939(昭和14) 独立美術協会を離脱、佐藤敬のすすめで新制作派協会に会員として迎えられる。
1940(昭和15) 朝鮮・中国東北部を旅行。三岸節子個展をソウル・丁子屋で開催。
1945(昭和20) 三岸節子個展を銀座・日動画廊で開催(東京で開催された戦後初の個展)
1947(昭和22) 女流画家協会の創立に発起人として参加、女流画家協会展に第4回展まで出品。
1948(昭和23) 菅野圭介と別居結婚という形で再婚(1953年に解消)。
1951(昭和26) 《金魚》が昭和25年度文部省買上げ美術作品に決定。
《静物(梔子)》で昭和25年度芸能選奨文部大臣賞を受賞。
1954(昭和29) 3月、初めて渡仏する。長男黄太郎の住むパリに滞在。
秋、スペインを旅行。10月、南仏カーニュに滞在。
三岸節子滞仏作品展を銀座・兜屋画廊で開催。
1955(昭和30) 5月、イタリアを旅行ののち、帰国。三岸節子滞仏作品展を銀座・兜屋画廊で開催。
1964(昭和39) 神奈川県大磯町の山荘に転居。
1967(昭和42) 好太郎の遺作220点を北海道に寄贈。
1968(昭和43) 12月、長男黄太郎一家とともに渡仏、南仏カーニュに定住。
南仏の風景を題材に風景画を制作。
1969(昭和44) 女流美術家による総合展「潮」の結成に参加。(第15回展まで出品を重ねる)
以後「潮」展を中心に滞欧作品を発表。
1974(昭和49) 「三岸節子展〈花とヴェネチア〉」がパリ・ギャルリーためながで開催される。
この展覧会の成功により、さらにフランスに留まることを決意。
ブルゴーニュ地方の小村ヴェロンに農家を購入し、移住。
4月、個展のため一時帰国(翌年5月渡仏)。
「三岸節子展〈花とヴェネチア〉」が日本橋・三越本店で開催された。
1976(昭和51) 3月、病気のため一時帰国、大磯で静養(8月渡仏)。
1977(昭和52) 名古屋・ヒマラヤ美術館が開館、三岸節子作品室を設置。
1978(昭和53) 燦々会第9回展に出品。
1980(昭和55) 「三岸節子展〈花と大地〉」がパリ・ギャルリーためながで開催される。
三岸節子展〈画業55年の歩み〉が日本橋・三越などで開催され、100点余りの作品が出品される。一時帰国。
三岸節子新作展〈花とブルゴーニュ〉」が名古屋松坂屋で開催され、新作を出品。
第4回長谷川仁賞を《トネールの白い川》で受賞する。
1981(昭和56) 「三岸節子滞欧作品展」が大阪・梅田画廊で開催され、新作を含む36点を出品。
1982(昭和57) 春、過労のため倒れる。秋、フランスから帰国。
「三岸節子〈花〉展」が銀座・日動画廊で開催される。
1983(昭和58) 第15回潮展に3点出品(最終展)。
7月、腸の手術のため東京・順天堂病院に入院。退院後、大磯で静養。
1985(昭和60) 回顧展「三岸節子展」が神奈川県立近代美術館などで開催される。
1986(昭和61) 秋の叙勲で勲三等宝冠章を受賞。
1987(昭和62) スペインのアンダルシア地方に滞在、スペイン連作の制作を開始。
1988(昭和63) 尾西市名誉市民となる。
「三岸節子展」がパリ・ギャルリーためながで開催される。
1989(昭和64・平成元年) 「三岸節子展」が日本橋・三越本店などで開催され、近作・新作73点を発表。
フランスから帰国、大磯のアトリエで制作活動に取り組む。
1990(平成2) (60年余の画業と女性画壇の向上に努めた功績により)1989年度朝日賞を受賞。
1991(平成3) 「三岸節子展〈画業65年〉」がアメリカ・ワシントン女性芸術美術館で開催された後、日本各地を巡回。
1992(平成4) 「三岸好太郎と三岸節子展」が北海道立三岸好太郎美術館、新宿・三越美術館などで開催される。
1994(平成6) 女性洋画家として初めて文化功労者となる。
「尾西市制40周年記念三岸節子展」が尾西市歴史民俗資料館で開催される。
1996(平成8) 画業70年を記念する「三岸節子展」が渋谷・東急百貨店などで開催される。
1997(平成9) 「三岸節子素描展〈旅へのいざない〉」が日本橋高島屋などで開催される。
1998(平成10) 大規模な回顧展、「三岸節子展」がパリの三越エトワールで開催される。(日本にも巡回)。
11月、尾西市三岸節子記念美術館が開館。
1999(平成11) 4.18 急性循環不全のため、大磯の病院で死去。94歳。
 

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クモ日記8

2005-08-03 10:29:17 | クモ日記
8月2日
「大きいイエグモがいるよ」とPapasan。「アシダカグモでしょう。し~ちゃんが大きくなったのかもよ」と私。
夕方「さっきのイエグモが弱っているよ。ネコにやられたのかな」「えっ、そりゃ大変」と駆けつけると、トイレの前の床に犬の毛に絡まって足をたたんだアシダカ君がいる。なるほど弱っている。触っても足を動かすだけ。「安静にしておこう」と箸を持ってきてつまんで、トイレの網戸につけてやろうと思ったら、落としてしまった。探すと網戸のレールにいる。網戸をそっと開けて、もう一度網戸につけようとしたら、外に落ちてしまった。あらまぁ。外の方が安全かな??アシダカがあそこまで大きくなるのは大変なのにね。

8月3日
コガタコガネをのぞくと、早くも気配を察して網から飛び降りてしまった。

近くにいたオスはもう何日か前から姿をけしてしまった。そのあとにはオオヒメグモが網を張っている。PCのすぐ傍らの網戸にオスが網をかけていたのだが、触るとポトリと落ちるくせに、あっという間に定位置に戻るので、どのくらいの速さで戻るのかそれを確かめようと何度もさわったら、とうとう戻らなくなって、どこかへ行ってしまった。昨日から探しているのだが、どこにいるのかまだ分からない。

主のいなくなったコガタコガネグモの網を見たが、エサの残骸は見えない。かくれ帯もなくなっている。先生さまがかくれ帯を撤収するのはお腹がすいているときだと言っていたが、そうかもしれない。と、目の前の手すりを歩いている黒アリに気がついた。さっそく捕まえて、網に投げた。網は手すりとガラスの間に、外を向いて張られているので、こちらからは狭い側面しか見えない。勘でままよと投げた。次の瞬間、下にいたコガタのオバサンが網でなにやら糸を巻きつけている。どうやらアリが網にかかり、それを察知したオバサンがとびかかったらしい。獲物は糸で白くまかれているようだ。少しして外を見ると、クモは網の中心にアリを持ってきて食べている。さっきは確かに白くまかれていたはずなのに、食べている獲物はアリの黒さが見える。ふ~ん、目の錯覚だったのだろうか。

私のいる場所から網までは1mぐらいある。老眼鏡でも、マクロでは見えないし、双眼鏡も。一番見えにくい距離だ。ただし食べているときは近くまで乗り出しても逃げることはなかった。マクロで写真を撮ったのだが、フラッシュをたかなかったので真っ黒。クモの食事は時間がかかるから、あとにしよう。それより日光の必要な今日の仕事、梅を干す作業を先にした。
20kgの梅をザルにきれいに並べて干す。梅干用の大ザル6ケ、一時間ぐらいかかって、一休みと戻って網をのぞくと、もうアリの姿は跡形もなくなっていた。コガタコガネグモは早食いだなぁ。てなことで写真は撮り損ねた。そこで気がついた。コガタコガネグモはエサの残骸を網につけておかないのだろう。ということは、網に何にもかかっていなくても、エサを食べていないわけではないのだろう、と。とすると、人間様が余計なことをしたことになる。ましてアリには気の毒なことをしてしまった。

8月4日
「おはよう」と声をかけながら、いつものようにそっと網戸を開け、コガタコガネの網をのぞくとクモの姿がない。あれ~、そっとあけたのに早くも察知して飛び降りてしまったのだろうか、とよくよく見るが、いつも飛び降りている下にもいない。それだけでなく円形のきれいな網もなくなっている。唖然、呆然。どうしたんだろう。クモが網を手すりとガラス戸を使って張ってあったので、左の網戸は開けられなかったが、その左の網戸も開けて網のあったところを見るが、網の端っこがついているだけで、円はない。網があった下にも虫の残骸はない。エサが少ないからショバをかえたのかも。それならばらばどこかに生きているだろうから、またお目にかかれるだろう。それにしてもせっかくお知り合いになれたばかりだから、なんとも残念だ。

1

2
つかまったニホントカゲの子

外の洗濯機の横においてある洗濯用粉石けんの容器の裏に、張られていた網にニホントカゲの子どもがかかっている。可哀想に。もう身動きがとれないようだ。

4
トカゲの横っ腹にくらいついた。

8月5日
5
8時、尻尾の部分に見える、この青いのはなんだろう。

昨日のトカゲを見に行った。干からびたように細く小さくなっている。オオヒメグモはまだついている。クモの大きさから言ったら、子どもとはいえトカゲは数倍もある。どこをなにをどう食べているんだろう。クモのおなかはパンパンではない。印象としては昨日のクモより小さく見える。クモが交代したのだろうか。そんなことあり得るのだろうか。オオヒメクモの生態を知らない私にはわからない。

私が写真を撮っているので、ネコのチャドが傍に寄ってきてクモの網のあるとこにもぐってしまった。「こら、出ておいで」と叫んだが、時既に遅し、ネコは背中に網を引っ掛けてしまった。オオヒメグモが逃げる。とんだお邪魔虫だ。あとでのぞくと
洗濯用粉せっけんのポリ容器の20cmばかり下にトカゲはくっついていた。クモは戻るだろうか。

クモはもどらなかった。

8月6日。
ヒロシマ・原爆の日。グリューミオのシャコンヌをかけて黙祷、弔慰を表す。

洗濯用粉石けんの入ったポリ容器についていたトカゲの残骸をピンセットでつまんできた。長さは3cmくらいになっている。
写真で見た青い部分をピンセットでつついてみたが、もう干からびていて、内容はわからない。一応写真は撮った。
6
干からびたトカゲの残骸

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ピンセットの先は1.7cm。

8月7日
11
ザトウムシ

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捕まちゃった


ガクアジサイの葉の上にガンガゼみたいなクモ発見。数えると足は8本ある。写真を撮って、先の方にあるウズクモのかくれ帯が伸びたのを確認して戻ると、玄関脇でガンガゼみたいのがもう捕まっている。捕まえたのはオオヒメグモだ。お主、やるなぁ。
ガンガゼみたいのはクモではなく「ザトウムシ」だった。

ザトウムシ:ザトウムシは、節足動物門クモ綱ザトウムシ目に属する虫である。非常に足の長いものがあり、豆に針金の足をつけたような独特の姿をしている。長い足で前を探りながら歩く様子から、座頭虫の名がある。

英語圏では「あしながおじさん(Daddy Long Legs)」の愛称があるという。

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ヨツデゴミグモの幼体らしい。

ウズクモのかくれ帯がなると巻きになってきた。ウズクモだと思っていたら、みるかし姫さんが垂直網ならウズクモでなくゴミクモの幼体だと教えてくれた。垂直か水平か、どっちだったろう。自信がない。

8月8日
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あれ~、誰かが階段をふさぐように網をかけた。きれいな円形の網が下からでも光って見える。いくら二階へ行くことが少ないとはいえ、そこに網をかけられては困るよ。

「ほら、きれいな網だよ」とPapasanに見せると「今のうちにどかしてやってよ。作りなおすだろうから」そこで階段を上って見ると、クモが上を向いている。「ギンメッキゴミグモだよ」網の下をくぐるようにして背中からみると、やはりギンメッキだ。お尻が水銀の粒のように光っている。かくれ帯もちゃんとある。どかす前に写真を撮ろう。「カメラ持ってきて」と頼むと「このカメラはクモ専用だね」と笑いながら届けてくれた。「だからマクロがつけっぱなしなんだよ。でもクモは小さいから焦点を合わすのが大変でね。三脚は面倒だから、1脚を買おう。まだまだクモ写真家にはなれないね」なんていいながらシャッターを切った。うん、やっぱりフォーカスはあまい。ストロボをたいたのでクモの銀色が飛んでしまっている。シャクだなぁ。「折角きれいにつくたのに、悪いね」と言いながら、ギンメッキにはどいてもらった。

ギンメッキは階段の途中にいたが、二階の踊り場にはオオヒメグモのアンオバサンがいる。オバサンの網はいったん払ったが、少し下にまた網をかけている。網の下に空箱をしいてやった。虫の残骸がたまるようにである。チョウの残骸も落ちている。

8月9日
長崎忌。被爆したマリア像が公開されるという。鎮魂。

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水滴がきれいだったんだけど

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拡大すると

渦巻き網が水平だったか、垂直だったか確認に行ったが、網はそこはもうなかった。クモもけっこう移動するんだなぁ。
ハランの陰に水滴で光ったきれいな網を発見。肉眼では3cmほどの三角形の網に見える。そこでカメラを持っていった。マニュアルでピントを合わせるから、手に蚊がとまっても追い払っていられない。蚊に刺されないように長袖を着たのだけど、露出している手が刺されてしまった。かゆい、かゆい。
写真で見ると小さな網は真ん中だけだったんだ。

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ピンボケだけど

水平の網に渦巻きみっつけた。中のクモはオレンジとピンクをあわせたようない色。これがウズクモかな。
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これが網の主。突然の闖入者(私)に驚いて逃げた

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もういちど渦巻きの網だけを

みるかし姫さんがゴミクモとウズクモの網の粘着性について教えてくれた。「粘糸と篩板糸(しばんし)の違いです]
と。そこでクモには悪いけどウズクモの網を触ってみた、が、両方いっしょに触らないと違いは分からない。

ツクツクホウシの声を聞いた。

8月10日
アサギマダラが庭を悠然と舞っている。風に乗って来たのかな。

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黒いハチを捉えたオオヒメグモ

風呂場に入ったらなにやら黒いものが見える。初めチョウかと思った。黒いハチがオオヒメグモに捕まったのだった。このハチの名は?やたらにいるハチで、子どものころみんながベンジョバチと呼んでいた。傍にいるのはオスらしい。三者横並びを。

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ちょっとムードがあるでしょう。チュウガタシロカネグモのオスらしい。

8月12日
かぽにシフォンをやりに行くと、下の方をなにやら黒いものが赤い物を抱えて行くのが視界の片隅に入った。見ると黒いハチがなにやら「赤っぽい物を抱えている。捕まったのはクモだろう。黒いハチはベッコウバチだろう。急いでカメラを取りに家に走った。運悪く今朝ハゼの実の写真を頼まれて撮ったので、望遠がついている。マクロに取替え、走って戻ることしばし、2、3分だと思うんだが、もうハチの姿はなかった。あの色からすると犠牲になったのはクモはイオウイロハシリグモではなかろうか。ハチの狩はよく目にしている。写真も撮ったことがある。どこへ運ぶのか後を何度も追ったが、いつも最後にまかれてしまっている。

アシダカグモを狩ったハチも目にした。クモはもう足をかがめていた。でもクモが大きいのでハチは重そうに引きずっていた。コンクリートの上に落とすともう持ち上げられないのか、何度も持ち上げようと試みた末、放置して行ってしまった。ハチがいなくなったので、クモを取り上げ、そっと家の中に置いておいたが、結局助からなかった。

ずいぶん昔のことだが、ハチが本棚に巣をつくったことがある。

本棚の後ろからなにやら悲しげな音が聞こえると娘が言った。そこで本を取り出してみた。すると本の後ろから徳利状の土くれが数個出てきた。なんだろうと手に取るとやはり土のかたまりだ。そこで一つを玄関のタイルの上に落としてみた。簡単に割れ、中から小さなクモがたくさん出てきた。狩人バチの巣だったんだ。でもハチの卵がどこに産みつけられているかは見つけられなかった。残った土くれの巣は元に戻してオヤバチが帰ってくるのを待っていた。果たして腰のくびれたお尻に白い線のあるハチが本棚にやってきた。悲しげな音はこのハチの羽音だったのだ。残った巣は外に出してしまった。今だったら孵るまで観察したろうが、子どもも小さかったからそんなヒマはなかった。

学問と言う言葉はギリシャ語のヒマという言葉から出ている。ヒマという言い方は日本語ではいい響きはないが、時間がある、時間に余裕があることは大事だ。全てにおいて学問は時間が必要だ、とつくづく思う。

8月13日

ashidaka
アシダカグモ

アシダカグモのオチビちゃんが風呂場の壁に現れた。体長1cm弱。でも姿はアップで撮ると一人前だ。

横を見ると、風呂場のガラス戸にゲジゲジのチビがいる。みるかし姫さんはオトヒメノマツゲと呼んでいるのだそうだ。そういわれれば可憐な感じもする。

gejigeji
ゲジゲジ

しかしこのオチビ、アップで撮ったら可憐どころか、ちょっとぞっとする。青い部分がないから、さわやかな感じがしないせいかも。

Papasanに「シャワー浴びる?」と聞くと「浴びる」という返事。じゃぁ驚くとかわいそうだから「ガラス戸にゲジゲジの子どもがいるよ」というと「聞いただけで鳥肌が立つ。外に出しておいて」とわめく。そこであけることがめったにないガラス戸を開けてオトヒメノマツゲを外に出した。おかげでガラス戸に糸をつけていたオオヒメグモたちは大混乱。やたらと逃げ惑っている。「ごめんよ」

8月14日
41
チュウガタシロカネグモ

玄関先にクモが網をかけた。「こんなところに網掛けちゃだめだよ。通る人が引っかかったら網を壊されちゃうよ」と言いながら見上げると、お尻の部分の縞が目に入った。見たことある。そこで急いでカメラを持ってきて写真を撮った。クモの位置がちょっと高いので、ましてレンズはマクロなので、カメラを差し出すようにしてシャッターを切った。ピンボケ覚悟。ものさしを持ってきて下からそっと計ると7、8mmってところ。シロカネグモだとは思うけど、チュウガタかなコガタかな??
網は斜めにかけられている。水平と言ってもいいかもしれない。

42
蚊をたたいたら、まだ生きていたのでクモの網に放り投げた。クモはすばやくキャッチ。

ほんと我が家は中も外もクモが多い。外に立つと日の光を受けて網が光っているのが見える。網にもいるんなのがある。多いのは垂直円形網だ。きらきらと水銀の粒が空中に光っている。ギンメッキだね。

8月16日
51
ジョロウグモA

52
ジョロウグモB

曇っていて、風が涼しい。今朝、ちょっとクモを見に外に出ただけで数箇所蚊にさされてしまった。皮膚の耐性が落ちてきたのか、今年は刺されたあとが痒くて、しかも掻き毟るのでおできになってしまう。厚手の長袖を傍に用意してあるのだが、つい半袖で外に出て、この憂きめにあってしまう。

何枚か撮ってきてPCに入れるとピンボケだ。風が吹いているし、三脚を使っていないから無理もないが、もう一度撮ってこよう。ジョロウグモは定点にいるからいいようなもの、チュウガタシロカネグモのオスメスの接近度がさっきは良い位置にいたのだが、こんどは離れている。それでもパチリパチリ。で、PCに入れようとしたら、カードが入っていなかった。デジカメは身についていないから、カードを入れそこなう。初めに「カードが入っていません」という表示は出るんだけど、モニターを見る習慣がないので、気がつかないでそのままシャッターをきってしまうのだ。チャンスの神様は後ろ髪がないんだよ。

ハランの傍のジョロウグモをA、古い洗濯物干し場のロープに網を張ってあるのをBと区別をして、写真を撮ることにした。Aはお尻に赤い色が見える。成体に近いのだろうか。Bは頭に白い色が見える。Bにはお尻に赤い色はない。

チュウガタシロカネグモはまだデートの最中だが、ツーショットにおさめるにはちょっと離れすぎてしまった。またにしよう。

地面はセミの出たあとの穴がいっぱいだ。街中で大きな木が少なくなっているから、ここは彼らの楽園なのだろう。セミの抜け殻もあっちこっち葉っぱにやたらとついている。ミンミン、アブラ、クマゼミ、大合唱だ。うるさいことしきり。

あれま、主のいない横糸にザトウムシの足が一本引っかかった。もがいている。1本だけだから、外れるかな。会津(福島)ではザトウムシをイネカリムシと言うのだそうだ。長い足が稲を刈るサマに見えるからだという。座頭よりいいね。

アシナガバチが葉っぱの裏を探している。なんかの青虫をさがしているのかな。無花果の葉っぱの裏に小さな青虫がついていたよ。行って探してごらんよ。

以前、ヒョウタンの苗を買ってきて植えたことがあった。そのつるを日よけにしようと伸ばし、屋根に這わせた。
ある日のこと、バリバリと言う音に驚いて外に出ると、折角伸びたひょうたんの葉を青虫がたくさんたかって食べているではないか。バリバリという音はこの幼虫が葉っぱを食べる音だった。見る見るうちにヒョウタンは丸坊主になっていく。そのサマや、すさまじいばかり。割り箸を持ってきて、片っ端から虫をつまんで、空き缶に放り込んだ。

つるの周りをアシナガバチがまわっている。何をするのかと見ていたら、青虫を捕まえているのだ。ありがとうよ、でももっと仲間を連れてきてよ、でないと間に合わないよ。人間の目にはアオムシの存在は分かるのだが、ハチには同系色だからか、なかなか見分けられないらしい。待っていては埒があかない。その間にも青虫は葉っぱを食べていく。脱脂綿に灯油をしみこませて火をつけ、青虫をあぶって落とした。でも多勢に無勢、瞬く間にヒョウタンは丸坊主になり、翌日には枯れてしまった。残ったのは青虫の残骸だったが、食べつくして生き残った青虫はどこへ行ってしまったかしらない。

ジョロウグモAは成体、Bは亜成体とのことだ。

8月17日
61
ジョロウグモB

ジョロウグモAのところへ行くと、網はなく、クモはもう少し奥に移動してしまっていた。お尻に赤い斑点があるから、Aだろうとは思うけど。Bも1m弱移動している。昨日は白かった顔が赤く見える。顔の白いのは脱皮の残りかな??たいていの虫は頭から脱皮するから、顔に皮が残ったりはしないよね。

62
網がきれいなので。

ちょっと遠かったけどカメラを差し出してシャッターを切った。これもB群に入る。でもBよりは小型。

重装備はして行ったのだけど、今日も蚊に刺された。何気なく見ると、蚊の集団に中に立っていたのだ。虫は怖くはないのだけど、これにはゾ~。Aのところまで行くにはBの網を壊すことになるのでやめた。

買い物に行きついでに、中華料理店に寄った。冷房ががんがんに利いた店内の壁を、小さな黒いクモがひょこひょこと歩いている。「ハエトリグモだ。お前、上の方に行かないと殺されちゃうよ。」と言いながらよくよく見る。食肢が白くて、腰にも白い帯のあるきれいなクモだ。「この特徴なら覚えられるね」帰ってきて調べると、アダンソンハエトリグモ。都会派だそうだ。そういえば以前はハエトリグモを家の中で見かけたが、ここんところあんまりお目にかからない。

8月18日

ジョロウグモのBのお尻にやや赤みが見える。成体になってきたのかな。赤みのない、B群のチビジョロウグモが、アオバハゴロモを捕まえた。

PCの横が窓、大きく枝を伸ばしたサクラの木がある。この木のおかげで涼しいのだが。だから、セミがうるさいのだ。外を見ているとコゲラがやってきて、盛んに幹をつついている。ムシがいるのかな。サクラの葉っぱはムシにくわれて空が透けている。
暖地リンゴを育てているとき、リンゴの髄を食べてしまう芯クイムシを教えてくれたのはコゲラだった。アオスジアゲハ、モンキアゲハが舞っている。

8月19日

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