Cogito

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2006-05-11 23:17:32

2006-05-11 23:17:32 | 日記・エッセイ・コラム

今日も雨だ。ほんと梅雨みたいだ。そういえば五月雨(さみだれ)とは梅雨のことだったんだ。梅雨といういいかたは五月雨より後のこと。辞書には「陰暦の長雨を五月雨という」と出ているから。

東京へ行ってきた。

上野のヨドバシに行ったので、ついでに都美術館で行われているプラド美術館展を見てきた。会場に入るとすぐエル・グレコが数枚並んでいる。ゴヤもあったが、来ているものは、私にはおもしろくなかった。プラド美術館には行ったことがある。

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日記

2006-05-09 18:00:22 | 日記・エッセイ・コラム

テレビで個人の日記を埋もれさせない活動をしているグループを紹介していた。個人的なことだけでなく、その頃の市井の人の日記が意外と当時の世相を捉えていて役にたつと発言をしていた。

日記をつけなくなってから久しい。しかし、毎日丹念に日記を書いていたころ、私も市井の人間が世相をどう捉え、どう感じていたか、庶民の歴史が分かるようにと個人的のこと以外に、世の動きも書き留めていた。たぶん「アミエルの日記」の影響だったと思うが。その日記はダンボールにつめて下の倉庫に入っているはず。

夫婦でそんなテレビを見ながらの会話。何かのことから「後20年は長生きしてもらわなければ困る」とPapasanが言った。「冗談でしょう。あと20年なんて生きたくないですよ。」「遣り残したことはないの?まだまだやりたいことがあるでしょう?」「遣りたいことや遣り残したことはいっぱいあるけど、そんなこと言ってたらきりがない」「ボクはこれからだけど」「あっ、そう、お好きなように。日本がこれ以上、おかしくなっていくのを見たくないから、私はさっさとおさらばしたいよ」

共謀罪だなんて、治安維持法みたいなもんだ。それより悪いかもしれない。そんなことされてもいいのかねぇ。のんきなキリギリス(国民) は。

そうだな、今の人達、治安維持法なんて言ってもわからないのかも。最近の世相では、日本が治安が悪くなったと考える人が多い。マスコミの影響もある。だから治安を守るためと言えば、国民をごまかすことが出来ると考えているようだ。オーム事件のあと、国民のオーム憎さを利用して破防法を通した。しかしオームに破防法は適用せず、いまだ野放し状態である。破防法成立は先を見ての手段であったと思う。目先のひとつにとらわれると、周囲を見忘れる。そして思わぬ落とし穴に落ち込むことになる。

参考:

「共謀罪ってなんだ」: http://kyobo.syuriken.jp/

                                          

治安維持法 ちあんいじほう :

1925年(大正14)に公布された思想・結社をとりしまる、もっとも典型的な治安立法。第1次世界大戦後の社会運動の高まりに危機感をいだいた政府によって、過激社会運動取締法案・治安維持令をひきついで、普通選挙法とだきあわせて法案可決、公布された。1900年(明治33)に制定された治安警察法が社会運動などの具体的な行為を取り締まりの対象にしていたのに対して、国体(天皇が統治する国の政体)の変革や私有財産制度を否認する思想・信条をとりしまったところに特徴がある。25年に朝鮮で初適用され、日本内地では26年の学連事件で協議罪が初適用。28年(昭和3)の三・一五事件で結社罪が初適用された。

1928年に改正されて、より強力な取り締まり法となった。結社の組織者・指導者には最高で死刑が科せられるようになったほか、日本共産党だけでなく、その支持者や労働運動・農民組合などの活動家にもひろげて適用されるようになった。共産党指導部が崩壊した35年以降は、拡大解釈されて宗教団体や学術研究サークルなどにも適用されることになった。35年の大本教弾圧、38年の唯物論研究会事件をはじめとして、それまで合法的であった信教・思想の弾圧にも利用された。

日中戦争が泥沼化した1941年、いっそう権力に都合のいいように大改正され、より広範囲にわたってとりしまることができるようになった。アジア太平洋戦争に突入してからは、国民の思想統制につかわれた。この時期の弾圧事件には、おもなものだけでも41年に尾崎秀実が死刑になったゾルゲ事件、43年の創価教育学会事件、44年の横浜事件などがある。敗戦直後の45年10月15日にGHQ(連合国最高司令官総司令部)の指令によって廃止された。(エンカルタ百科辞典より)

      

                                             サクランボを少しとった。雨にぬれて果皮がはじけてるのがずいぶんある。熟れているのはスズメやヒヨがつついて種がのぞいている。それでも5分ぐらいで、小さなザルにいっぱいになった。そんな少しの時間でも、腰がいたくなった。で、やめて前に持っていった。取立てはやっぱり新鮮で美味しい。

クモの写真を撮った。名前はわからない。先生さまにきくとしよう。

夜、また雨だ。まるで梅雨みたいだ。ほんとくさくさ。

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ドイツ1997年

2006-05-06 15:42:53 | 旅行記 ヨーロッパ

ドイツは何回も行っているが、これは1997年、ちょうど日記が出てきたので。いまはもう様変わりしていると思う。

5月5日(月)11時25分成田発、KLM。
14時55分、オランダ、スキポール空港着。19時発KLMでベルリンへ。バスX9でホテルベルリン前でおり、飛び込みチェックイン。予約なし。

ベルリン

5月6日(火)
ツォー駅まで歩く。ツォーとはZOO。赤と青の中国風の動物園の入り口が見える。道向こうには空襲で破壊された教会がそのまま残っている。

ひろい歩道に色の違った道がついている。
そこを歩いていたら、後ろから来た自転車にベルを鳴らされた。ここは自転車専用通路だった。

途中でバスに乗り、運転手にシャルトッテンブルクまでの行き方を教わるが、途中にシャルロッテンブルクの駅名に慌てて下りる。ところが地名はシャルロッテンブルクには違いないが、宮殿はさらに遠く、少し歩いて、またバスに乗る始末。

U_file1200206181716311 博物館の壁面には弾痕がいたいたしく残っている。
先ずは「エジプト美術館」に入る。入り口近くの1室にネフェルティティの胸像が置かれている。もっと小さなものかと思っていたら、人並みの大きさ。確かに美しい。しかも知的である。

アクエンアトンといっしょに、歴史始まって以来始めての一神教を唱え、アメン教の神官達から反発されながらも、アマルナ文化を築いた女性だから当然知的なのだろう。
アマルナから掘り出された品々がたくさんある。
アクエンアトン像を始め、他のネフェルティティの像、高度な美術品だ。1917年にドイツ隊によって発掘されたものだそうだが、土の中から現れた、汚れてるとはいえこのネフェルティティの像には、さぞかし驚いたことだろう。
 
エジプト博物館が所蔵しているピカソとその時代展が隣で行われていた。シャルロッテン宮殿を見て回り、バスでツォーへ戻り、100番に乗り換えてブランデンブルグ門を越えて、アレキサンダー広場で降り、テレビ塔に登る。
360度一望できる。ベルリンは広い。しかし美しくない町だ。旧東ドイツ側は趣のないアパート群が続く。ミンスクを連想させる。

大聖堂に入る。

博物館の島へ。ペルガモン博物館に入る。
私はエジプトをはじめ、古代文明史がすきなのだ。
ここは小アジアのヘレニズム時代に栄えた国家ペルガモンの遺跡を展示してある。恐れ入ったとはこのこと。小アジアの建造物をこれでもかとみんな持ってきてしまっているのだからすごい。まさに略奪そのもの。
アレッポの民家を買い取ってきたと言うが、輸送にしても、すごいことをするものだ。

私のお目当てはイシュタルの門。ネブカドネザル王時代のバビロンの都に入る門。両側から青レンガに動物達の浮き彫りをほどこした壁が立ち並ぶ。
さぞかし都へ入る緊張感があっただろう。よそ者には威圧感でさえあったろうと思う。
この断片は大英博物館だったか、ルーブルだったかにもある。

ブランデンブルク門、感慨ひとしお。

電車にのると、落書きがすごい。ガラスまで傷がつけられている。

ザクセンハウゼン

ベルリンのツォー駅から、途中乗り換えてSバーンで1時間弱、オラニエンブルク駅に着く。
ここから徒歩で30分余りのところに、ザクセンハウゼン強制収容所はある。

駅にはタクシーもバスもなく、しかたなく歩き始める。カメラバッグの5kgが重い。

ほどなく日本でいえば中学生の1団に追い抜かれた。多分この子たちも、ザクセンハウゼンに行くのだろうと後を追うが、彼らの足は速い。なんとか彼らの後姿が視野におさまるくらいについていく。
やはり彼らの目的地もザクセンハウゼン。ドイツでは中学生になると、ナチスが行ったドイツの忌まわしい過去をきちんと教えることになっている。

U_file1200206181827591 黒塗りの鉄柵の入り口で「入場料は?」ときくと「フライ(無料)」と守衛が答えた。
門を入ると、緑の並木道が続いている。ただ、これから待ち受けているものを感じると、緑の木立も、小鳥の声も、単純に楽しんではいられない。

突き当たりは大きな展示館。左に折れると、広場があり、2階建ての建物がある。かっての管理棟だ。解放されたときは2階に横断幕が掲げられたそうだ。管理棟の中門を出ると、広大な敷地に、ぐるりと鉄条網のついた塀がはりめぐらされ、ところどころに映画で見たような監視塔がある。とにかく広いので、監視塔ははるかかなたなのだが、
何ともいえぬ重圧感を覚える。

手前にはバラック1とかバラック2とか書かれた細長い小屋がある。以前はここに60棟のバラックが並んでいたそうだが、いまは3棟が展示室になっていて、新聞で見る当時のヨーロッパの様子や、収容所の状況が紹介されている。

先に入った中学生たちは、思い思いにバラックに入り、真剣な面持ちで、説明文を読んだり、ノートしたりしている。

塀を隔てて独房も並んでいる。ナチスの頃は勿論だが、ソ連の管理下になってからもここは政治犯の収容所として使われていた。ここで命を落とした人のだろうか、それぞれの独房には写真や経歴が掲げられ、花が手向けられている。独房近くには絞首刑に使った杭が並んでいる。

広場近くの展示館には、強制収容されたユダヤ人たちの収容所での写真や遺品が数多く展示されている。アウシュビッツの写真と同じ状態だ。生体実験室、切り取られた髪の毛の山、おびただしい靴、拷問具。薄暗い部屋でひとり見ていると、どこからかうめき声が聞えてきそうだ。

残念ながら解説はドイツ語だ。私も初級はやったのだが、解説を読むほどの読解力はない。ドイツ語は夫の領分だ。彼は解説を読みながら来るので遅い。仕方がないので、
拾い読みしながら見当をつけている。

壁のドイツの地図には、当時あった強制収容所の場所が書き込まれている。すごい数だ。やりきれない気持ちで展示館を出ると、そこは広い広場だ。ここはかってユダヤ人たちが働かされていた作業所がところせましと並んでいた。
今は何もない。ところどころに立つ大きな木が、かえって何かを訴えているかのようだ。

三々五々、中学生たちが監視塔や塀際を歩いている姿が小さく見える。

広場の中央近くに高いモニュメントが建っている。台座にはここに収容された人々の国名が刻み込まれている。そのモニュメントの前を通り過ぎると、塀際に大きな屋根だけ
ついた構築物がある。

まわりをフェンスで囲み、中には入れないが、側によって見ると、そこは浴場、すなわちガス室の跡、隣は焼却炉だ。ガス室で殺された死体は、すぐ焼却され、燃え残りの骨や灰はスロープを通って捨てられる仕組み。実に合理的な殺人工場だ。スロープも残灰捨て場も掘り起こされて、人目にふれるようになっている。
ソ連軍が入ってきたとき、ナチスは証拠隠滅を図って、この建物を焼き払ったようだ。そのままに保存されている。

管理棟近くで、ボランティアの人たちが草むしりをしていた。やわらかな日差しの中の、黄色いタンポポの花にほっとする。戻って、大きな展示館に入ると、ここには英語の説明がついていた。それによると、この収容所はナチスの後、ソ連による政治犯の収容所として使われ、1万2千人もの政治犯がここで命を落としたという。そう、この地は旧東ドイツだ。あのモニュメントも旧ソ連による犠牲者のためのものかもしれない。

些か疲れてしまったので、解説を読むのをやめ、ロビーの椅子に腰掛けて、人々の様子を眺めていた。先ほどの中学生たちがグループになって床に座り、メモを見ながらさかんに話し合っている。

日本は忌まわしい過去は隠そうとしているが、ドイツでは過去の事実はきちんと教えられている。きちんと教えられなければ、反省も進展もない。日本の子ども達が教えられないが故に歴史をしらずにふるまい、非難されるのは可哀想だ。事実は事実として教え、判断させるのが、大人たちの役目ではなかろうか。

ライプチッヒ

IC特急でライプツィヒへ。中央駅のすぐ前ノボテルに泊まる。

いそいでゲバントハウスの演奏日程を調べるが、今日は演奏会はないもよう。
ホテルの横をまっすぐにのぼると、池の向こうにオペラハウスがある。掲示板には数日後に「白鳥の湖」の上演が貼ってあった。残念だな、ライプツィヒ・ゲバントハウス演奏のチャイコフスキーかなにかレコードを持っていたはず。

ライプツィヒとはもともと「菩提樹」をさす言葉から出来たようだ。

ライプツィヒ大学に行った。本型のこの建物が出来たとき、テレビで見ていたが、間近で見ると、ちっともよくない。あら捜しをすると、あちこちサビが出ている。
大学の別棟の入り口には、過去の遺物のレーニンやかつてもお偉方の像が並んでいる。

裏に回ると、手入れの行き届いた庭があり、なだらかな傾斜面にほそい散歩道がその間をぬうようについている。芝生のところどころに胸像や記念碑が建っている。
クララ・シューマンの碑もあった。

U_file1200206181826231 マルクト広場から、敬意を表してバッハの眠るトーマス教会へ行くと、正面に人が大勢出ている。ミサ(プロテスタントはミサという言葉を使わないのだが、何と言ったか思い出せない)と思ったら、みんな入場券を持っている。なんとJSバッハの演奏会だったのだ。
しかも演奏者はゲバントハウスの面々。
ついてる!

トーマス教会も修復の途中。きっとこの演奏会は修復の募金稼ぎではなかろうか。しかし内容は素晴らしいかった。教会の中で祈りのあるメサイアを聞けるなんて最高。これはここならではの体験だ。休憩なしのみっちり2時間の演奏。聴衆は静かにき入っている。演奏が終了してもだれも拍手をしない。そして静かに席を立っていく。これは初めての経験。

シュトットガルトのマーンさんに聞いたら、教会での演奏会は通常拍手はしないものだと教えてくれた。
でも、ロンドンのSt.Martin-in-the-fields 教会で行われている2時からの演奏会(私はここが好き)では、拍手はしている。

バッハ関連ではバッハ博物館や楽器博物館がある。
私たちには日本語の説明書を貸してくれた。
ここはたのしい。
 
ライブチッヒの町は今建設ラッシュ。空をたくさんのクレーンが隠している。一方で今にも崩れ落ちそうな家並みも残っている。これは私の被写体。

旧市庁舎の横も工事中。私たちのお目当てはカフェ・アウエルバッハ・ケラー。ファウストが悪魔メフィストフェレスに連れられてやってくる酒場だ。壁のあちこちにファウストの場面がえがかれている。そしてシューマンやクララ、ワーグナーなども集った場所だ。
旧証券取引所前のゲーテの像にも敬意を表する。

ヴァイマール

ワイマールはゲーテが築いた町と言ってもいい。
ゲーテ追っかけには欠かせない町。カール・アウグスト大公が「若きウェルテルの悩み」を発表して人気作家になっていたゲーテを招いたのは1775年、ゲーテ26歳のとき。はじめは文学者として招かれたのだが、すっかりここが気に入ったゲーテは生涯をここで過ごし、宰相としてワーマールを一級の町にするための努力をおしまなかった。文化行政には傑出した腕をふるった。

ゲーテはナポレオンともここで会っている。
ナポレオンが「若きウェルテル」について論争を挑んだことも語り継がれている。ナポレオンもウェルテルを読んでいたことがうかがえてほほえましい。

またここはシラーもいる。
ゲーテとシラーはお互いに啓発しあっている。
国民劇場の前にはゲーテとシラーの像が立っている。

U_file1200206181826461 ゲーテ博物館、ゲーテハウス。シラーの家(ここでウィリアム・テルを書く)エッカーマンの家、リストの家、クラナッハの絵のある教会、美術館となっている城、と見るべきところはたくさんある。クラナッハ展もやっていた。足を棒にしてあるきまわった。

マルクト広場にあるホテル「エレファント」に泊まろうとしたのだが、あいにくいっぱい。広場は人であふれている。今日はキリスト昇天祭でお休みなのだそうだ。
そこで駅まで引き返し、駅の近くのホテルに泊まり、
ワイマールカード(交通機関・博物館等有効)を買った。私たちにはワイマール憲法としてもお馴染みの町。

でも町は荒れ果てている。お世辞にも美しい町とはいえない。ワーマールは戦災を免れたはずなのに。共産党政権は徹底した中央集権をしいた。東ベルリンにすべてのものが集められ、地方都市はなおざりにされたのだ。
ワイマールも例外ではなかったようだ。この古都はドイツ人の精神のよりどころではなかったのか。

私は壊れかけた家とか、廃墟が好きなのだが、それにしてもこの惨状をゲーテが見たら、さぞかし嘆くだろう。
1999年までに復興予定と書かれた看板が立って工事が行われていた。

ワイマールカード(交通機関・博物館等有効)のおかげでバスも電車も乗り放題、は良かったのだが、行き先を間違えて反対路線に乗ってしまった。
ひとたび市街を離れると、いまにも崩れ落ちそうな家々が並んでいる。人がすんでいないのかと思ったが、屋根にはテレビのアンテナが乱立しているし、車も見えるので人は住んでいるようだ。

これに味を占めて、バス路線をやたらと乗ってみた。
7番の終点まで行くと四角い住宅群。旧ソ連の影響の家並み。通りの名もモスクワ通り、ワルシャワ通り。
中央のゲーテプラッツで2番に乗り換え、終点までいく。今度は古いがいかにもドイツらしい古い家並みの通りを通って行く。終点の名はシェイクスピア通り。

町はずれのゲーテとシラーが眠っている墓地に行った。
広い墓地を二人の墓を探したがなかなか見つからない。
行き会ったドイツ人に訊ねると自分も探しているのだと言う。
ほどなく、その人が大きな声で私たちを呼んだ。
墓地の中にある建物(何回もそばを通ったのだが)の地下に安置所があり、そこは有料だった。
木製の二つの棺は並んで安置されていた。

ワイマールに近くにも強制収容所があったが、ザクセンハウゼンでかなりショックをうけていたので、今回はパスすることにした。

復興なったワイマールをもう一度訪ねてみようと思っている。

アイゼナッハ

ホテル・カイザーホフに宿を取る。荷物を置いて散歩にでる。マルクト広場には市が立っていた。出店がいっぱいでにぎやか。そこで料理に使えそうな木製のヘラとハサミを買った。
 
中央にはゲオルク教会がある。バッハが洗礼を受けた教会だ。

教会の奥に、きれいな木組みの家がある。近づくと、マルチン・ルターの家。ルターが学生時代ここに住んでいた。中に入ると、宗教改革の足跡が説明されている。
それを見ると、この地方と言えども、宗教改革はかなり難航しながら、徐々に広がっていったことが分かる。

帰ろうとすると雨が降ってきたので、近くの店に入って、ハムなど買って、食べている。

ホテルのレストランで食事。旧西ドイツで食事をすると、量の多さに拷問に近いものを覚えるが、
旧東ドイツの方は量が少なくて日本人向きだ。

U_file1200206182207211 翌朝、タクシーを頼み、9時前にはタンホイザーのモデルになったヴァルトブルク城に着く。もうかなり人が来ている。この城は宿泊施設があるから、そこに泊まった人たちかなと思うが、そうでもないようだ。

チケットを買って、並んでいると開門。必ずガイドがつく。勝手に移動できない仕組み。だから10時前には行くようにガイドブックには書いてあった。でないと待ち時間が多くなってしまうからと。説明はドイツ語。

本を読むと、ここはけっこういい加減な領地占有から建てられた城のようだ。しかし、歌合戦やルターが新約聖書をドイツ語に翻訳した城として有名になった。

歌合戦の大広間には「タンホイザー」のシ-ンが描かれている。実際にこの城では歌合戦が行われ、敗者は処刑されていた。文字通り命を懸けた歌合戦だったのである。

ある騎士が歌合戦でオーストリア賛歌を歌い、顰蹙をかった。そこで敗者にされた騎士は、王妃の慈悲にすがって、命乞いをし、一年後もう一度チャンスを与えられたという史実がある。これをモデルとしてワグナーがオペラ「タンホイザー」を書いた。
その中で登場するエリザベートは、ここの王女でマールブルク教会に足跡を残す聖女エリザベートがモデルである。

この城の一角、ほんと粗末な部屋で、マルチン・ルターは新約聖書を10ケ月でドイツ語に訳した。
ゲーテもここを訪れている。

余談だが、ジャガイモと言うとドイツを連想するが、
ルターの時代、まだじゃがいもはドイツに入っていなかった。だから、ルターはじゃがいもの味を知らないのである。

帰り、バスを待っていると、ホテルバスが来て乗せてくれた。しかも、バッハ・ハウスまで回り道をしてくれた。バッハ・ハウスの入り口にもバッハの銅像が立っている。バッハ・ハウスではクラヴィコードや小さなパイプオルガンの生演奏をきかせてくれた。
バッハは大好きである。やはりバッハの音楽は魂にしみる。

FRANKFURT AM MAIN

アイゼナッハからフランクフルトまでIR急行で2時間。旅行記などを見ると、フランクフルトからアイゼナッハに近づくにつれ、家々の様子が貧しくなると書いてあった。たしかにまだ旧東ドイツの住宅は古びたままだ。しかし、逆にアイゼナッハからフランクフルトに近づくにつれ、四角い高層建築が建ち並び、私にはちっとも美しくない。フランクフルトからでなく、ベルリンからはじめた旅のねらいも実は西側の先入観にとらわれないようにするためだった。

フランクフルトは金融の町である。ヨーロッパ中央銀行の所在地でもある。
人はニューヨークのマンハッタンをもじってフランクフルトをマインハッタンと呼ぶ。
フランクフルトの正式名はフランクフルト アム マイン。マイン川沿いのフランクフルトという意味である。
だから合成してマインハッタンともじっているのだ。

大富豪として有名なロスチャイルド家もここに始まる。
フランクフルトのユダヤ人居住区で、ささやかな両替商から発展してロスチャイルド銀行を設立したのが1810年。ヨーロッパはおろか、アメリカ独立戦争にもからんだりして、次第に巨万の富を獲得した。

フランクフルト アム マインはこれで2度目。はじめは空路で。マイン川と大きな発電所が良く見えた。

駅前のICホテルに泊まる。夜だけだとはいえ、ここの部屋は外からの騒音がやかましく、早々にチェックアウトする。駅前の雑踏、さすが大都会らしく行き交う人々も国際色豊かである。そしてホームレスがたむろしている。ドイツは東西の統一で、今は大変な時代であることはわかるが、人々の表情はけっしてよくない。日本人も然りだが。

先ず、ゲーテの家とゲーテ博物館に行く。ゲーテは1749年8月28日、12時の鐘と共にここで産声をあげる。
18世紀、ゲーテの家はフランクフルトでも名家であった。この生家は、第二次世界大戦のよって、完全に破壊され、現在あるのは戦後修復されたものである。とはいえ、忠実に復元され、ドイツ修復技術の傑作のひとつにあげられている。もっとも、調度品や記念品は疎開させてあったので、破壊を免れた。
各部屋には陶製の大きな暖炉。中庭には花々がさいていた。この家はゆっくりとたのしめる。

夕食は韓国料理へ行った。
ナムル、ビビンバ、言葉の知っているものを頼んだ。
韓国人旅行者が大勢寄って、韓国語がとびかっていた。
自分の国の料理が食べたくなるのか、それとも同胞意識なのだろうか。
と考えると、外国でも和食を食べるのは応援にもなるのだろうが、海外で和食を食べたいとは思わない。
帰りの機内でも、連れ合いは和食をもらっても、私は食べない。

ボン・ケルン

時51分発ICでボンへ。
車窓からライン川の流れが見える。ローレライの岩もよく見える。なんのことはない、単なる崖。
頂上には旗が立って、下にはLORELEYの文字が見える。
しかし、連れ合いは待望のローレライに感激している。

9時にはボンに着く。日曜日の朝だ。静かな町だ。
ベートーベンハウスに向かう途中、ミュンスター教会の礼拝に出席していく。ボンもローマ時代までさかのぼれる歴史のある町だが、旧市街は爆撃でほぼ壊滅している。かなり念入りに古いものを復元しているとは聞いているが。
途中、広場には大きなベートーベンの銅像がある。

ボンのような小都市が、旧西ドイツの首都であったのは、あくまでも暫定という意味があったときいている。
首都がフランクフルトのような大都市になったら、いつか東西統一したとき、ベルリンに首都が戻らなくなると言う恐れがあったのだという。

ベートーベンハウスに着くと、鍵が故障しているとかで、入れない。気短な私は帰ろうというが、ぜひ見たいと連れ合いが言うので待っている。結局1時間も待たされた。
ベートーベンもまたバッハ同様大好きな作曲家である。
まぁ、ベートーベンに敬意を表して我慢しよう。

ベートーベンは1770年ここで生まれた。自筆の楽譜、ピアノ、オルガン、大きな補聴器、デスマスクなど遺品が展示されている。興味を引いたのは愛用していた最後のピアノ。象牙の鍵盤がすりへっている。しかも引っ掻いたような後すら見える。
これを見たときは胸が痛くなった。
練習もさることながら、難聴のために、ピアノを引っ掻くようにして弾いたのだろうか。

ボンからケルンへ。
駅前にでんとそびえる大聖堂。聞きしに勝る大聖堂だ。
右上部の修復が行われていた。600年かけて建設されたときいているが、確かにそれだけの値打ちはある。
しかし毎年の保守も大変なようだ。忘れてしまったが、風化と酸性雨の年間の修復費だけでも、かなりの額だった。

ちょうど礼拝の始まるところだったが、あまりにも観光客が多いので、教会内部ががたがたしていたので、早々に出て、聖堂近くの中華飯店から大聖堂を眺めていた。

ベルンカステルクース

コブレンツまでIRで戻り、9番線に乗り換えてヴィットリヒへ。電車はモーゼル川沿いにブドウ畑の傍らを走る。ヴィットリヒからバスでベルンカステルクースへ行く。川のたもとのホテル・ドライ・ケーニッヒに宿を取る。

このホテルは主の趣味なのか、やたらと油絵がかかっている。それも大きい。絵の洪水。しかもあんまりいただけない。ホテルの庭先はモーゼル川だ。窓から行き交う船が眺められる。川はかなり広く、荷物を積んだ船がけっこう往来している。

対岸は市街。正面にラートハウス(役所)が見える。
ちょっと趣のある建物だ。南斜面にはブドウ畑。
その中を通って、丘の上の城まで道が続いている。

U_file1200206181717061 荷物を置いて、日差しのあるウチに町に行き、お目当ての木組みの家々を写真に撮ってまわる。ほんときれいな町並みだ。
ブドウ畑まで行ってみたが、ブドウはまだ芽をだしたばかり。被写体にはならない。

ストゥーブで夕食をとり、モーゼルワインをいっぱい飲んで、ご機嫌でローレライを歌いながら、橋を渡り、ホテルに戻る。夕日に染まる川面を写そうと待っていたのだが、9時過ぎてもなかなか日は沈まない。

日が沈むと、対岸のラートハウス(役所)がライトアップされた。窓にカメラをおき、夜景を撮っている。
おかげですぐ寝るはめになる。

翌朝、早起きした連れ合いが対岸の丘の上の城まで登っていく姿が小さく見える。手を振る。見えたらしく振り返している。
私は橋を渡って、もう一度朝の光の中の木組みの家々の写真を撮りに行く。

モーゼル川の上流はルクセンブルクだ。あそこもよかったなぁ。

ビンゲン

コブレンツ11時発の船に間に合うように逆算して、
バスで間にあわないといけないからとタクシーでヴィットリヒまで行くが、電車が30分以上遅れ、結局11時過ぎにコブレンツに着く。
駅から船着場まで歩いて10分。次の船は2時までない。
2時間以上待って、その上船で5時間も船に乗ることはないだろうと、私は言うが、連れ合いのたっての願いで、ライン川を溯ることにする。

街中に引き返し、ぶらぶらして時を過ごす。売店に「ライン川」という日本語の小冊子があったので買って読んでいる。日本人客が多いんだろう、こんな冊子があるんだから。

コブレンツはライン川とモーゼル川が合流するところである。コブレンツの名の由来も「合流」にちなんでいる。

船が動き出した。川の流れもゆったりだが、さかのぼる船もまたゆったり。乗客たちは甲板でのんびり風にふかれている。
岸辺を走る自転車と同じ速度だ。手を振ると、自転車も手を振り返す。のどか。
待っている間、河畔のホテルでワインを飲んだので、
いささか効いてきたみたいだ。

念願の筈の連れ合いは居眠りをしている。眠気覚ましに、ワープロをあけて、これを打っている。
乗務員が覗き込み、「日本語か?」ときく。彼らには珍しい文字なのだろう。

船の中には食堂もあり、飲んだり食べたりもできる。
ひとまわしてみたが、船内に日本人らしき姿はなかった。
普通はね、川を下るんだよねぇ。
速度が遅いから写真を撮るのは好都合。
甲板を歩き回って、写真を撮っている。

ローレライにさしかかった。
スピーカーからローレライの歌が流れる。
私たちもいっしょになって、ローレライを歌う。
でも、他の乗客はまったく反応しない。
日本では音楽の教科書にも載って愛唱されていたのだが、こっちではそうではなかったのかなぁ。

このあたりは渓谷も深く、両側に城や城址が見える。
ライン川でも景勝の場所。
しかし、この城の目的は川を行く船から税金の取立るためだった。
ローレライよりもう少し上、ビンゲンにちかい中州に「ネズミ塔」と呼ばれている建物がある。
これも関税塔。通行税のことを方言で「マウト」という。ビンゲンのところで書くが、地元民達はマウトをマウスに読み替えたのだという。

リューデスハイムに泊まるつもりだったが、鉄道の便もこっちの方がよさそうだと、思いつきでビンゲンで下りてしまった。
ホテルを探していると、向こうから来たおやじさんが私たちに声をかけた。おやじさんはホテルの主、といっても夫婦ふたりでやっている小さなガルニ。
ご縁だからここに泊まる。でも、二人が一生懸命もてなしてくれた。

船が着いたのが、7時過ぎ、ちょっと町に出たが、
「眠い」と戻ってきてシャワーをあび、そのまま寝てしまう。

朝食のとき、おやじさんがコーヒー豆をひいて、コーヒーをいれてくれた。連れ合いが「美味しい」というとうれしそうに豆の説明をしていた。
「今日はどこへ行くのか」と聞くのでハイデルベルクだと答えると、「自分もここに来る前はハイデルベルクに住んでいた。ハイデルベルクは良い町だ。きっと気に入るだろう」と言った。

荷物を置いたまま、城まで登っていった。城からのラインの眺めはなかなかのもの。城への道には赤いネズミの立て札が、あちこちに立っている。

冊子によると、マインツの大司教はとても強欲な人だった。住民に高い税金をかけ、中洲に関税塔をたて、通る船からは通行税をかならず取り立て、贅沢に暮らしていた。
あるとき、不作で食べ物がなくなって飢え死にする人たちも出てきた。ひもじさにたえかねて、住民が司祭に納屋の穀物を分けてくれと頼んだ。司祭は承知し、住民達を納屋にいざなった。小躍りして住民が納屋に入ると、司祭は戸を閉め、火を放ち、納屋ごと焼いてしまった。

このような残虐行為を神は許しておかなかった。
燃えつきた灰の中から、ネズミの大群が現れ、大司教めがけて襲い掛かった。

身の危険を感じた大司教は小船を用意させ、中洲にある関税塔(ネズミ塔)へ避難した。それでもネズミたちは大司教を見つけ出し、食い殺してしまった。
そしてネズミは一匹の残らず姿を消してしまった、と。

ひどい坊主もいたもんだ、しかし神の名でネズミにしかえしさせるところがなんとも。

ハイデルベルク

今日もいい天気だ。ビンゲンにローカル電車が止まるのは1時間に1本。マインツまで30分、4番線からハイデルベルク行きのIRに乗るつもりだったが、50分も遅れている。その後のECが先に来て、これに乗る。マンハイムの次がハイデルベルク。ここで2泊することにする。
ホテルはゴールデン・ローズ。ビスマルク広場から大学側に入った静かなところにある。

U_file1200206182155311 大学へのにぎやかな通りを通っていく。出店がいっぱい。ハイデルベルクといえば「アルト ハイデルベルク」を思い出す。ゲーテもここで恋をしている。

学生牢が有名だというので、落書きだらけの牢をのぞきにいく。もっとも当時の落書きが、現在のこころない人々の落書きで消えうせていく、ときいている。

ラートハウス(市庁舎)の前で一休みして、ハイデルベルク城まで登る。けっこうこの坂はきつい。汗びっしょりになってのぼる。上に行くと、次から次へと観光客が絶えない。日本人観光客にもここでぶつかる。
いままでの旅で、日本人に会わなかったのが不思議なくらいだ。ツアー客は、私より年配の人たちも多い。
えらいものだ、この坂を登ってきたとは。

城から見るハイデルベルクの家々の赤がわらがとてもきれいだ。緑の丘とネッカー川も雰囲気を盛り上げている。城には薬事博物館もあり、ちょっとたのしい。
噴水の側で一休みし、一杯飲んで元気をつけてまた歩き出す。

他の門から帰ろうとすると、そこにはケーブルもあり、
バスも来ている。なーんだ。みんなバスで来ていたんだ。気がつかないで損した。
ケーブルでそのまま上に行くと、途中乗り換えて山の頂上まで行くことが出来る。乗り換えたケーブルは木製、揺れるとキュ、キュっとなく。
頂上は公園になっていて、テレビ塔が建っている。
2DM払ってエレベーターに乗る。下の町は360度一望にできる。

哲学の道を通って帰る。空は高いのに、いきなり雨がふりだした。それもかなり強い。通り過ごすために、のんびりお茶を飲んで外に出ると、まだ降っていた。
ホテルは近い、濡れて行こう!


シュトゥットガルトのマーンさんに電話をかける。
チュ-ビンゲンへ行くつもりなので、駅でお目にかかれればうれしい、と。
10時06分のECでシュトゥットガルトに行く。
マーンさんが駅に出迎えてくれた。
「チュ-ビンゲンはハイデルベルクと同じような大学の町ですよ。前以て知らせていただければ、おふたりをホーエンツォルレン城へぜひご案内したいんです」と説得されて、車でお宅へ行く。緑いっぱいの環境のいい住まいだ。ご主人はベイルートへ出張中。

たまたま見えていた、ご主人のお母さんにお目にかかる。この方が、と私は思う。向こうはしらない。でも、感じのいい人だ。

玄関を入るとすぐホールになっていて、グランドピアノが置いてある。彼女はピアニストである。ここで仲間達と室内楽をしているのだそうだ。

森の中のレストランでお昼をご馳走になった。
もう一度家に戻り子ども達にさよならを言うと
「もう帰っちゃうの」と可愛いことを言われてしまった。

ここでマーンさんを紹介しよう。
彼女は日本人、川口マーン恵美さんという。
ピアノの勉強にドイツに留学し、ご主人と知り合い、結婚して、ドイツで暮らしてもう20年になる、きれいな、文才のある女性である。

知り合ったのは、県主催の環境視察のとき、彼女の著書「ドイツからの報告」がテキストとして使われた。
シュトゥットガルトでは講師兼通訳、ガイドとフルに働いてもらった。
そんな付き合いから、日本へ来るたびに子ども達をつれて我が家に訪ねて来るようになり、親しくしている。

彼女の著書のひとつ「あるドイツ女性の20世紀」(草思社)は読ませる本だ。
彼女の連れ合いの祖母の生涯を書いたノンフィクションである。ズデーテン地方から引き上げるドイツ人たちの悲惨さはなんともかなしい。
そして一人家族と離れ離れになって、苦労してなんとか家族のもとに戻ってきたのが、彼女の連れ合いの実母、さっきお目にかかった女性である。

チュ-ビンゲンを諦め、ハイデルベルクに戻る。
暑いくらいだ。町を歩いて、昨日のケーキ屋でアイスを食べ、デパートの2階の美容室で二人して髪を切ってもらう。男も女も区別がない。手早くて、切りっぱなしで、不精の私にはラクだった。首から胸に髪の毛が入りちくちく痛い。やむなくホテルに戻り、風呂に入り
洗髪する。8時過ぎ、近くの中華飯店に行く。美味しくなかった。ケルンの方が美味しかった。

フュッセン

9時6分のICでミュンヘンへ向かう。
ミュンヘンは来たことがあるので、今回はパス。
12時12分着。乗り換えて12時57分発でフュッセン行きに乗る。

この路線はローカルでいい。牧草の緑の中にタンポポの黄色が目立つ。遠くに雪の山々が見える。とってもきれいな景色だ。窓を開けて、写真を撮っている。

14時59分フュッセン着。行き止まりの小さな駅。
インフォメイションで宿を紹介してもらう。
ガルニ・エリザベス。シャワー・トイレつきのきれいな部屋をくれた。他は共同シャワー・トイレしかない。

U_file1200206192340521 タクシーでシュバンガウまで行き、馬車でノイシュバンシュタインまでのぼる。

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これだ~れ

2006-05-05 17:41:58 | 日記・エッセイ・コラム

51 せっかく近くに止まっているから写真を撮って名前を調べようとしたが、結局は分からない。写真の白く抜けているところは薄い空色。ふち周りは茶色の濃淡があり、羽には同じく薄い空色の紋がある。止まっている姿は一見蝶みたいだけど。

台所の片づけをまだ続けている。今日はケーキ類の用具を整理した。私のケーキづくりの歴史は長い。まぁよくぞこんな型を持っているかと思うくらい、いろいろなものがある。普段使っているのはケーキ型の21cmと18cm、シフォン型20cmが多いが、ケーキ型も10ケはあるし、シフォンも4ケもある。エンジェル型、パウンド型、パイ皿もいくつも重なっている。サヴァラン型、ブリオッシュ型、ゼリー型、プリン型、クッキーの抜き型、レーリュッケン型、とよ型、コルヌ型、等々、うんざりするほどいっぱいある。でも、ひとつひとつ丁寧に洗って乾燥した。しかし黒ずんでしまったものや、さびが出ているものは思いっきりよく処分した。古いものはまだ家計に余裕のない時代にひとつひとつ買いためたものだ。ずいぶんとおせわになった、ありがとう、と声をかけながら不燃物の袋に入れた。

一昨日カボチャのプリンを作った。生クリームがひとつ残ったからである。焼き上がりの上面の様子がいつもよりきれいではなかったが、冷やしておいた。で、食べてみた。まずくはないが、いつもと違い、いかにもかぼちゃといった舌触りである。どうしてなんだろう、ミキサーを換えたことぐらいしか新しいことはない。でも、どこが違うのか分からなかった。何か出すために冷蔵庫をあけた。すると目の前に生クリームの箱があるではないか。お主、どうしてここに?これで判明、カボチャのプリンのいつもとの違いが。生クリームを入れ忘れたのであった。生クリームを使うために作ったかぼちゃプリンに、生クリームを入れ忘れたとは、お笑いもいいところだ。4分の1を鳥の餌台に乗せてやった。はじめはなんだろうと食べなかったが、食べてみれば美味しかったのだろう、あっという間になくなった。シャクだから、もうひとつカボチャのプリンを作ろうかと思ったが、消費量が少ないからとやめて、クレープをつくった。夕食はこれ。

「日本宗教史」 末木文美士著 岩波新書を読み始める。

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私と日本酒8

2006-05-03 23:37:11 | 日本酒

ここんところ、冷蔵庫にも戸棚にも日本酒の在庫はたっぷりある。やっと冷蔵庫の一升瓶が3本なくなった。どぶろくの「名称募集」が2本と濁り酒の「とろとろと」の3本。名称募集は今回はちょっと酸っぱかったが、そのうち味が変わるだろう、いつあの味になるかなと期待しつつ味見していたら、終わってしまった。酸っぱくても後味のいいどぶろくだ。お気に入りである。「とろとろと」は初めて買った。濁り酒、しかも「とろっ」となんて形容詞がつくと、飲んでみたくなる。たぶん、そういうネイミングなのだろうね。秋田の知人の話だと、あちらでは親しまれているお酒だそうだ。

Torotoro 純米原酒 練り上げにごり酒「とろとろと」

精米歩合:65%

鈴木酒造 大仙市長野

口当たりは甘いけど、つーんとくる。

で、「とろとろっと」のあと「神月」を飲む。こっちの方が口に合うな。当分にごり酒はやめよう。

息子が純米吟醸辛口の「真澄」を持ってきてくれた。さらっとしている。

お福正宗、神月、澄月、花の舞、都錦、山陰大黒が冷蔵庫に入ったままだ。それなのに天功をとった。

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