Cogito

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ふたご座流星群

2007-12-15 12:23:25 | 日記・エッセイ・コラム

午前3時ごろにかけてが流星のピークだとあったので、真夜中、外に出てみた。しかし残念ながら空は曇って星すら見えなかった。流れ星なんてめずらしいものじゃないや、と負け惜しみを言いながら部屋に戻った。

ふたご座は冬のこのころ中天に上ってくる。オリオンと同じく、みつけやすい星座だ。Papasanといっしょに牛乳をとりに行きながら、よく眺めた星座だ。冬は空が澄んで星がきれいに見えるんだ。子どものころはその星々が大きく輝いていて、まるで空から自分を覗き込むようで、怖かったものだ。天文学、なんて大げさのものではないが、星に興味を持ったのは小学校2年、そう思うと星空ともずいぶん長いお付き合いになる。その割にはこのごろ夜空を見ない。夜空はもちろん、夜外に出ることがほとんどない。空を見ないと夜空が汚れていても気がつかないことになる。たまには見ましょうね。

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レシピ

2007-12-14 13:54:59 | 日記・エッセイ・コラム

陶芸へ行って、めずらしく作品を作ったのはいいのだが、かなり大きな花瓶を作ってしまった。定演でPapasanが花束を頂いてきたから、それを活けようとしたらそれにあう花瓶がなかった。大 きな花瓶はあるのだが、あんなにあった中型の花瓶がなくなってしまい、猫が割ってしまったのだが、泥縄で花瓶を作ろうと思ったのである。といっても焼くのは来年のことだ、そのころにはもう花はない。
半日で成型までしてしまったくらいだから、一生懸命作ったのだろう。帰りごろには腕が痛んだ。きっと家に帰ってからもっと痛くなるだろう、と思っていたら、案の定さらに痛くなった。あ~あ。

それでもサヴァランを作った。ネットでサヴァランのレシピを探したら出てきたので、そのとおりに作ってみた。きれいに出来た。シロップは通常の甘さなのだが、私には甘すぎたので、その上に冷えた紅茶をかけて薄めた。レシピはラムだったが、お酒をブランディに代えて、もう一度作ってみよう。

そこで昔よく作ったエスワイルの大谷長吉さんのレシピがあるはずだと探してみた。あった、あった、紙質も悪かったらしく、本の周りはぼろぼろで、中も色が変わっている。しかし捨てもせずにとってあるのは、それなりに利用していたもののようだ。料理の本はたくさんある。単行本以外にも「栄養と料理」「3分クッキング」「今日の料理」なんて雑誌は山のように並んでいる。その後長吉さんの同じくパテシエの息子さんにケーキを教わった。ひとつはサヴァランだった。あの時はブランディを使ってたと記憶している。息子さんは平塚バッハマンのご主人である。

大谷さんのサヴァランの内容をみると、ネットで見つけたレシピと大して変わらない。なら、パン生地はネットのレシピを使って、後は私のセンスでアレンジしていこう。うん、あれをこうしてみたらどうだろう、なんて試行錯誤しながら、自分流にケーキを作り出していくのはたのしいことだ。

ちょうどテレビで「今日の料理○○年」として、昔の料理の講師たちのレシピを紹介している。指導にあたって下さった皆さんのお顔は覚えている。なつかしい。料理を教えるのに、あの方々も苦労したらしい。いまのように材料が何でも手に入る時代ではなかったから。西洋料理も帝国ホテルの村上信夫さんは、日本にあるもので間に合わせて、味は現物に近く、しかも日本人の健康と舌に合うように工夫したと聞いている。ケーキだってそうだ。図書館から借りてきて丸写しした飯田深雪さんのレシピにはコンスターチの代わりに片栗粉が書いてあったっけ。こちらも当時は安月給だったから、高価な材料を言われたら使えなかったろう。こちらもこちらなりに工夫してはいたけれど。でも、初めて作ったカップケーキ、プリン型がなかったので、湯飲み茶碗で作った。それがふわ~っとふくらんだときは感激した。シュークリームだってそうだ。今でこそ、当たり前のように作っているが初めての時はそのふくらみに感激したものだ。

そうだなぁ、あの人たちのレシピ、毎日、テレビを見ながら、一生懸命書き写して(写すのは特技)、その料理を作ったものだ。だから書き写したノートもたくさん残っている。そして実際に作ってみての感想も事細かに書いてある。本を買うのもままならず写していたくらいだから。ケーキ型も今ではケーキ屋さんが出来るくらいたくさん揃っている。それでも古い、錆びたものはずいぶん捨てたんだけど。

たしかに当時、50年近く前のレシピと現在のレシピを比べると、現在のレシピの方が材料はずっといいもの、本物を使っている。それだけ日本人の食生活が豊かになってきたことを裏付けている。とはいうものの、反面、日本人の食生活は当時よりはるかに貧しくはなっているのだが、これはまたにしよう。

「おかげさまで」と言いながら、いろいろ物思いながら変色した古びたページをめくっている。

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12月8日

2007-12-08 23:57:30 | 日記・エッセイ・コラム

Papasanたち、小田原男声合唱団の定演だった。合唱は練習の甲斐あって、きれいにまとまっていましたよ。

そう、12月8日でした。12月8日と言っても、通じない世代が多くなりました。ジョン・レノンの暗殺の方がまだ身近かも。

昭和16年(1941年)12月8日、私は4歳、開戦のニュースは覚えていないけど、そこから日本は敗戦への道をひた走りに走り続けることになるんですね。
私の生まれた年、1937年、4月、ゲルニカの爆撃があり、7月には盧溝橋事件、日中戦争の始まり、そして12月には南京大虐殺。嫌でも、あのきびしい戦争の時代を生かされてきたことになるんです。しかも私の名前は「平和」、もっとも父親が平和と名づけようとして、こんな時代だから平和なんてつけたら、いじめられては可哀想と母親が和子と平凡な名前に頼んでくれたそう。平和なんて名前だったら、きっといじめられたでしょうね。平和であることのありがたさをしみじみと感じていますよ。

ジョン・レノンが撃たれたのは覚えていますよ。ファンでしたからね。暗殺のニュースを聞いて、瞬間12月8日か~、と意識しましたよ。彼のCD、ビートルズの時のも含めてかなり持っているんだけど、ここんところ聞いていないな、ひさしぶりに聞いてみよう。

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クモ日記0712

2007-12-06 11:14:36 | クモ日記

12月6日

Jorou Jorou2

                              

                                 

                                

                                              

ジョウビタキ♂の姿を見たので、カメラを持って外に出た。もっともカメラを持って出るともうジョウビタキの姿はなかった。そこで裏窓に網を張っているジョロウグモを見に行った。陽はさしていない。1匹しか残っていないようだ。それともどこかに隠れているかのか。写真を撮るとフラッシュを感じたのかクモはそそくさと糸を手繰って、竹の中に隠れた。お腹が大きいから産卵前だと思うけど、まだ卵が成熟しないのかな。

一昨日、台所の壁にくっついていたアシダカのチビ(体長10mm)をつれてきた。その前から壁についているのは知っていたが、そこにいるのだと思って放っておいた。触ってみると逃げない。うん?具合でも悪いのかな?それとも寒いのかな?机の上に乗せておいた。この部屋はストーブがついている。お腹が空いているかもと蚊を取って生きているのをやったのだが、見向きもしない。弱っているようだ。触ると足だけは動かしていたが、今朝見ると、とうとう死んでいた。これだけの大きさになるにも幾多も危険を乗り越えてきたはずなのに。もったいないね。

Asidaka Asidaka2 Asidaka3                                    

                           

                                              つれてきたときにモデルになってもらった写真を載せておこう。

12月27日

暖かな、小春日和。買い物に出かけようと門を出ると、壁にくっついているクモを見つけた。チュウガタシロカネグモだ。網は張らずに、横に張った糸はあるが、壁にじっとしている。そっと触ったが動かない、死んでいるのかな?ともう一度触ると、足を動かした。生きている。日向ぼっこをしているようだ。チュウガタシロカネグモは越冬する。だから帰りに家に連れて行こうと思ったが、荷物が多くてクモのことなどすっかり忘れてしまった。

12月28日

今日は曇っている。予報だと午後から雨だという。大磯まで出かけた。そのとき、昨日のクモがまだ同じ場所にいるのに気がついた。今夜からしぐれるってよ、家に連れて行こうね、と言ったものの、またたくさん荷物を運んだので、つれてきそびれた。

12月29日

夕べから雨。びしゃびしゃ降っている。どうしているかなぁ、クモを見に行きたいが、あそこまで行くのがいやだ。

12月30日

Sirokane_2 Sirokane2_2 部屋につれて、慣用植物にとまったュウガタシロカネグモ

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カヴァレリア ルスティカーナ

2007-12-02 22:52:09 | アート・文化

オペラ「カヴァレリア ルスティカーナ」を見に行った。シグナス合唱団60周年記念で、オペラを上演したのだ。公募でpapasanも参加していた、その1年間練習のオペラ、やっと今日が本番だったのである。指揮者は真鶴在住の青木雅也さん。期待している音楽家である。

席は2階の2列目真中だったが、音は良く響いてよかった。舞台もオーケストラピットもよく見えたし。小田原でオペラが上演されることはないからか、会場は満席。ほら、小田原の人だって、オペラを楽しみたいんだよ。新しく出来る城下町ホールは願わくばこれ以上のホールであってほしい。

カヴァレリア ルスティカーナとは田舎の騎士道というような意味。話の内容はたいしたものではない。三角関係で、男同士が決闘をし、結局は若い男が殺されてしまう。田舎の騎士道とは、三角関係、不倫は決闘と言うのが掟だったのだろう。マスカーニ作曲のこのオペラは、アリアとしては「ママも知るとおり」や特に間奏曲が親しまれていて、有名である。もちろん主演者たちはプロ。だから見ごたえ十分。コーラスも練習の成果で、きれいだった。オーケストラやプロの影響効果かもしれないけどね。劇団「こゆるぎ座」も参加していたんだ。どうりで初めのころの物売りのマイムが自然で、ほほ~っと思った。

オペラは一幕ものの短いもの。普通は「道化師」などと組み合わされて上演される。で、これ一幕では、という気なんだろうが、2部、というかアンコールというかがあった。タンホイザー、トロバトーレ、カルメン、椿姫から有名な合唱を歌った。タンホイザーは、なにこれ?というような代物だったけど、だんだん子ども達も加わり人数も多くなり、乾杯の歌ではプロも加わり(これは原語)、楽しめるようになった。

カヴァレリア ルスティカーナは全曲日本語に翻訳してあったが、プロといえども日本語がきちんと聞き取れなかったし、むしろ原語で歌ってくれ、横に訳を出してくれたらよかったと思った。しかし原語だとコーラスのオジサン、オバサンンたちが覚えられないのかも。

豆の樹でケーキとコーヒーを飲んで帰ってきた。

そうそう、ナックに閉店売り出しの広告がぺたぺたと貼ってあった。噂だと、マンションになるらしい。へ~、お前もか。四つ角なのにね。お堀端どおりの賑わいがまたひとつ消えていく。寂しい限り。いまは盛りの鴨宮だって、いずれは老化していくんだろうけど。

また聞いたところでは、ナックの下はショプで、上がマンションの計画だと言うことだ。ならまだ少しはいいけれど。

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