なぎのあとさき

日記です。

その後

2012年11月04日 | ビーに降る愛の歌 2002

ひっさしぶりに読み返して続きが気になったので、「ビーに降る愛の歌」
その後の顛末をUPします。昔書いたメモで、なんか私も若い。
10年も前のこと。


 

ビーがいなくなってから毎日ビーの夢を見た。いつも夢の途中でこれは夢かもしれないと思って、頬をつねると全然痛くないので夢だと気づいた。
目を覚ましてビーの寝床を見て、ビーがいないことに慣れることはなくて、毎朝泣いた。

ビーがいなくなってから一週間が過ぎようとしていた。猛暑が続き、一滴も雨の降らない真夏日が続いていた。日曜、仕事が休みで、午前中はゆっくりビーを探して歩き、観音様でビーが元気でいることを祈った。

Tと二人でビーを探して近所を歩いていると、殿がついてきた。殿は楽しそうに、某高校の塀の上に上がった。そして、塀の向こうに下りてしまった。高い塀で、上には有刺鉄線が張られていて中が見えない。
「殿! 戻ってきて!」「殿!」
「ナー」
Tに肩車してもらって塀の中を見ると、殿はすぐそばで目をきらきらさせている。
「殿までいなくなっちゃったら、もう生きていけないよ」
ビーが家に帰らないことは、自分の自信を打ち砕いていた。

ビーが来て、まだ2年しか経っていなかった。
初めて出逢ったとき、ビーはまっすぐ私の膝に来た。ビーは自分で私を選んだと自負していたのに、たった2年でビーは私のもとを去った。愛するものを守れない私に、生きる価値はないと思った。そんなネガティブな考えが浮かぶと顔や腿の肉をつねっては追い払って、ビーを探し続けていたけれど、もし今殿までいなくなったら、自分の存在理由を完全に見失うと思った。

某高校の敷地は広い。夜になると、人も車いない校内で、野良猫たちが遊んでいるのをよく見かけた。木や草が生い茂り、狩の獲物も多そうで、遊んでいるうちに、塀のどの辺りから中に入ったのか分からなくなるかもしれない。

殿が遠くへ行かないように、殿の名前を呼んで引きとめながら、Tが塀の上に上がった。でも有刺鉄線が邪魔で中に入れない。
「殿、戻って来てよ」
「殿~」
「あの、どうかされたんですか?」
白いYシャツの青年が声をかけてきた。
「僕、この高校の卒業生なんですが」
「うちの猫が中に入ってしまって、出てこないんです」 
「そうですか。門衛に頼んで中に入れてもらいましょうか」
「お願いできますか?」
青年は校門まで走って行き、少しして戻ってきた。
「今日は日曜なので門衛は休みでした」
「そうですか」
「でも、僕も在校してたとき使ってたんですけど、鉄線が途切れてるところがあるので、そこから中に入れますよ」
「ほんとですか」
「僕が入ってつかまえてきましょうか?」
「あ、それだと多分逃げちゃうから…。俺が入ります」とT。
有刺鉄線の途切れたところからTが中に入り、殿を塀の外に誘導し、無事に殿が帰ってきた。青年にお礼をいって、殿を家に連れて帰った。
青年は、爽やかな笑顔で去っていった。

ビーがいなくなって、「もしかして悪い人に…」と考えてしまうこともあったけど、ビーを探していて出会う人は皆いい人ばかりだった。犬を連れたお姉さんも、学校の守衛さんも、電話の問い合わせに出てくれた人も皆、私の気持ちをくんで、きちんと話を聞いてくれた。
チラシを見て電話をくれた人も、残念ながらビーではなかったけれど、親身になってくれた。イタズラ電話は一度もなかった。区の掲示板に勝手に貼ったチラシも、とがめられる事も無く貼りっぱなしになっていた。感じの悪かったのは交番の巡査と、例のペット探偵くらいだった。この世界はいい人ばかりで、悪い人などめったにいないと感じて、「もしかして悪い人に…」という考えは日に日に消えていった。

殿を家に入れてから、ビー探しを再開した。
これまで、某高校は周りを一周して、塀の外からビーの名前を呼んでいたけれど、中に入って探すべきだと思った。この日殿がさも楽しそうに中に入っていくのを見て、ビーもこの学校で遊ぶのが好きなのだと気づいた。ビーが道に迷ったとすれば、某高校の中で遊んでいて迷った可能性が高いような気がした。
「今日は中入れないけど、明日、学校の中探させてもらうよ」
「うん」
「もっと早く中に入ればよかった」

夜中までビーを探したけれど、どこにも姿がなかった。 

次の日、早起きして某高校の校門に行き、事情を説明して中に入れてもらった。
夏休み中の校内では、ところどころで生徒たちが部活動に励んでいた。
敷地が広く、塀際には木や草がワイルドに生い茂り、廃墟のような倉庫など、猫が遊ぶにはもってこいの環境で、きっとどこかにビーがいると思ってビーを探した。
物置小屋や、溝、植え込みなど、猫の潜んでいそうなところで何度もビーの名前を呼んだ。ビーが出てきてくれるように、立ち止まって何度もくりかえし名前を呼んだ。
1周しても見つからなくて、もう1周してビーを探した。
家と反対の方角にある塀から外に出て道に迷ったのかもしれない。もっと広い範囲でビーを探してみようと思った。
学校の職員に断って、学校の塀にも貼り紙を貼らせてもらった。

殿には申し訳ないけど、殿までいなくなることが怖くなり、日中は家にいてもらうため窓を閉めておくことにした。
窓を閉めたら、私の留守中にビーが帰ってきてもすぐに家に入れないけれど、ベランダで待っているだろうと思って、水とカリカリを出しておいた。

家に帰って窓を開けても殿は外に出ようとしなかった。窓の外のお皿のカリカリはそのままになっていた。殿もなんだか元気がなくて、外には出ないでベランダの方ばかり見ていた。

近所の小学校の守衛さんが、「似た感じの猫がいた」と電話で教えてくれたので、急いで行って見ると、ビーに似たサバトラ柄の、しっぽの長い猫が私をじっと見ていた。
「ビーに会ったら、家に帰るように伝えてね」とテレパシーを送る。 

次の日、ベランダのカリカリがなくなっていて、期待に胸を躍らせてビーを待ったけど、カリカリを食べたのは前々から家のベランダに出入りしているトラだった。

十日が過ぎてもビーの姿はなかった。私はろくにメシも食わず、ビーを探すことと殿の世話のほか何もする気が起きず、日に何度も泣きわめく日が続いた。探し疲れて帰る頃には、真夏なのにいつもオリオン座が見えていた。
この頃からTが私ほどビーのことを考えていないような気がしてきて、信頼できなくなったりキレたりする自分が、廃人に近づいているのを自覚していた。
NくんやJも私を心配してくれたけど、CとT以外の人に会う気にはならなかった。

そんなこんなでビーが帰らなくなって十四日目、気分転換が必要だと世田谷花火大会に行った。今ひとつきれいとも思えない花火が、目の前で上がっていた。

家に帰ると、ベランダで「フウウウウ」と唸る声がした。
女の子猫らしい、高い声は紛れもなくビーの声だと思ったら、本当にビーだった。
ベランダに駆け寄って窓を開けて
「ビー!」
ベランダに上がって来たトラを追い払おうとしていたビーは、私に気づくとすぐに走り寄って来た。トラは私を見て逃げて行った。
「ビー!おかえり!ビー!」
抱き上げるとビーは、いなくなる前よりずっと軽くなっていて、身体が骨ばっていた。
ビーを抱き上げたまま、自分の頬を思い切りつねると、痛かった。一度では信じられず、三度つねっても痛かった。
「ビーが帰って来た!」
T「ビー!どこいってたんだよ!馬鹿猫が~!ビー~!」
殿はビーに向かって「シャー」っと鳴いた。一声鳴くと、その後はいつもどおりの殿に戻った。
ビーはかなり痩せていたけれど、怪我もなく、衰弱しているわけでもなく、元気だった。

ビーを床に下ろしてビーの大好きなホタテ入りの猫缶を開けた。ビーは私の顔を確かめるようにじっと見てから、ご飯を食べはじめた。皿に顔をつっこんで、がつがつ食べるビーの背中を撫でながら、歌った。

One love one heart,let’s get together and feel alright.
One love one heart,give thanks and praise to the load,and I feel alright.
Let’s get together and feel alright.

ワンラブ、ワンハート、一緒にいれば、いい感じ!神様、どうもありがとう!

ビーは1週間ほどでブリンブリンのビーに戻った。骨ばっていたのが嘘のように、あっという間に。本当に元気で、病院に連れていく必要もなかった。

その後も三茶時代は外に出してたけど、今にいたるまで、ビーは一晩帰らないってことはない。

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其の七 土曜日

2005年09月08日 | ビーに降る愛の歌 2002

 週末で仕事は休み。Tは朝から仕事に行った。
 午前中は、自転車で一回りビーを探した後で、昨日リストアップした公共施設に電話をかけまくって過ごした。夏休み中の土曜とはいっても、守衛や職員など誰かしら電話に出た。
「あの、お忙しいところすみません、私近所に住んでいる者ですが、飼い猫が家出しまして、そちらの学校の敷地内で猫を見かけることはないでしょうか」
 どこの学校でも猫くらい見かけるだろうが、電話に出た相手は皆丁寧に答えてくれた。
「猫? いますよ、いっぱいいます。校庭で糞をしていくんでね、私野球部の顧問なんですが、朝練に来た生徒が片付けてるんですよ」「そうですか」「どんな猫?」 ビーの特徴を説明する。「そう、じゃあ気をつけて見とくよ」「あと、すみません。これからファックスで猫の特徴を書いた紙を送りますので、学校にいらっしゃる他の方にも聞いてみていただけるとありがたいのですが」「いいですよ」「その紙に私の連絡先を書いておきますので、どんな情報でもありましたらご連絡ください」「わかりました」「それとですね、学校の門の前に尋ね猫の張り紙をしてもよろしいですか? もちろん後ではがしますので」「いいですよ」
 そんなやりとりを、学校や寺社など十数件に電話して繰り返した。
今思えば、猫を見かけたら連絡してくれ、なんて図々しいお願いのような気もするが、藁にもすがりたい私は必死で見ず知らずの人々にお願いして、彼らを信じた。皆、親切に対応してくれて、電話したすべての施設に迷い猫のチラシをファックスで送った。
それから自転車で、電話した各施設を回り、目立つところにチラシを貼った。
さらに動物病院、ペットフードを置いている店にはお店の中と外にチラシを貼らせてもらった。

 インターネットで迷い猫マニュアルを調べたCが、「ペットがいなくなったとき、まず最初にすることは警察に届けを出すことらしいよ」と教えてくれたので交番にも行った。
 交番に行って事情を話すと、「は? 猫?」と警官は面食らった顔をした。「警察に届けを出すと聞いたんです!」といって、半ばごり押しで盗難届けと同じように、いつ、どこで、どんな猫がいなくなったか警察官にメモをとってもらった。「何か情報があったら連絡してください」と強くいって、交番を後にした。

 じっとしていると息が苦しくなって胸が痛むけれど、ビーを探して動き回っているときは普通に呼吸ができた。できることは何でもやろうと思って、ペット探偵にも電話してみることにした。
 ネットで何件かピックアップしたけれど、どこも結構なお金がかかり、どこまで信用できるのかがよくわからない。とりあえず、「テレビの特番でおなじみ」がうたい文句の、大手探偵社に電話をかけてみた。
「あの、猫が家出したのでお願いしようかな、と思いまして」
「どれくらい帰ってこないんですか?」、40代くらいの男性の声だった。
「今日で6日になります」
「清掃局には電話した?」
 清掃局、と聞いて、頭が割れるように痛み始めた。目の前が真っ暗になって言葉が出ない。
「1週間も猫が帰らないっていうときはね~、8割がた事故だね」
 あまりのショックでそのまま電話を切った。
 涙が溢れてきた。清掃局という味気ない言葉が頭の中に鳴り響いていた。その言葉をビーにリンクするつもりはない。いなくなった夜からずっと家の周りの通りはチェックして、事故にあった猫は1匹も見ていない。8割がたという言葉も、そのまま信じたわけではないけれど、あまりにもショッキングな言葉に胸が苦しくて仕方ないので、頭を床に打ち付けた。いくら打ち付けても苦しさが治まらないので、ステレオに手を伸ばしてCDの再生ボタンを押し、3曲目、『Is this love』をかけた。

I wanna love you and treat you right;
I wanna love you every day and every night:
We'll be together with a roof right over our heads;
We'll share the shelter of my single bed;
We'll share the same room, yeah! - for Jah provide the bread.
Is this love - is this love - is this love -
Is this love that I'm feelin'?

 ビーのことだけ考えて、ビーに伝わるように、強い気持ちをこめて、涙ながらに大声で歌った。ビーには私の声が聞こえていると信じていた。私はここにいるよ。ビーの家はここよ。愛してる。愛してる。愛してる。

 歌の途中でCが来た。泣いている私を見て、
「どうしたの! 何かあったの?」
「今ね、ペット探偵に電話したら、いきなり清掃局に電話しろっていわれて、家出猫は8割がた事故っていわれて」、ウワ~ッと泣いた。
「どこのペット探偵? この番号? よし、電話してくる」
 Cは外に出てからしばらくして戻り、
「当分立ち直れないくらい落としてやったから。ありえないよ。Nちゃんがどんな気持ちで電話してるのかも考えないでそんなこというなんて。あのオヤジの仕事も人間性も全部否定してやったから。気にしちゃだめだよ、あんなやつのいうこと」
「うん、ありがとう」
「さあ、ビーを探そう」
 もうペット探偵に頼む気はなくなっていた。その分自分で探せばいい。土曜日で時間があったので、明るいうちから広い範囲を探したけれどビーはいなかった。

 気分転換に、少しドライブをした。Cは適当に車を走らせているようだったけれど、気がつくと狛江にいた。狛江はビーの生まれた町だ。川が近くて、緑が多く残っている。私は川に、緑に、木に、そこにいる八百万の神々に祈った。ビーが元気でいて、うちに帰ってくるように。青い空に、夏らしい大きい雲があった。そのアーモンド形の大きい雲は、紛れもなくビーの形だった。耳を伏せて、口をあけて、ネズミのような小さい雲を追いかけていた。その雲が「ビーは元気でいるよ」というビーからのメッセージだと思って、涙が止まらなかった。離れていてもメッセージを送ってくれるなんて、賢くて思いやりのあるビーらしいと思って泣いた。

 Tに電話して、念のため清掃局の問い合わせを頼んだ。恐ろしくて、「絶対ないとは思うけど万が一のことが万が一あったとしても、そんなことはないとは絶対ないとは思うけど、私にはいわないで」と頼んだ。
しばらくするとTから電話があり、「この辺りで8月に入ってから猫の事故の記録はないって。大丈夫、ビーは事故なんかに遭う猫じゃないよ。どっかで遊んでるよ」。恐ろしくて嫌だったけど、この問い合わせをしたことで、事故の可能性はゼロだと確信することができた。
ビーはどこかにいて、ビーも私を探しているのだ。

 夜もビーを探したけれど見つからなかった。
 食事が喉をとおらず、何を食べても味がしなかったけれど、スイカだけは美味しく食べられた。

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其の六 金曜日

2005年09月02日 | ビーに降る愛の歌 2002

 猛暑続く。朝は家の周り半径100mでビーを探し、世田谷観音でビーの無事を祈った。
 なるべく早い時間に保健所に問い合わせてくれるよう、Tに頼んでから仕事に行った。Cも問い合わせてくれるといっていたけれど、Cは何時に起きるかわからない。問い合わせると決めたら、なるべく早くしたいと思ったけれど、自分で問い合わせる勇気はどうしたってなくて、自分がどれだけ弱い人間なのか思い知った。
 仕事の途中でTから電話があった。
「保健所って区役所の中にあって、聞いてみたけど、ビーに似た猫は保護されてないって」「そう」「週1くらいしたらまた問い合わせてみてって」「そう」。
その後にCからも電話があった。「今電話したら、区役所の人が同じような問い合わせがTくんからあったって聞いて」「そうなの、問い合わせてもらったの。ありがとうね」「Tくんも動いてるならよかった」「うん」

 仕事中に手があくと、家の周辺の地図を見ながら学校や寺社などの公共施設をリストアップして、電話番号を調べておいた。明日は土曜なので、片っ端から電話をかけてビーを見かけた人がいないか聞いてみるつもりだった。

 仕事の後で迎えに行くよ、とCからメールが来た。
Cは凄みのある美人で気も強くて、同居している姑にも怖がられている。校了の度に痩せこけて青白くなってしまうTより頼もしい感じがあって、一緒にいるだけで安心できるので、今は常に傍に居て欲しいくらいだけれど、今日は一人で家に帰ることにした。Cは旦那の家族と同居していて、家族の面倒を見るのが主婦であるCの仕事で、あまり邪魔をするわけにもいかない。

 家に帰り、一通り家の周りを見回ってから、今日リストアップした公共施設の一つで、家から一番近い場所にある小学校へ行き、守衛を呼び出した。茶髪でロングヘアの男が玄関から出てきた。
「あの、近所に住んでいる者ですが、猫が家出しまして、敷地内を探させて欲しいのですが」
「いいですよ。この辺、夜になると猫、いっぱいいますよ。どんな猫ですか?」
「こげ茶色のサバトラです」
「一緒に探しましょうか?」
「いいんです。知らない人がいるとかえって出てこないと思いますので。ありがとうございます」
「じゃあ、探し終わったら後でまた自分呼んでください」
「はい。失礼します」
 学校の中を、くまなく探した。学校の中は猫が潜んでいそうな茂みや物陰が多い。探している間は、あの植え込みにきっとビーがいる、この小屋の裏にきっといる、と期待が途切れないので、息ぐるしさを感じずにすんだ。茶色っぽい猫がいたので「ビー?」といいながら近づくと、ビーより一回り小さい猫だった。「見かけたら、よろしくね」
 また、ずっと気になっていた猫の水飲み場になりそうな場所も、学校の中で見ることができた。池、貯水槽、プール。
 再び門に戻り、守衛を呼んだ。
「ありがとうございました」「いませんでした?」「はい、残念ながら。もし見かけたら、連絡していただけますでしょうか」「わかりました」「私のケータイ番号です」
 ビーについてひとしきり説明してから家に戻った。

 家に戻ると、母から電話があって、「ビーがいなくなっ」までいって泣いた。
「困った猫ねえ~。でも猫なんだから、家出くらいするわよ。よくあることじゃない」
 ほかの誰かに、こんなありきたりな台詞で片付けられたら、その人と一生口をききたくないと思うところだが、母なので別に構わなかった。母には最初から何かを期待しているわけではなく、ただ話を聞いてもらえばよかった。
「もう苦しくて苦しくて、自分つねったりしてるの」
「バカね、やめなさい」
「だって心配で、心配で、どこにいるかわかんないし」
 嗚咽しながら泣きじゃくっている間、
「帰ってくるといいけどねえ」「困ったわね~」「ビーはろくなことしないわね~」と母はぶつぶついった。電話口ではなく、母の膝の上で泣きたいと思った。ひとしきり泣き言を言って電話を切り、一人で声をあげて泣いた。

 ビーがいなくなってから、ビーがいない寂しさと、ビーが心配な気持ちのブレンド具合が一瞬ごとに変わり、一瞬ごとに違う新鮮な苦しさがおそいかかる。その度に自分の太ももをぎゅっとつねり、「ビーは元気でやってる」と3回となえ、ボブ・マーリィの歌を歌った。人が周りにいるときは、頭の中で歌った。
 家にいる時一番歌った曲は『Sun is shining』。

Sun is shining,the weather is sweet.

 梅雨の間にこの曲を覚えていたときは、ねっとり暗いメロディーが、晴れやかな歌詞と合っていないと思ったけれど、肌と空気の境界が曖昧になって、頭の中が朦朧とする猛暑になると、これほどしっくりくる詩もメロディーもほかにはないと思った。

To the rescure, here I am!
want you to know ya,here I stand!

 救いのため、俺はここにいる。知って欲しい、俺がここにいるとを。

 すべての民に向けてボブが歌ったこの曲を、私はビーのために歌った。
 犬や猫は、離れていても飼い主の気持ちを察知すると聞いたことがある。外出から帰ったとき、玄関の前で犬や猫が飼い主を待ち構えているのは、飼い主が外で「家に帰ろう」と思った瞬間から待っているのだと聞いたことがある。その根拠までは覚えていないけれど、言葉を話さない猫が、言葉以外のコミュニケーション能力が発達していても不思議ではない。猫同士の集会で、猫たちが黙ってじっとしている時も、言葉以外の何かが通いあっているはずだ。
 離れていても、気持ちがビーに届いていることを信じて、ボブの歌を歌い続けた。
猫にわかりやすいように、〝To the rescure〟のところではビーの好きな青身魚の煮たのや、豊かな水、静かな寝床、私自身の姿をイメージし、〝here I am〟のところでは、うちのアパートの外観や中をイメージして歌った。強いテレパシーを送るために、〝here〟の部分は特に集中して力を込めた。もともとビーのことしか考えられない状況なので、クリアなイメージをこれ以上ない集中力でビーに送っている確信があった。ビーがどこかで私の送るテレパシーを感じ取り、私を探していることを何度かイメージするうちに、ビーも私を探している、というイメージもリアルに見えてきて、確信に近づいていた。

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其の五 木曜日

2005年08月31日 | ビーに降る愛の歌 2002

 ビーが家にいて、これは夢だと気づくと、ビーを探すために目を覚ました。
 猛暑が続き、天気予報は向こう一週間晴れマーク。
 ひととおり近所を探してから世田谷観音に行って、
「ビーが元気でいて、家に帰りますように」と祈ってから仕事に行った。
 職場では、ふだんくだらない話をしたり笑ったりしている同僚に、おかしな様子を悟られないように、昨日に引き続き漫画家の話をしてやりすごした。
「ネコちゃんたちは元気?」というSさんの問いにも、
「元気だよ。殿は暑さでちょっとぐったりしてるけど」と答えた。

 仕事の後、Cが会社まで迎えに来てくれた。
「ちょっとうちに寄って、夕食のおかず持っていきな。Tくんもろくなもん食べてないんでしょ。おいしいとんかつ、買っといたから」
「うん」
「今日見つかるよ」
「うん」

 Cの家にいくと、Cの旦那のYがいて、
「N元気出せよー、戻ってくるよー」とだけいってから、
「マープとリーブ、どっちがいいと思う?」といった。
「え?」
 ヅラの話だ、と気づくと、四日ぶりに自然に笑った。
「まだそんなの必要ないでしょ。わかんないよ」
「いやキテるんだって」
「わかんないってー」
 そこに、C夫婦と同居するYの兄、Sが現われた。
「Nちゃん、ネコ見つかったー?」
 ハゲの話題で軽くなっていた気分が、すぐに現実に引き戻された。
「まだなの」
「そーなんだー。誰かにつれてかれちゃったのかね。保健所とか電話してみた?」

 〝恐れていること〟を耳にして、答える力も出ずに、だまったまま首を振った。〝恐れていること〟を、たやすく口にされるのが嫌で、ビーの家出の話をする相手を慎重に選んでいたけれど、CはCで、自分の家族に話していた。

「別宅があって、どっかで飯でももらってんだろ」Yが軽い口調でいった。
「N、これ持って、先車行ってて」
「うん」
 Cはとんかつの入った袋と、車のキーを手渡した。車に乗ってシートに座ると、膝の下に頭が来るほどうなだれた。保健所、という言葉が重くのしかかっていた。保健所が何をするところなのかはよく知らないけれど、その響きにいやな印象があった。すぐにCが来て、車を出した。
「お待たせ~」
「うん」
「じゃ、行こう。ビー帰ってるといいねえ」
「うん」
 しばらくして、苦いものを吐き出すようにいった。
「保健所、連絡した方がいいよね」
「そうだね。何なら明日あたしが電話しといてあげる。あんたはなにも心配しなくていいよ」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあお願い…自分でするの怖くて…ごめんね。めんどくさいこと頼んで」
「ごめんね、とかいう方がめんどくさいよ」
「だね。ありがとう」
 それでも、不安で重くなった心はもとに戻らない。

 ビーのことは、毎日撫でて、抱き上げて、見とれて、のどを鳴らす音を聞いていたから、毛の一本までリアルに思い描くことができる。〝恐れていること〟のイメージも、考えまいと思ってもリアルに浮かんでしまう。胸がドキドキして、猛暑なのに身体がふるえ、吐き気までしてきた。自分の腿の肉をぎゅうっとつねりあげてから、声を絞り出した。
「ねえC、あたし今ほんとにヤバイ…どうしていいかわからない」
「やることはいろいろあるよ。ビーを探すことのほかにも、音楽を聴くこと、歌うこと、何も考えないで泳ぐこと」
 そういってCは、カーステレオのボリュームを少しあげた。ちょうど『CAYA』がかかっていた。

I feel so good in my neighbourhood
so here I come again.

 この部分の意味は、前に歌った時はうまくつかめなかったけれど、この時はしっくりときた。
 ビーはおうちの近所でたのちく遊んでる。そのうち帰るよ。そんなことを考えながら、ボブにあわせて歌った。

 Cには車で待っていてもらって、一度荷物を置きに家に帰った。校了が明けたTがテレビを見ながらたこ焼を食べていた。Tの膝に乗っていた殿を押しのけて、Tの腹に突っ伏して泣いた。Tは何も言わず、私の頭を撫でた。寒気と吐き気がゆっくりとひいていくのを感じながら、Tにいった。
「ビーは、ビーは大丈夫だよね」
 Tは、私の両肩をつかみ、目を見ていった。
「ビーは大丈夫。そんな気がするの」
 何の根拠もないけれど自信たっぷりのTの言葉は、私の頭を少し軽くした。
「それにね、Nちゃんはビーとつながってるの。Nちゃんとビーはそっくりなんだから。だから、Nちゃんが元気にしてたら、きっとビーも元気なんだよ」
 大切な猫が忽然と消えて、元気が出るはずもなく、紙一枚持ち上げる気力もないほどだ。けれど、そんなことではビーを探し出すことはできない。元気を出す方法は、自分がビーとつながっていて、自分が元気ならビーも元気だと信じることだと、Tの言葉で気づいた。ビーは私で、私はビー。ラスタマンは、自分のことを〝I&I〟と呼ぶ。Iが二つあるのは、自分を含めたすべてのラスタマンと、ラスタマンを含めたすべての自然を表していて、すべてがつながっていて区別しない〝one love〟の精神からきている。ビーは私で、私はビー、自分にとって当たり前のことを思い出すと、次にやるべきことを考えた。
「あたしこれからチラシ貼りに行ってくる。T寝てないんでしょ」
「うん、この三日間で寝たの二時間くらいかな…」
「じゃ、とんかつ食べたら今日は早めに寝なよ」
 とんかつとレトルトのご飯を渡して、Cの待つ車に戻った。
「Tくん帰ってたの。じゃあ今日は彼といたら?」
「校了明けで寝てないの。頬がこけて青い顔してんの。今日は家の西側にチラシ貼りたいから、あとちょっとつきあってくれる?」
「ヤーマン。じゃあ少し移動して車止めよう」

 1ヶ月くらい前、駅までの通りの電柱に、猫探しの貼り紙が貼ってあるのを見つけたとき、その猫に会ったら名前を呼べるように猫の名前を覚え、その辺りを歩くときは似た猫がいないか注意していた。 猫が好きな人は、猫を探している人の気持ちがよく分かる。公園や緑道など猫の多い場所、動物病院の前には猫好きな人も多いと思って、重点的に貼っておいた。目立つところに貼っておきたかったので、区の掲示板にも貼っておいた。

「さっきゴメンね。うちのバカ。ひきこもりだから、空気読めないし、人の気持ちわかんないんだ」
「ああ、Sくん」
「帰ったらどやしつけてやる」
「うん。今ね、ビーの話人にふられても、うまく答えられないんだ」
 ビーがなぜ家出したのか、今どこにいるのか、誰にもわからないことを話し合っても仕方ない。
「だよね」
「Yくんはその点」
「ハゲネタで捨て身のギャグ繰り出してたね」
「ええ人や」
「ええ人やな」
「でも、きっかけにはなった」
「きっかけって?」
「近所を探すほかにもやることあるなって。保健所に電話するでしょ。保護されてるかもしれないもんね。あと近所にある学校とか、神社とか、公共施設にも電話して聞いてみる」
「よし偉い。保健所は明日電話しとくから。あとネットで猫探しのマニュアル調べとくよ。あと探す人手増やす?」
「ううん。それも考えたけど、ビーあたし以外の人にはほとんどなつかないでしょ。Tにだって、自分からなついたりしないんだから。あたしが呼んで出てこないのに、ほかの人が呼んでも絶対出てこないと思う。だからいいの」
「だね」

 Cが帰ると、家に戻ってとんかつを食べた。
夜中、自転車に乗って、ボブの歌を歌いながらビーの姿を探した。

To the rescure,here I am!

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其の四 水曜日

2005年08月31日 | ビーに降る愛の歌 2002

 水曜の朝。ビーが帰って来てベッドの下にいる夢の途中で目が覚めて、ベッドの下を見るとビーはいなかった。泣いているとダーが起きてきて、「泣かないで、ビーは大丈夫だよ」。テレビをつけて身支度。天気予報は、「今日も午前中から36度を超える猛暑となるでしょう」。

 外に出ると、立っているだけで化粧が流れ落ちるほどの暑さだった。ビーを探して十分も歩くと喉が渇き、ビーに飲む水があるのか心配になった。ビーは狩りが得意で毎日のようにネズミやスズメを捕っていたから、食べるものに困ることはないだろう。けれど、猛暑で干上がったような町で、飲む水はどうするのか。ネガティブな考えが浮かびそうになると、「ビーは元気でやってる、ビーは大丈夫」と三回唱えて追い払う。そして小さな池のある家、神社の池、小学校の池、プール、庭の水道の蛇口の締まりが悪くてできた水たまり、クーラーの室外機の周りの水たまりのことを考えた。猛暑でも、水はあるところにはある。

 真っ白な陽光がアスファルトに降り注いで乱反射し、猫が表通りに出てくるとは思えない。野良猫の姿も全く見かけない。
 世田谷観音に行くと、大きな桜の木が数本で木陰を作り、その下には風が吹いていて暑さを感じない。猫たちは涼しい場所を見つけるのが得意だから、ビーも涼しい木陰でじっとしているだろう。夏の間ビーは、日の出ているうちは家の中の涼しい場所で寝ていて、夜になると散歩にでかける。道に迷ったビーが家を探して動くのも、日が沈んでからだと考えた。
 「ビーが元気でいて、無事に帰りますように」と祈り、仕事に行った。

 仕事場に着くと、女子の間で人気のある「ぴあ」の占いを見た。お盆の時期の合併号で二週間分の占いが載っていた。射手座は絶好調の二週間らしかった。ラッキーアイテムはオニオンリング、乾燥剤とあった。
「乾燥剤がラッキーアイテムってどういうの」
「ハハハ!持ち歩いてみたらどうですか?」隣の席のHさんがいった。
 誰も見ていないとき、おかきの袋に入っていた乾燥剤をポケットに入れた。

 その日、私とHさんのお気に入りのギャグ漫画家が猥褻罪で逮捕された。メールで知り合った未成年を買春、という事件で、被疑者が日本一売れている少年誌で連載中の作者であることで、新聞の社会面で大きく取り上げられた。一緒にファンレターを書き、返事をもらったこともあるHさんと私は、一日中その話をしていた。
「週刊漫画はストレスがたまるんでしょうね~」
「特にギャグ漫画の作者はね。精神病んじゃう人、いっぱいいるもんね。ストレスだけじゃなくて、忙しすぎて若い人だと欲求不満もたまるんだろうね」
「担当がケアしてあげるべきですよ!」
「読者の子供たちもショックだろうけど、大人になればわかるよね」
「早く復帰して欲しいですよね」
「少年誌で復帰は無理かもしれないけど、引く手あまただよ」
「今度激励の手紙でも書きましょうか」
 その話をだらだらと長引かせ、ビーのことを考えずにやりすごそうとした。
 ときどき不安がよぎるたびに、太ももをつねって追い払い、なんとかこの日も仕事を終えた。

 水曜はCとジムに行く日なので、仕事が終わる頃、会社までCが迎えに来た。
「ビーがね、帰って来ないの」
「え~? いつから?」
「おとといの夜。心配で頭が痛いよ」
「そっか。じゃあとにかく探そうよ」
「うん」
「あいつ、別宅でも見つけたか?」
「うん、そうかも。ビー顔はかわいいからね。性格はやりたい放題だけど」
「確かに。あの顔ならファンがいてもおかしくないよ」
「うん、うちのアパートでも知らない人にカリカリもらってるの見たことあるもん。くいもんに弱いから」
「うまいもんにつられちゃったのかもね。でも、今日の夜には帰ってくるよ」

 家に帰ると、殿が玄関の前で待っていた。
「殿ちんただいま」
「殿さま、こんばんわ。いい子で待ってたの」
 殿は嬉しそうにCの膝にすりよった。
 玄関を開けると、ビーの姿はなく、家中探してもビーはいなかった。ビーの好きな、棒の先に小さなネズミの人形がついて振るとシャラシャラ鳴る猫用のおもちゃと、猫缶をポケットに入れてすぐに外に出た。
「まだ帰ってないか」
「うん」
「よし、探しいこ。殿さま、いい子でまっててね」
「殿ち、ビー探してくるから、ちょっとおうちの中にいてね」

 Cと二人で、ビーの名前を呼びながら家の周りを歩き、公園や駐車場など人気がなくて猫の好みそうな場所では、何度もビーの名前を呼んだ。
「ビ~。ビ~」
「ビ~。ビーた~ん
「ビ~。ビ~。おビーさ~ん」
「ビーちゃ~ん」
「ビチ~」
「ビ~たん。ビ~。出ておいで~」
「猫ちゃんを探してるんですか?」
 小さな公園で、犬を連れた若い女性に声をかけられた。
「そうなんです」
「向こうのトイレの裏に、白い猫がいましたよ」
「サバトラなんです。こげ茶色の」
「大きい猫ですか?」
「大きいです。このくらい」
「そうですか…。早く見つかるといいですね」
「ありがとうございます」
 女性と犬が立ち去ると、Cがいった。
「ケータイの番号ちっちゃい付箋かなんかに書いといてさ、 今の人みたいに信用できる人に配っとくといいんじゃない?」
「そうだね。後で書こう。いい人だったね」
「いい人だったね」

 探している間、あの茂みにいるかもしれない、次の角を曲がればいるかもしれない、と期待が途切れることがないので、ずっと続いていた息苦しさを感じずにすんだ。猫のシルエットを見かけるたび、「ビ~」と優しく呼びかけながらゆっくり近づいて、ビーではないとわかると、「ビーが帰るように」と猫に伝えて、次の猫を探した。二時間弱探しても、ビーはいなかった。

「N、なんか食べた方がいいよ」
「だね。Cもおなかすいたでしょ。何か買ってとりあえずジム行こうか」
「うん、少しプールで泳いで、夜中にまた探そう」
「貼り紙も作りたいな」
「じゃあそれもやろう」

 ファーストフードでテイクアウトしてジムへ行った。バルコニーに出ると、細い月がくっきりと出ていて、ビーの爪の形を思い出した。その月が「ビーは元気でいるよ」というビーからのメッセージだと思って、Cに見えないように少し泣いた。何を食べても味がしなくて、異物を口に入れているようだったけれど、ラッキーアイテムのオニオンリングはすべて食べた。

 プールでは、「水の中では愛する人の姿が見える」というフランスの映画を思い出して、ビーの姿が見えるような気がした。 あとは動かす筋肉だけを意識して、何も考えないようにしながら、二百メートルくらい泳いだ。

 家に戻るとすぐパソコンを立ち上げて、デジカメで撮ったビーの写真から、貼り紙にするための写真を選んだ。写真を見ていると、柔らかくて温かいビーに触れることができないことが息苦しくさせた。事務的な気持ちで写真を選び、全身がわかる写真をプリントアウトして、紙、マジック、ハサミ、ノリ、近所の地図を持ってCの待つ車に戻った。
「Tくんまだ帰らないの?」
「校了中でいつ帰るかもわかんない」
「なんかいつも校了中だね」
「肝心なときはだいたい校了中。雑誌2冊やってるからしょうがないけどね」
「Tくんには仕事してもらわないとね。その分あたしが探すの手伝うから」
「ありがとう」

 ファミレスでコーヒーを飲みながらチラシを作った。

【迷いネコ】
大切な猫です。見かけた方はご連絡ください。
お願いいたします。

(写真)

・名前 ビー
・成ネコ、2才、中型
・こげ茶系サバトラ、メス
・首輪なし
・顔小さめ、胴太目、足短め
・しっぽは短くて太く、先がカギ
・あごの辺りが白
・前足に一部毛を剃った跡あり

連絡先○○○・××××・○○○○

 この息づまる状況で、いたずら電話の対応をする余裕は全くないと思い、連絡先はTのケータイにしておいた。地図を見て、どの辺まで貼るかを二人で考えて、この日は家の東側に貼っていくことにした。

 コンビニで50枚コピーして、ビーの名前を呼びながら近所の電信柱にチラシを貼っていく。紙をおさえる係とガムテープを切って貼る係りに別れ、20枚も貼った頃には二人とも無駄な動きなしで素早く貼れるようになった。
「なんかどんどん上手くなるね」
「プロになれるよあたしたち。チラシ貼り職人」
「疲れた~。もうすぐ夜が明けちゃう。残りは明日やろうかな。今日はほんとにありがとう」
「見て、星が出てる」
 東京の夏の夜空とは思えないくらい、星が出ていた。
「ほんとだ。オリオン座もあるよ。夏でも見えるんだね」
「どこどこ」
「ほら」
「ほんとだ」

 空の低いところで光るオリオン座を見ながら、ビーはこの星をどこで見ているのだろうと思った。
 家に戻っても、ダーはまだ仕事から帰っていなかった。疲れきって、その日もすぐに眠りにおちた。

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其の三 月曜、火曜

2005年08月30日 | ビーに降る愛の歌 2002

 仕事から帰ると、ひと息いれる前に夕食の支度をする。クーラーが壊れているので、汗だくで冷やし中華を作った。 調理の一部始終を冷蔵庫の上から眺めているビーに、薄焼き卵をちぎってあげると、噛まずに飲み込む。好みの味ではないらしく、それ以上欲しそうにはしなかった。猫たちの器にも猫缶を入れて、夕食にする。猫たちはものの五分で食べ終えると、家の中は暑いのでベランダに出た。私は雑誌を読んだり、お笑い番組を見たりしながらゆっくり食べた。

 食べ終わって、煙草に火をつけてベランダに出ると、殿とビーがベランダの端に並んで涼んでいた。部屋に戻ってしばらくすると、殿があわてた様子で部屋に駆け込んで来た。何かあったのかとベランダに出ると、向かいの家の塀の上に、体格のいい虎猫がいる。ビーの姿はない。Tが帰り、再度一人分の冷やし中華を作り、食べ終えるのを待って、ビーを探しに出かけた。
「ビー、ビー」
 夜中の一時過ぎで、あまり大きな声は出せないけれど、静かな住宅街なので小さな声でも猫の耳なら聞こえるだろう。
「ビー」
「ナー」、と答えた猫は殿だった。まぎらわしいので、殿を連れて一度家に戻り、窓を閉めてからビーを探した。
 空き地、神社、駐車場、庭など猫のいそうな場所では立ち止まって何度も呼んでみたがビーは出てこない。 
「ビーがこんなに長いこと帰ってこないの珍しいよ」
「うん、いつも二、三時間で腹減って帰って来るからね」
「お腹空いてるはずなのに、帰って来ないなんておかしいよ」
「大丈夫だよ、少しくらい痩せた方がいいんだから、ビーは。この前獣医にちょっと太り気味ですねっていわれたばかりなんだから」
「まあそうだけど。お腹ぶりんぶりんだもんね」
「俺はどっかでうまいもんもらってるんだと思うけどね」
「かなあ。ビーかわいいからねえ。ユニバーサル級のかわいさだからねえ。あたしたちの知らないとこにファンがいてもおかしくないよね。優しい老夫婦かなんかで、うちなんかよりずっと広い家住んでて、うちみたいにクーラーも壊れてなくて、おばあさん暇だから魚屋で買ってきたアラとか自分で煮てあげて、居心地よくて、ついつい長居してるのかもね」
「そうそう。ビーはウハウハでやってるよ。そのうち飽きて帰って来るよ」
 半径50メートルくらい歩いたけれど、ビーの気配はない。殿も一晩帰らないことが最近あったし、明日の朝には戻っているだろうと思って、その夜は寝ることにした。

 次の朝、目が覚めるとすぐにベッドの下のビーの寝床を覗いてみたが、姿はなかった。急いでシャワーを浴びてから、ビーを探しに外に出た。蝉しぐれを効果音に、目の眩むような真っ白い陽射しがふりそそぎ、すぐに汗でTシャツの背中がびしょ濡れになった。
「ビー」
 何度も名を呼んだが出て来ない。こうまで暑いと、アスファルトに出てくるのが嫌で、どこか涼しい場所で眠っているのかもしれない。猛暑の白昼に猫を探すのは難しいと思って、家のすぐ近くにある世田谷観音に行き、「ビーが元気で帰って来ますように」と祈った。つい最近殿が家出したときは、次の日の夜に帰って来た。ビーも夜には戻るだろうと思い、仕事に出かけた。

 仕事中はただ目の前にある仕事をこなしていった。手を止めるとビーのことを考えて、心配で仕事が手につかなくなるので、ひたすら仕事に集中した。
 同じ部のSさんに昼食に誘われて仕事を中断すると、ビーはどこで何をしているのか、そればかり気になり出した。Sさんにはビーがいなくなったことは話さなかった。Sさんはもともと理系で結論を急ぐようなところがあり、猫がいなくなったと聞けば私が〝恐れていること〟を平気で口に出しかねない。上の空で世間話をしながらパスタを食べると、ぼろ雑巾を口に入れているような気がした。

 〝恐れていること〟をイメージしたり、頭の中で言葉にしたりすることを必死で避けた。縁起の悪いことを考えたくなかっただけでなく、〝恐れていること〟が脳裏をかすめただけで、頭がわれるように痛くなり、めまいがし、吐き気がし、動悸がして、仕事どころではなくなる。他人にも口に出して欲しくなかったので、Sさんだけでなく、職場ではビーがいなくなったことは黙っていた。

 別の部の、猫を二匹飼っていて、猫の話をはじめるといつまでも止まらないおじさんにだけ、ビーのことを打ち明けた。
「うちの妹猫が昨日の夜から帰らないんですよ」
「猫砂を家の周りにまいておくといいよ。そしたら匂いで帰って来るからさ」

 集中したせいかいつもより一時間ほど早く仕事を終え、急いで家に帰った。いつものように玄関の前で殿が帰りを待っていた。ビーはたいてい家の中で寝ていて、私の足音がすると玄関先まで出迎えに来る。でもその日玄関を開けても、ビーは迎えには出て来なかった。疲れて寝ているのかもしれないと思い、家中を探してみても姿はなかった。すぐ外に出て、ビーの名前を呼びながら、近所を探した。疲れると家に戻って、ビーを待った。心配で何も手につかないので、疲れがとれ次第、何度も外に出てビーを探した。半径二百メートルほどの範囲を、ときどき自転車を止めて、ビーの名前を呼びながら回った。

 家にいる間も、ベランダからビーの名前を呼んだ。祈る気持ちで空を見上げると、夏の空にしては星が多く出ていて、流れ星を見つけた。流れ星の、ピョーンと短く伸びた曲線がビーの胴のようで、「ビーは無事だよ、元気に遊んでるよ」、というビーからのメッセージだと思うと涙が出た。
 夜になってもやまない蝉の声に混じって、ビーの声が聞こえたような気がしても、次の瞬間には蝉の声だけが聞こえた。   

 殿は、家の中にいるか、ベランダで涼んでいて、遠くへ出かけようとはしなかった。殿は、妹猫のビーの前では、だっこされるのを嫌がって自分からは決して甘えないのに、ビーがいないと人が変わったように甘えてくる。暑い夜も、一度だっこすると抱かれっぱなしになっていた。

 仕事を終えたTから電話があった。
「今から帰るよ」
「うん」
「今日ご飯は?」
「ごめん、何もないの」
「わかった。じゃあ何か買って帰るよ。ヤツは帰って来たの?」
「まだなの」
「そっか。困った子だね」
「早く帰って来て」
「うん、急いで帰るよ」

 一人で家にいると、ビーがいないことがさみしくて泣いてしまう。すると、ベランダで涼んでいた殿が帰って来て「ナー」と鳴く。殿の背中に顔をつけて泣いても、殿は嫌がりもしないで喉を鳴らし、全身にブルルルル、という音が響き渡る。殿が息を吸うときのブルルルルと、息を吐く時のクルルルルという音が、さざ波のように反復して鳴り響き、少しだけ気分を落ち着けてくれた。

 Tが帰ってきて、コンビニ弁当だけでは足りないようだったので、そうめんを茹でて一緒に食べた。

 食べ終わるとすぐに、二人でビーを探しに出た。じっとりと暑い空気が動かない熱帯夜で、少し歩くだけで喉が渇く。喉の渇きを感じるたびに、ビーに飲む水があるのか心配になった。こうした〝恐れていること〟は、言霊になるのがいやなのでTにもいわなかった。ふだんは言霊だの迷信だの全く信じていないけれど、今はどんな可能性にでも賭けたい。〝恐れていること〟が脳裏をかすめるだびに、自分の太ももの肉をぎゅうっとつねりあげた。その痛みで胸の苦しさを紛らわせた。

 歩いて探しては家に戻り、一休みしてから一人で自転車で探しに出かけることを何度か繰り返した。
 車の多い通りを避けて、夜の町を歩いていると、これまで見たことのない猫を何匹も目にした。猫に出会う度に、ビーの姿を念じながら、「見かけたら、家に帰るように伝えて」と、言葉ではなくイメージでテレパシーを送った。

深夜、ベランダに使用済みトイレ砂を 少しおいてから、力尽きて簡単に眠りに落ちた。

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其の二 歌

2005年08月30日 | ビーに降る愛の歌 2002

 季節は梅雨。雨で散歩もできないので、外に出る気がしないCと私は、家でボブ・マーリーの歌を一つ一つ覚えようとしていた。

wake up turn I lose,
for the rain falling.

「雨が降ってるうちにいっとけ、みたいな」
「そっか『caya』って梅雨の歌だ」

 ワンフレーズごとに、歌詞の意味を考えながら覚えていく。

I feel so high I even touch the sky
above the falling rain.

「すんげ~ハイになっちゃって」
「雨を越えて空に手が届きそう」
 歌うたびに、雨雲の上に広がる青空のイメージが浮かんできて、梅雨も悪くなかった。

I feel so good in my neighbourhood
so here I come again.
I got have caya now.

「地元にいていい感じ! だから帰ってきたぜ! さあいっとけ!」
「なんか変な歌詞だけど、ニュアンスはわかるね」

 梅雨のボブは、『caya』だけではない。

Misty morning don’t see no sun.

「湿った朝、太陽さえ見えない」
「見てないよね~最近」
「先週一週間の日照時間、35分だって」
「どおりでうちの動物たち、元気なかったわけだ」
「うちの猫たちは雨でも外に遊びに行ってずぶ濡れで帰ってきた」
「ビー、洗われて毛まで剃られて元気になったの?」
「うん、二日間くらいへこんでたけど、三日目にはすっかり忘れて元気になった」
 三日目にはネズミ狩も再開し、シラッと獲物をくわえて帰ってきた。ビーは賢いので、同じトリモチにかかることはないと思った。
「うちの動物は猫だけじゃないからね」とC。
「何?」
「旦那と旦那の兄貴。毎晩群れをなして、ゲームばっかやってる」
「あはは。梅雨も晴れも関係ないじゃん」

I know you out there somewhere having fun.

「君は外に出てどこかで遊んでる? 変な歌詞だね。前後関係がよくわからない」

One of my best friends say,in a reggae riddem.

「友達が言った、レゲエのリズムで」
「イナレゲリデム!」

Don’t jumping the water,if you can’t swim.

「泳げないなら飛び込むな」
「当たり前だっつーの」

 太陽が恋しくて次に選んだのは、
『Sun is shining』。

Sun is shining,the weather is sweet.

「この曲さあ、こんなに晴れがましい歌詞なのに、メロディはねっとりしてるよね」
「ほんと。しかもなんか暗いってゆうか」
「ビートルズの『good day sunshine』とかまさに太陽の中散歩する感じなのに」

To the rescure, here I am!
want you to know ya,here I stand!

「マンデモーニン、変な歌だね」
「チューズデイーブニン、こんな曲ボブにしか作れない」
「ウェンズデモーニン、このぐったりした感じ」
「サースデイーブニン、でもさ」
「フライデーモーニン、何?」
「ジャマイカとか、ほんとに暑いとこのぐらいぐったりしちゃうのかもね」

 そして、大好きな『Time will tell』。

Time alone,oh time will tell.
Think you'er'in heven but living in hell.

「あんたたちは天国にいると思ってるかもしれないけど、ここは地獄なんだぜ!」
「そんな歌詞だったんだあ。もっと優しい感じの歌かと思ってたのに」
「ファンシーなメロディなのに。重い歌詞だったんだね」

『Time will tell』を覚えたあたりで梅雨が明け、真夏のボブ、『Africa Unite』にとりかかることにした。

Africa unite,Cause we are moving right out of babylon.
And we are going to our father's land

 私とCがこの世界に生まれて間もない頃、ボブ・マーリーが来日し、中上健二がインタビューをした。紀州の土にまみれた中上と、すでに神様のように地球を俯瞰するボブとの、ちっとも会話がかみ合わないそのインタビューの中でボブがいっている。
「ラスタファリズムは黒人だけのものじゃない。それぞれの国で、それぞれの時代で解釈があっていい」
 私とCにとってラスタファリズムとは、私がCで、Cが私で、私はビーで、ビーは殿で、殿は世田谷観音の桜の木で、桜は私で、といった感覚。わたしはあなた、あなたはわたし。

 『Africa Unite』を完璧にマスターして、いくつか台風が通り過ぎて、暑さがピークに達した頃、ビーが家出した。

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其の一 梅雨のあとさき

2005年08月27日 | ビーに降る愛の歌 2002

 近所の大学で実験用のネズミが大脱走し、その辺で大発生しているという噂があった。狩りが得意なビーは、毎日ネズミを仕留めては、得意満面でくわえて帰ってきた。ネズミに慣れない頃の私は、「ちゅごいね~、ビーたんちゅごい!」と褒めながら、ソファの背もたれの上に飛び乗ったり他の部屋に逃げたりして、同居人のTが帰るのをひたすら待っていたけれど、あまりに頻繁にくわえてくるうちに次第に慣れ、ネズミが生きていれば捕かまえて逃がし、死んでいれば裏の空き地に返しに行った。
 ビーはネズミを生かさず殺さず転がしては弄び、殿がうらやましそうな目で見ると、「フウウウウ」と唸った。飽きると放り出すか、気がむくと骨ごと食べることもあった。見ないようにしていてもザリッザリッという生生しい音が聞こえて、家の中が野生の王国だった。
 私がネズミを救出して逃すと、ビーは「フンッ」と鼻を鳴らして再び外に行き、すぐにまた別の獲物を捕まえてくるので、1日に3度もネズミを捕まえてきたこともあった。生きたネズミを部屋で見失い、2、3日後にネズミを救出したこともあった。

 梅雨が始まる少し前、ビーは真夜中にネズミとりのトリモチを全身にべったりつけて帰って来た。
 猫用のシャンプーで洗っても、トリモチは毛にこびりついてとれないので、Cに車を出してもらって、動物の救急病院に連れて行った。
「自分でなめようとするの。トリモチがのどにつまったらどうしよう」
「もうすぐ着くから大丈夫」
 ビーは不安らしくニャーニャー鳴き続けていた。
「毛、剃られちゃうのかな」
 ビーがかわいそうで仕方がなかった。
 獣医がビーを籠ごと引き取ってしばらくした後、看護助手の若い女性が説明にきた。
「深夜料金が1万円、レントゲンが2万円、血液検査が2万円、さらに特殊な方法で洗うのですが、人手もかかりますので、5万ほどになります。それと少し脱水症状が出ておりまして、点滴が1万円。合計すると10万円ほどになりますが、よろしいですか」
Cが目をつりあげて、「お金のことより、ビーは大丈夫か、まずそれを説明してください」
「大丈夫ですよ。五回くらい繰り返し洗えば、完全におちると思います」
「それを先にいってくださいよ」
「でも、お金のことも重要ですから」
「お金は別にいいですけど、ビーは今まで病気をしたこともないし、レントゲンとか血液検査を今する必要はないと思いますが」と私。
「いえ、レントゲンと血液検査をしなくては、お受けすることはできません。救急病院の決まりですから」
 一刻も早くビーをトリモチから解放したくて、「じゃあお願いします」
 校了中で会社にいるTに電話して顛末を説明。「10万だって」というと「あはは」と笑っていた。

 採血の注射を打つためにビーは前足の毛を幅一センチほどでぐるりと一周剃られた。レントゲン写真の説明で看護助手が、「この部分が消化しきれていない食べ物です。ここには便ですね。ここにおしっこもたまっています。あとこの辺は全部脂肪になりますね」 ビーのアーモンド型の丸っこいお腹の中が、食べ物、うんち、おしっこ、後は脂肪ばかりなのが可笑しくて、Tにその写真を見せたいと思った。

 最初にトリモチをつけたビーを見たとき、接着剤かと思って背筋が寒くなった。器量よしで、賢くて、素直で、思いやりのある猫のビーが、人間の邪悪な心の犠牲になることはあってはならない。トリモチでよかった。「ビーは好き勝手に遊んででそんなのつけて帰ってきたんだから、」とTもいった。「ビーは全然かわいそうじゃないからね。」 

 一度ひきあげてから翌朝病院に来ると、ビーは医師たちに、洗ってはドライヤーで乾かすことを五回も繰り返され、帰りの車の中では鳴く気力もなくぐったりしていた。エリザベスカラーをしたビーは、人間の赤ちゃんみたいで可愛かった。

(写真は2002年11月30日)

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