今年はホトトギスが庭じゅうにたくさん咲いた。アゲラタムとサルビアコクネシアも咲いてるし、バラも一輪ずつ咲いて、晩夏からずっと庭がきれい。
園芸を始めた時に実家から持ってきたルドベキアが消えてしまったので、またどこかで仕入れないとな。
シソがやたらと豊富。
あとはチュウレンジバチが秋になっても多くて、バラの葉っぱは食べられまくり。
アメリカフウロの小さい芽はあちこちから出ている。
モンちゃんは庭でおとなしく抱っこされていはいない。
モンちゃんはロイカナの「減量したい成猫用」を主食にすることにした。先日の軟便はなんだったのか分からないけど次の日には通常に戻った。
庭でモンちゃんを日向ぼっこさせながらの読書、今はN代くんの「S高の任務」を読んでいて、一文一文が面白い。ヤバい。
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終わったら急いで、たまプラへ。
3月から髪は切るのも染めるのもセルフでやっていて、ふだんの服装には問題ないけど、月末ホテルでのパーティに出ることになり、たち行かなくなった。
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前の晩、2日目の鐘の腹痛がひどくて夜寝れないほどだったのだが(鐘のひどいときにヘアカラーはよくない!)、朝には痛みはひいていて海にも入れた。
潮は相変わらず濁っていた。冷たくはないけど、ぬるくもなくなってきた。
ボードで岩まで行って、かろうじてソラとベラが見えただけ。
今年は射手座の近くに木星と土星が仲良く並んでいるのが殿とモンチみたいだ、と思って見ていて、その後を追う火星が日に日に存在感を増していくのが、ビーのようだと思うのはいうまでもない。
月の下には、フォーマルハウトがよく見える。
モンちゃん、あまり上がってほしくない、いろいろ物の乗っている棚に上がって、ワー!と鳴く。
「モンちゃん、下りて!」というと、何食わぬ顔で前足をペロッとし、また「ワー!」
そこから押入れの上段に入りたいんだろうけど、庭にちょろちょろ出るモンちゃんの足は汚れてるので、布団の入ってる押入れには入れられない。
でも雨で庭に出られない日は解放してるので、モンちゃんは押入れに入りたい。
「ワー!」「モンちゃん、下りて!」
前足ペロッ!「モンちゃん、下りて!」「ワー!」
「モンちゃん、下りて!」(しばらく繰り返し)
Tを呼び「ちょっとモンちゃんに降りるように言ってくれる?」
T「モンちゃん!」
すかさずモンちゃんは下りた。
ついに!モンちゃんも私をなめくさり出した?
10月中旬、前線の停滞で、パッとしない天気が続く中、日がどんどん短くなっていく。
日に日に下がっていく気温や、家に入る光の弱々しさが、去年の今頃の記憶をありありとよみがえらせていた。
朝から晩まで、捨てて拭いて消毒する日々。
そこにはビーがいた。
あの日々の記憶は特別に強いから、そこにいるビーのこともありありと思い出せる。
部屋が片付いてくるにつれて、ビーのむしゃこいが戻っていくことが、何より嬉しかった。
と、私はいまだに何かにつけてビーを思っては涙する毎日。
失うものなど何もなかった若い頃から、つるべ落としの季節は寂しいんだから、仕方ない。
毎日2回、決まった時間にしていた投薬と、月1回か2回、ときに週1回の通院がなくなって、日々にメリハリがないというか、毎日がぐにゃぐにゃしてる感じ。
ビーの絵を描くほかに、ビーにもらったアレンジメントの花を継ぎ足したり取り除いたりして、生け花するのも今の習慣になった。花の美しさ、かわいさが、元気をくれるのは確か。
今庭のあちこちで咲いてるホトトギスも、切り花にできる。
昔からビーは花にたとえるとダリアのようだ、と思っていたダリアを買ってきたら、ダリアの花びらの手触りが、フワフワで柔らかくてビーによく似ている。
18日は海へ。どんよりの曇り空。高速はアワダチソウが一気にきた。キョウチクトウの花もまだ残ってる。
着いたのが16時頃で、すでに薄暗かったけど、着替えてボードに乗って海に出ると、それほど寒くもなかった。
時々ボードから降りて泳いだ。潮は濁り気味で、まだぬるい。
西の空の雲の切れ目から太陽が出てきて、橙色にきらめく海の上でゆるい波にゆられながら、沈む夕日を見ていた。富士山がくっきり見えちゃった。
日が落ちると寒くて早着替え。
10月も後半に入った今週は、晴れてほんのり暖かい。
仕事の前、庭に出てNくんの書いた小説を少しずつ読んでいる。
よるべなさ、生きにくさを感じている《私》にとっての友人Kが、なけなしでもあるとないとでは全然ちがう、小春日和の日ざしとリンクして、ほんのり、ほのかに暖かい小説で、楽しい。
モンちゃんも一緒に庭に出て、草の匂いをひとつひとつ嗅いだり、日向ぼっこしている。
モンちゃん、たっぷりの昼寝から起きるとデデデーッと走り回って遊び、高まるとすぐ、背中にタテガミが立つ。
短い毛なのでタテガミもちょんと立つのがかわいい、栗みたい。
モンちゃんは、好ききらいなくほとんど何でも食べてるけど、総合栄養価食のウエットの黒缶とカルカンだけは食べないみたい。はっきりこれが好き、というのはよくわからない。
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10月のはじめ、台風14号は上陸するのかと思いきや、東にそれて南下。富士山が冠雪したら台風上陸しない説は当たった。
が、影響はあって週末は雨が降りつづき、雨に弱い金木犀の花は一気に散った。
日曜には雨が弱まり、高速では西の空の端っこで雲が切れて光が射していた。
アワダチソウも咲きはじめた。
海についたら青空が広がった。
台風の時化残りもなく、ほぼ凪。潮色は濁ってるけどきれい。
ボードで岩まで行って、岩にボードを置いて岩の周りを泳いだり潜ったりして、離れたところにいたCを見ると、陸の方を指さしていて、見ると、葉山の低い山の上に大きい虹が出ていた。
海に浮かびながら見る虹は、最高。ビーたまがお発ちになって1ヶ月の虹だった。
太陽が雲に入ったり出たりを繰り返すのに合わせて、虹も消えたり出たりしていて、日没まで虹は見えた。
お寺では、木星土星と火星がまた並んで見えた。虫の声は元気いっぱい。
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ビーの旅立ちから1ヶ月、私はふつうに元気に暮らして、新しい季節を楽しんでもいるけど、まだ整理はつけられない。食事記録も壁にはりっぱなし、介護食も置きっぱなし、病院への挨拶もしないまま。
肉体がなければ世界を感じることができない。肉体を置いてったビーは、今世界の側になったということなのか。それなら私はいつもビーに触れているのか。
ビーの名前を呼びながら、そんなことを思いながらも、外を歩いてるとき、ビーが早くも生まれ変わって現れないかと目を凝らしている。できれば同じ柄、同じ顔、同じシッポで。
モンチや殿は、長いこと頑張ってくれて本当におつかれ様、しばらく天国でゆっくり安らいでいてほしい、私がいくまで仲良く待っててほしいと思っていたけど、ビーは1ヶ月も経たないうちから生まれ変わってまた私のとこに来てくれないか、今度はモンちゃんの妹になって、仲良くしてほしいと妄想までする始末。
どの子もこよなく愛してるけど、ビーは私の憧れで、どうしても特別で、殿もモンちゃんもそれはわかってた。モンチは気にしてなかった。
殿の絵も描いてみた。
むむっ、なかなかりりしく描けたな!
ビーを描くと勝手に補正が入って実物から遠ざかることが多いけど、殿は余計な補正が入らないから良く描けてる、とT。
にゃにこれ、ふん!
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失われた時を求めては、12巻に入り、消え去ったアルベルチーヌへの想いを語る語り手と、ビーへの気持ちがところどころ重なり、読みながらビーのことをずっと思っている。アルベルチーヌの使っていたピアノラや、一緒に過ごす時に座っていた肘掛け椅子が目に入るたび、それらの物がアルベルチーヌの出奔を新たな言葉で告げようする、語り手はそれが苦痛で忘却を願っているが、そこは全くかぶらない。ビーがいた私の枕元もビーの歩いた河原の草の上も、季節が移ろうごとにビーの出奔を私に告げるのは、寂しいし涙も出るけど苦痛ではないし、寂しくてもいいからビーのことをひとっつも忘れたくない。
○生きていた姿が突然リアルに浮かんできて、✕✕ちゃんの体をすぐ近くに感じる
というのは、未明のT争(2度目)。序盤は友人のお葬式の話だけど、湿っぽさはみじんもなく光が乱反射するような明るさ。
モンちゃん、8.5キロになり、1ヶ月で0.2減というのはまずまずのペースかな。
もともとモンちゃんはよく食べるけど、人のご飯を狙ったり、食に執着するタイプでもないので、これで特に不満もない。
人のご飯を狙うといえばビーで、20年、焼き魚の日は焼く前からソワソワして冷蔵庫やシンクの上、テーブルの上で魚が出てくるのを待ち、食事中は私の膝の上からてこでも下りず、隙あらば手を出していたもので、今はちょっと魚を焼く気になれない。膝の上がスカスカしてしまう。
天気が良くて、爽やかな日がつづく。
夏の間、モンちゃんの好きなブタ草を外に摘みに行くのが日課になっていて、私が外に出ると玄関で待つモンちゃん。
草はそろそろ終わりなんだけど、どこに出かけても最近、モンちゃんは玄関で待っている。
家にいるTいわく、それまで寝床でぐっすり寝ていても、遠くで私の足音が聞こえると、飛び起きて玄関に行くそうな。眠くてしょぽしょぽのまま。
犬みたいでかわいいけど、モンちゃんもけして犬ではなく、草を食べたいだけ。
モンちゃんはモンちゃんで猫らしい。
ビーみたいに偉い感じは全くないけど。
下馬の玄関前で私の帰りを待っていた殿だけが、犬っぽい猫だった。
モンちゃんは「えっへん!」という顔をするけど、どや顔はしない。同世代に競い合う相手がいないからだろうか。
殿ビーモンチは、おれもやる!あたちもできる!といたずらがエスカレートしてたけど、モンちゃんは上の3匹に比べるとお行儀がいい。
夜少し雨が降ることはあるけど、大雨にはならないので香りが日に日に濃くなっていく。
3日の土曜はEちゃんと河原でお茶。タンクトップは私とEちゃんだけ。
Eちゃんはコロナ以来、二子に来たのは初めて。前は用もなくしょっちゅう来てたのに。Eちゃんは「休みの日はでかけなきゃ」タイプだったけど、コロナになって「でかけなきゃ」と思わなくなり、部屋のリフォームをはじめて、「この生活すごくいい!」と出かけてたころより充実して快適になったそう。
多摩川でもボラに似た魚が跳ねてた。
4日は海へ。タンクトップは私とCだけ。
快晴の日が多いのに、海に行く日はくもりがち。
でも潮はまだぬるい。ちょっと濁り。
左奥の岩の手前部分て、色とりどりの小さい魚の群れを見ていたら兄さんが表れ、チヌは次々合流して大きい群れになった。
一匹だけ背びれを立てていた。
ツノダシや、全身黄色の魚もいた。
ハコフグの子どもがいて、大きいハコちゃんと同じ、イエローにブルーの水玉模様で、色が濃くてメタリック。ライターのサイズ。動いてるだけでかわいい。
おさわりクラゲが復活し、手を伸ばすとさわさわきた。チンクイやアンドンの気配はない。
奥の岩のサイドに、丸く太ったイカが一匹!
紫色に光って、岩影に入った。イカメシみたいに丸いイカ。
帰りはボードで行ったり来たり。寒くもなかった。
上がってからは寒くて早着替え。
1→姉弟の関係がちょっと気持ちわるい(リアルさに欠ける)、女二人で歩くシーンはよかった
2→女子会からの銭湯。ふつうに面白かった
3→セクハラオーディション
4→トイレを我慢しててあんまり覚えてない
めっちゃうまくて、気持ちいい酔いで、厚底の靴やマティスやタランティーノや猫の話して、笑ってるうちに日が暮れて、幸せなひとときだった。
夜に横須賀に行くのも、泊まるのも、いつぶりだろう。
シニアニャンズの食事管理と投薬は、私が自らやらなきゃ気がすまなかったのもあるけど、殿ビーのそばを一晩離れることができなかったのよね。
4歳のモンちゃんはTにまかせられるから、身軽に実家に行けるようになった。
電車はがらがらで、すぐ着いた。
ママのご飯を頂いて、コンタクトの洗浄液がなかったのでチャリでコンビニまで行った。
夜になると夏のかけらもないけれど、秋の夜のしっとりした空気も気持ちいい。
実家に帰ったのは、パパの検査結果を聞きに行くのに、「家族も一緒に」と言われ、ママは歯科予約があって行けなくて、「Nちゃん行けない?」と言われ、もちろん仕事ずらして行くことにした。
「家族も一緒に」、というのは何やら物騒だし、当日、弟も来るといって大ごとの雰囲気。
私は病院の付添いはプロなので、慌てず騒がず楽しく過ごした。
午前中はパパと散歩。パパもふつうにご機嫌で、股関節の痛みも収まっていて、山に入って彼岸花の咲く草原を歩き、ムカゴを探しながら美術館に降りた。
桜咲いてた
K崎は強風の時化で泳ぐのはあきらめ、浜でママの作ってくれたお弁当で朝ごはん。
「タバコは吸わないでしょ」
「吸うよ!」
のんびりT浜まで歩いたら、ふしぎと凪。風もない。
なのでワーーイと服を脱ぎすて、ラッシュガード着て、パパを浜辺に残し、海に入った。
気温低めで小雨で寒かったけど潮温は冷たくはなくて、気持ち良かった。
海に入ると重力だけでなく、地上の様々なことから解放される。
ベラがたくさん、と、アジのような魚、フグの子がいた。
寒いので上がって家に戻り、支度して、バスでK病院へ。弟に会ったのも久しぶり。
少し待って名前を呼ばれ、診察室へ。
検査の結果、がんの細胞はなかった、ということで、3人晴ればれ。
「良かったー!」といいながら、小雨降る中タバコとビールを買って三笠公園まで歩き、荒れ気味の海を見ながら、3人でカンパイ!
パパはこの2週間くらい酒を我慢してたし、久しぶりに家族で飲むビールはうまくて、幸せなひとときだった。
家族は似てるのか、小雨降ってても濡れるがまま、誰も気にしてなかった。
歯科終わりのママと合流し、三笠通りをぶらぶらして、駅前の磯丸水産でまたカンパイ。
「いい一日だった」とパパ。
2020年、富士山の冠雪は9月28日で、平年より2日、昨年より24日早かった。
富士山が冠雪すると台風が上陸しない、という漁師さんの言い伝えがあって、今年はもう大丈夫かな、とほっとしてるところ。
9月末に、夏じゅうやってたマンションの水害対策工事がいったん終わり、毎日のように顔見て話もしてたおじさんたちがいなくなり、10月に入って急に、家の周りはとても静か。
金木犀の香りが、日に日に強くなってきた。
モンちゃんはカリカリ制限で1日200kcalでおさめてるわりに、体重がへらない。
私の腕は、猫の体重2.5~2.8㎏の変化はわかったけど、8kg以上になると0.2ぐらいの差なんてわからない。
涼しくなってきて、庭も完全に解禁になって、モンちゃんは日に何度も庭に出てぶらぶらしたり、土の上にごろんして日向ぼっこしたり。
モンちゃんの周りにいつも蚊がいる。たまに耳を刺されてるけど、モンちゃんはかゆそうでもないし、平気みたい。
一度、目と目の間をを2か所刺されて、鼻がぼこんと腫れて面白顔になっていた。
トイレの後で鼻にトイレ砂をくっつける鉄板芸も、しょっちゅう。おもろいね、モンちゃんは。
この頃また、玄関側の外に出るのもブームで、抱っこして出ている。
しごとなんていいからあそぼーぜ!
10月1日は、Cが仕事休みで、久しぶりに平日の海へ。
高速はススキが一気に増えた。山の緑は青々してきれい。Cはこの日初金木犀で、「匂っちゃったよ」とつぶやいていた、私も庭でかいだとき、同じセリフを声に出してつぶやいた。
海は晴れ、凪、無風、濁りよりの澄み、満潮。
ボードで岩まで行って、岩の上にボードを置いて巣潜り。
岩の一角に、ソラ、オヤビッチャ、チョウチョウウオ、金魚みたいな魚がたくさんいてキラキラチラチラしていた。
見ていると兄さんが唐突に視界に入ってくる。その後深いところに行ってしまって、追いかけられなかった。
潮が満ちてると、ひいてるときよりだいぶ深く感じる。2mくらい違う感じ。
岩に上がると、日差しが弱くて風も出て寒い。ボードがあると、肩を水に浸けなくて泳げるので、寒いときラク。
クラゲは気配なし。
帰りはボードに乗って行きつ戻りつ。あちこちで、ボラが跳ねていた。高く跳ねる子や、4匹並んで競争するように跳ねるチビボラも。「今日は何かある」
浜に戻ると、Cの荷物も私の荷物もおやつ夫婦に丁寧に荒らされていた。バッグに入れていたものが一つ一つ取り出され砂に転がしてある。下着とナプキンが並べて置いてあった。私たちは食べ物持ってないって知ってるはずなのに。後ろのほうの電柱に止まってカーー!と威勢よく鳴いていた。
浜で着替えてるうちに、夕日になって、それはそれはきれいなオレンジゴールドに水面がきらめき、うっとり、と思ったらストンと落ちた。
駐車場を閉めるために来た親方が私たちを見つけ、嬉しそうに上の駐車場に寄って、というので寄ったら、ただ話したかっただけだった。
帰り道、西の空はいっとき柿色に染まり、すぐ暗くなり、逗子のあたりでぽっかりと、中秋の月が出た。夜の海を橙色に照らしていた。
その後お寺につく頃には火星も出て、西から木土月火が並ぶのが見渡せて、黄道が賑やか。
満月は次の日の朝6時。
2日は晴れて夏の暑さになり、仕事を抜け出しまた河原飲み。今回はHさんのおじさん仲間4人と、女優のUちゃん。仕事残ってたけど太陽の下で飲むビールうまかった。
Uちゃんはたまにしか会わないけど、ビーちゃん、とビーの名前を覚えてた。20年以上生きたインコが旅立ったとき、家に来たばかりだった猫のリンゴ(仮)が、インコの魂を追いかけるような動きをしていた、という話。消えることはない、始まりも終わりもない。
Tくん(3)ともブタクサクイーンを剣にして遊んだ。
この日も夕日がきれいだった。若い子たちは夕日に見いったりしないけど、おじさんたちはじっくり見て、動画まで撮っていた。
月の出までいたかったけど、帰って仕事。仕事終わって外に出たら、ポッカリの満月。
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「囚われの女 Ⅰ」後半
ブリショと話している語り手
○しかし教授とふたりきりだったわけではない。そもそも家を出たときからずっとそうであったように、私は漠然とではあるが自分が、いま自分の部屋にいる娘と結びつけられているのを感じていた。だれかと話していても私はその娘が自分のそばにいるのをおぼろげに感じていて、娘をまるで自分の手足のようにぼんやり意識し、
という、語り手のアルベルチーヌへの想いは、時々ビーへの想いを強く思い出させてくれる。
家に帰って、部屋の明かりを見上げて。
○いまや私を迎えてくれる人に自分の人格を隅々まで譲り渡してしまい、いっときたりとも自分のことに想いを馳せる暇もなく、相手が私のそばにいるからには、相手のことも考える必要がなくなる
語り手は憂さを感じているこんな日々は、幸せそのものだ。
家に戻った語り手は、アルベルチーヌとヴァントイユ嬢の女友達との関係を妄想して苦悩し、もう別れよう、と考えながら、ヴァントイユの芸術についてアルベルチーヌに語る。
○ヴァントイユから与えられた漠然とした感覚は、回想に由来するものではなく、印象に由来するものなので、その音楽のゼラニウムの芳香については、物質的な説明を見いだすのではなく、その深い等価物を見いだすべきであり、つまりヴァントイユがそれによって世界を「聞き取り」、その世界を自分の外に投げ出したやり方ともいうべき、色鮮やかな未知の祝祭を見出だすべきであろう。
話は、文学へと流れ、ドストエフスキーの「白痴」「カラマーゾフの兄弟」について語られる。
失われた時を求めてもあと3冊になってしまって、その後どーやって暮らそう、と思ってたけど、芸術は芸術を呼ぶ。ドストエフスキーを読み返したくなった。
語り手と一緒にいて、話を聞いているアルベルチーヌはいつもかわいい。従順なようにも見えるけど、語り手の中では彼女が大嘘つきで、その嘘に耐えられなくなり、別れようと思うけどなるべく自分にダメージのない別れ方をしようと画策しはじめる。語り手はほんと、ヘドが出るほどやらしい、めめしい、どっちつがずのげす野郎だ。
○私は彼女を膝の上に抱き上げ、その顔を両手で挟むこともできたし、彼女を愛撫し、その身体に長いこと両手を這わせることもできたが、それはまるで太古の大海原の塩分や星の光を含んだ石を撫でているのに等しく、自分が触れているのは、その内部が無限へと通じる存在の閉ざされた外皮にすぎないという気がした。
ビーを撫でた時の感覚!
語り手はアルベルチーヌを自分に執着させようと、別れ話をちらつかせ、その後でアルベルチーヌにちょっとした変化がある。それは、おやすみのキスをしてくれないこと、部屋の窓を思い切り開けたことだった。
語り手は、アルベルチーヌに窓も開けるな、と言って彼女はこれまでそれに従っていた、もう1巻から分かってたけど語り手ほんと胸くそわるいほど身勝手なくそ野郎。アルベルチーヌを引き留めるためにフォルトゥーニの400万とかするガウンやらヨットやらをプレゼントしようとするけど、もううんざり。いけ!アルベルチーヌ!
ある朝、フランソワーズが言う。
「アルベルチーヌさんはお発ちになりました」
ここで11巻終了。