3月28日、やっとここまで咲いた。今年は遅め。
ラナンキュラス ラックス ハリオスさんも咲いた。
けっこう迷ったけどこの方に来てもらって良かった。
アリアドネもずっときれい。
ベロニカ オックスフォードブルーも咲いてきた
ふんふん
ビーも好きだったゾゾ箱はまーりんもお気に入り
絶大な信頼を寄せてるのはモンにいだけ
専用シート
じゃーん!こんなに鼻に砂粒がついて、気にならないなんてことあるのだろうか
長い棒の先に長いひもがついた4連ネズミのオモチャが最近のブームなんだけど、遊んでてひもがモンちゃんのジグザグ鍵シッポにひっかかってしまった。
モンちゃんはパニクってテーブルの下に走り込み、ひもがテーブルやイスの脚にからまってさあ大変。
ひもがピンと張って、モンちゃんは身動きとれなくなった。
鍵シッポに何かひっかかると、ビーは「シャーッ」と激怒して、外すためにシッポをつかもうものなら私の手にグサッ!と爪を刺したりガブッ!とかみついたりしたもの。
モンちゃんのシッポをつかむと、「ファー」と困ったような小さい声で鳴き、私の手にカプ!とかみついたその噛み方が、なんていう優しい感触。超甘々がみ。こんな噛まれ方、かつてされたことがない。
モンちゃんのシッポはカギ3つの複雑な折れ方で、うまくほどけなくてますますパニクったモンちゃん、また走り出してしまい、イスの脚にひっかかり、「モンちゃん、私がなんとかするから大丈夫だよー」と取り押さえ、ひっかかれるの覚悟でシッポを強くつかんだら、「ファーン」と力なく鳴いて今度はちょん!と私の手に爪を、たてるのではなく当ててきたその優しさ。優しい、優しすぎる。
モンちゃんがマオちゃんとケンカしてるときも、このくらいの優しさで甘噛みしてるんだろう。
殿も私に爪をたてたことはないジェントルにゃんだったけど、モンちゃんもあまりにジェントルで感動。
ひもはぶじにほどけたけど、モンちゃんはけっこうへこんだ。2、3分だけど。
まいったぜー
その後は何事もなかったかのようにお皿前スタンバイ。
その少し後、ゴゴゴゴと謎の音が聞こえてなんだろな、と思ってたら地震がきた。
マオちゃんはベッド下に逃げ、モンちゃんは網戸の外を見ていた。
音は地鳴りだった。2度目の地震が始まるときにまた地鳴りの音。ふだん聞いたこともないすごい音で、怖かった。
ガクブルでモンちゃんを抱えてテーブルの下に入ったのだけど、モンちゃんも珍しいイカ耳になっていた。
よく考えたら、猫はむりにテーブル下に入れるより放しておくほうが自分で身軽に逃げるのかもしれない。
でも私の体の下でモンちゃんはじっとうずくまっていた。
地震止まれーと祈りながら、コロナがあってウクライナで戦争が始まって、その前にはあの台風もあって、何か大いなる意思が人類をつぶそうとしてるんじゃないかとかまじで思った。
関東では大事には至らなかったけど、東北地方のことを思うと震えた。怖かった。
何ができるかって、ウクライナにも被災地にも、猫や動物関連の募金をしよう。
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河原の護岸工事が終わって、コンクリートで固められた味も素っ気もない土手ができていた。夏に子どもたちが遊んでた川縁や中洲があとかたもない。長年私の憩いポイントだったテトラポットもなくなった。まあ、多摩川は広いので、少し歩けば自然のままの土手が続くんだけど。河原もこの10年でどんどん様相が変わった。
自然のままの土手は初夏すぎると草丈が高くなりすぎて入れなかったけど、コンクリート土手は季節問わず水面近くまで降りられる。水面を眺めることができれば、コンクリートでもよしとする。味も素っ気もないけど読書ポイントになりそう。
ためしにコンクリートのブロックに体をうまくはめて、新刊の現代思想の本を読んでみた。この本は日頃なんとなく考えていたあれこれにつながる思想がわかりやすく書かれていてとても面白い。
◯自然と文化が入れ子になった泡立つような状況の中で、我々は生きていかねば、ならない
◯自然と文化は相互に依存し続け、主従が入れ替わり続ける。毒にも薬にもなる両義的なもの
デリダの章より。何かを決断するときに、切り捨てた選択に対する未練を大事にすること。自己は他者性がサイダーのように泡立つ世界で仮固定されているもの。
河原は菜の花やハマダイコンが咲いてきた。中洲は工事の後で緑っけがなくなって砂利になってるけど、そのうち緑になってくるだろうか。
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今月の鐘はめちゃめちゃ重かった。痛み止め飲んでお腹にカイロはってても、2日間みっちり激しい腹痛、体じゅうの血が全部出るのかってくらいの出血、3日目は貧血でふらふら、意識朦朧、ぼんやり頭痛もした。
その状態で海へ。由比ヶ浜は風もなくて、潮がひいて干潟みたいになったところは水も暖かかった。
浜でも新刊の現代思想の本。ドゥルーズの章。世界は差異でできていて、同一性は差異より先にある。それぞれの差異は、木の根っこみたいにつながっている(リゾーム)。あらゆる事物は差異化のプロセスにあって、生成変化の途中である。すべては運動のただ中にあり、始まりも終わりもない。
海の後、お寺に行っても空が明るくて、ふらふらで具合わるいのに、山の上まで行った。虫が灯りに吸い寄せられるような感じで、足が止まらず階段を上った。
鶯、ガビ、リスが鳴いてた。桜はほんの一輪ずつ咲いてたけど、日没後の寒さできゅっと縮こまってた。紅木蓮は今年は花がいつもの半分もない。
貧血で歩いても体が暖まらず、車内も換気のため窓を開けてるので頭から冷えきってしまい、車に酔って気持ちわるくなった。ふつうなら家で寝てるべき日。
CはCで肩に石灰がたまり炎症を起こして激痛だった、と2週間ぶりに会ってしばらく病気の話。
春分の日はKの命日で毎年お墓参りに行くのに今年は行けなかった。行こうとしたけど、コロナの濃厚接触者になって間もないので両親に会うのは心配でやめた。
ママがしっかりお参りしてくれた
私は空にお祈り。天国でみんなで仲良く楽しくしててね、そしていつか会えますように。
コロナで10日間の経過観察が終わる頃に鐘が鳴り、鐘4日目には貧血の症状もおさまって、よーやく元の生活に戻ってサウナ行ける!と思ったら、電力不足で営業時間短縮ですと。おまけに今日は10℃切ってる。春なのに。