なぎのあとさき

日記です。

其の三 月曜、火曜

2005年08月30日 | ビーに降る愛の歌 2002

 仕事から帰ると、ひと息いれる前に夕食の支度をする。クーラーが壊れているので、汗だくで冷やし中華を作った。 調理の一部始終を冷蔵庫の上から眺めているビーに、薄焼き卵をちぎってあげると、噛まずに飲み込む。好みの味ではないらしく、それ以上欲しそうにはしなかった。猫たちの器にも猫缶を入れて、夕食にする。猫たちはものの五分で食べ終えると、家の中は暑いのでベランダに出た。私は雑誌を読んだり、お笑い番組を見たりしながらゆっくり食べた。

 食べ終わって、煙草に火をつけてベランダに出ると、殿とビーがベランダの端に並んで涼んでいた。部屋に戻ってしばらくすると、殿があわてた様子で部屋に駆け込んで来た。何かあったのかとベランダに出ると、向かいの家の塀の上に、体格のいい虎猫がいる。ビーの姿はない。Tが帰り、再度一人分の冷やし中華を作り、食べ終えるのを待って、ビーを探しに出かけた。
「ビー、ビー」
 夜中の一時過ぎで、あまり大きな声は出せないけれど、静かな住宅街なので小さな声でも猫の耳なら聞こえるだろう。
「ビー」
「ナー」、と答えた猫は殿だった。まぎらわしいので、殿を連れて一度家に戻り、窓を閉めてからビーを探した。
 空き地、神社、駐車場、庭など猫のいそうな場所では立ち止まって何度も呼んでみたがビーは出てこない。 
「ビーがこんなに長いこと帰ってこないの珍しいよ」
「うん、いつも二、三時間で腹減って帰って来るからね」
「お腹空いてるはずなのに、帰って来ないなんておかしいよ」
「大丈夫だよ、少しくらい痩せた方がいいんだから、ビーは。この前獣医にちょっと太り気味ですねっていわれたばかりなんだから」
「まあそうだけど。お腹ぶりんぶりんだもんね」
「俺はどっかでうまいもんもらってるんだと思うけどね」
「かなあ。ビーかわいいからねえ。ユニバーサル級のかわいさだからねえ。あたしたちの知らないとこにファンがいてもおかしくないよね。優しい老夫婦かなんかで、うちなんかよりずっと広い家住んでて、うちみたいにクーラーも壊れてなくて、おばあさん暇だから魚屋で買ってきたアラとか自分で煮てあげて、居心地よくて、ついつい長居してるのかもね」
「そうそう。ビーはウハウハでやってるよ。そのうち飽きて帰って来るよ」
 半径50メートルくらい歩いたけれど、ビーの気配はない。殿も一晩帰らないことが最近あったし、明日の朝には戻っているだろうと思って、その夜は寝ることにした。

 次の朝、目が覚めるとすぐにベッドの下のビーの寝床を覗いてみたが、姿はなかった。急いでシャワーを浴びてから、ビーを探しに外に出た。蝉しぐれを効果音に、目の眩むような真っ白い陽射しがふりそそぎ、すぐに汗でTシャツの背中がびしょ濡れになった。
「ビー」
 何度も名を呼んだが出て来ない。こうまで暑いと、アスファルトに出てくるのが嫌で、どこか涼しい場所で眠っているのかもしれない。猛暑の白昼に猫を探すのは難しいと思って、家のすぐ近くにある世田谷観音に行き、「ビーが元気で帰って来ますように」と祈った。つい最近殿が家出したときは、次の日の夜に帰って来た。ビーも夜には戻るだろうと思い、仕事に出かけた。

 仕事中はただ目の前にある仕事をこなしていった。手を止めるとビーのことを考えて、心配で仕事が手につかなくなるので、ひたすら仕事に集中した。
 同じ部のSさんに昼食に誘われて仕事を中断すると、ビーはどこで何をしているのか、そればかり気になり出した。Sさんにはビーがいなくなったことは話さなかった。Sさんはもともと理系で結論を急ぐようなところがあり、猫がいなくなったと聞けば私が〝恐れていること〟を平気で口に出しかねない。上の空で世間話をしながらパスタを食べると、ぼろ雑巾を口に入れているような気がした。

 〝恐れていること〟をイメージしたり、頭の中で言葉にしたりすることを必死で避けた。縁起の悪いことを考えたくなかっただけでなく、〝恐れていること〟が脳裏をかすめただけで、頭がわれるように痛くなり、めまいがし、吐き気がし、動悸がして、仕事どころではなくなる。他人にも口に出して欲しくなかったので、Sさんだけでなく、職場ではビーがいなくなったことは黙っていた。

 別の部の、猫を二匹飼っていて、猫の話をはじめるといつまでも止まらないおじさんにだけ、ビーのことを打ち明けた。
「うちの妹猫が昨日の夜から帰らないんですよ」
「猫砂を家の周りにまいておくといいよ。そしたら匂いで帰って来るからさ」

 集中したせいかいつもより一時間ほど早く仕事を終え、急いで家に帰った。いつものように玄関の前で殿が帰りを待っていた。ビーはたいてい家の中で寝ていて、私の足音がすると玄関先まで出迎えに来る。でもその日玄関を開けても、ビーは迎えには出て来なかった。疲れて寝ているのかもしれないと思い、家中を探してみても姿はなかった。すぐ外に出て、ビーの名前を呼びながら、近所を探した。疲れると家に戻って、ビーを待った。心配で何も手につかないので、疲れがとれ次第、何度も外に出てビーを探した。半径二百メートルほどの範囲を、ときどき自転車を止めて、ビーの名前を呼びながら回った。

 家にいる間も、ベランダからビーの名前を呼んだ。祈る気持ちで空を見上げると、夏の空にしては星が多く出ていて、流れ星を見つけた。流れ星の、ピョーンと短く伸びた曲線がビーの胴のようで、「ビーは無事だよ、元気に遊んでるよ」、というビーからのメッセージだと思うと涙が出た。
 夜になってもやまない蝉の声に混じって、ビーの声が聞こえたような気がしても、次の瞬間には蝉の声だけが聞こえた。   

 殿は、家の中にいるか、ベランダで涼んでいて、遠くへ出かけようとはしなかった。殿は、妹猫のビーの前では、だっこされるのを嫌がって自分からは決して甘えないのに、ビーがいないと人が変わったように甘えてくる。暑い夜も、一度だっこすると抱かれっぱなしになっていた。

 仕事を終えたTから電話があった。
「今から帰るよ」
「うん」
「今日ご飯は?」
「ごめん、何もないの」
「わかった。じゃあ何か買って帰るよ。ヤツは帰って来たの?」
「まだなの」
「そっか。困った子だね」
「早く帰って来て」
「うん、急いで帰るよ」

 一人で家にいると、ビーがいないことがさみしくて泣いてしまう。すると、ベランダで涼んでいた殿が帰って来て「ナー」と鳴く。殿の背中に顔をつけて泣いても、殿は嫌がりもしないで喉を鳴らし、全身にブルルルル、という音が響き渡る。殿が息を吸うときのブルルルルと、息を吐く時のクルルルルという音が、さざ波のように反復して鳴り響き、少しだけ気分を落ち着けてくれた。

 Tが帰ってきて、コンビニ弁当だけでは足りないようだったので、そうめんを茹でて一緒に食べた。

 食べ終わるとすぐに、二人でビーを探しに出た。じっとりと暑い空気が動かない熱帯夜で、少し歩くだけで喉が渇く。喉の渇きを感じるたびに、ビーに飲む水があるのか心配になった。こうした〝恐れていること〟は、言霊になるのがいやなのでTにもいわなかった。ふだんは言霊だの迷信だの全く信じていないけれど、今はどんな可能性にでも賭けたい。〝恐れていること〟が脳裏をかすめるだびに、自分の太ももの肉をぎゅうっとつねりあげた。その痛みで胸の苦しさを紛らわせた。

 歩いて探しては家に戻り、一休みしてから一人で自転車で探しに出かけることを何度か繰り返した。
 車の多い通りを避けて、夜の町を歩いていると、これまで見たことのない猫を何匹も目にした。猫に出会う度に、ビーの姿を念じながら、「見かけたら、家に帰るように伝えて」と、言葉ではなくイメージでテレパシーを送った。

深夜、ベランダに使用済みトイレ砂を 少しおいてから、力尽きて簡単に眠りに落ちた。

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