今日(06.6.8)からアジア訪問へ出発する天皇が昨夜(06.6.7)記者会見した。
――先の大戦によって、日本に対する複雑な思いも残る地でもあります。戦後60年を経て再び訪問されることに、どんな思いがおありでしょうか。
天皇「先の大戦では、日本人を含め多くの人々の命が失われました。そのことは返す返すも心の痛むことであります。私どもはこの歴史を決して忘れることなく、各国民が協力し合って争いのない世界を築くために努力していかなければならないと思います。戦後60年を経、先の大戦を経験しない人々が多くなっている今日、このことが深く心にかかっています」
戦後60年経過するというのに、〝謝罪と反省〟を――少なくともその気持を示すことから始める。
昨年インドネシアのジャカルタで行われたアジア・アフリカ会議<バンドン会議>50周年の首脳会議(05.4.22)では小泉首相自身が「国のために戦った」と称賛して戦前の日本国家への奉仕を絶対価値と示す靖国参拝姿勢を裏切って、村山談話を引用しながら、「わが国はかつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と、「国のために戦った」軍人・兵士、戦争自体を謀議した政治家・軍部が「与えた」主体であることには靖国参拝しているのだから当然意を介さずに「こうした歴史の事実を謙虚に受止め、痛切なる反省と心からのお詫びの気持を常に心に刻みつつ」云々と〝謝罪と反省〟に当たる「痛切なる反省と心からのお詫びの気持」を表明している。
1990年韓国の盧泰愚大統領来日時の宮中晩餐会で現天皇が「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味われた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」と、天皇自身が〝謝罪と反省〟を述べたのに対して、当時自民党に在籍していた小沢一郎が「反省しているし、協力している。これ以上地べたにはいつくばったり、土下座する必要があるのか」と怒りもあらわにというか、不快感もあらわにというか、これ以上の〝謝罪と反省〟への全面反対の姿勢を示す言葉の露骨さ自体に物議をかもしたが、小沢一郎の場合は何度も繰返している、もう繰返す必要はないという気持からの意思表示だったろう。
単に〝これ以上〟という回数や量、あるいは表現の問題ではない。戦前の戦争に関係する節目節目に〝謝罪と反省〟から入らなければならないのはなぜなのか、今以てそういった形を取っていることを問題にすべきだろう。例え天皇が被侵略国へ訪問した場合に於いてでもである。
つまるところ戦後日本がアジア各国に対する戦争責任を金銭的な補償のみで片付いたものとし、自らは自らの手で自国人の戦争責任を問わずに曖昧にしたばかりか、極東軍事裁判自体に疑義、もしくは否定的見解を示し、最も責任あるA級戦犯を靖国神社に合祀・参拝する形で日の当たる場所に名誉回復させ(このことは自国人の戦争責任は問わずに曖昧化したことと符合する事柄であろう)、あるいは侵略戦争の否定、強制連行や従軍慰安婦、南京虐殺といった事実の否定、さらに国の戦争責任を認めることになる国家の資格での個人補償の否定等々を行い、気持の上では戦争責任をきっちりと取ってこなかった、戦後処理を真正な形で行ってこなかったことから、無意識下に精神的な借り、あるいは負い目を感じていて、それを埋め合わせる代償行為として、〝謝罪と反省〟から入らざるを得ないのではないだろうか。
何度催促されても借金を返済しきれない人間が債権者に対していつまでも頭をペコペコと下げなければならないようにである。
戦後の早い時期に戦争責任をきちんと認めて、国内的には自らの手で戦争犯罪人を裁き(裁いていたら、靖国神社参拝は否定的行為となっていたに違いない)、アジア各国が納得する戦後処理を物心両面に亘って果たして日本が国家としての信頼を回復していたなら、戦後60年を経過しても〝謝罪と反省〟から入らなければならない場面は避けることができたのではないだろうか。日本の方から〝謝罪と反省〟から入ったとしても、相手が、もういいよ、と言ってくれるだろうからである。言ってくれないのは、まだ足りないと思っているからではないだろうか。