それは侵略戦争及び靖国参拝の正当化から始まる。
正当化の相互補完。靖国参拝を続け、A級戦犯を合祀し続けることによって、意識の上では戦前の戦争が正当化可能となり、戦前の戦争を正当化するためには、靖国参拝とA級戦犯合祀は必要条件を成す。
「国のために戦った戦没者」
「国に殉じた兵士」
そこには一般民間人・非戦闘員70万人余の死者は存在しない。意識の中に於いても戦死者200万人の前に70万人など物の数ではなく、忘却の底に埋葬の置き去りを喰らっている。
日本国家を肯定しないからだ。「国のため」とは国民が国を〝奉公〟(朝廷・国家のために一身を捧げて尽くすこと/『大辞林』)の対象とするということで、国への役立ちを意味する。国のために戦った・殉じたとすることによって国は肯定され、国も、戦った・殉じた側も共々美化することができるが、国のヘマによってその犠牲がもたらされたとすると、国は悪者にされ、その適格性・優越性を問われることになる。
だから、アジアの国々から戦争被害に対する個人補償を求める裁判が起こされたとしても、一切国の責任を認めない。日本が悪者にされることは許されない。
「アジアに対して多大な被害をもたらした」と口では言うが、靖国神社思想には2000万人以上と言われるアジアの戦争死者が席を占める場所はどこにもない。「国のために戦った戦没者」・「国に殉じた兵士」のみしか意識されない。
国への奉公によって命を落としたのではない一般日本人と同列に位置するからだ。日本という国を悪者とし、その国家の適格性や優越性ばかりか、歴史まで問われることとなるために、意識の外に置かなければならない。日本という国家がすべてであって、〝奉公〟やその他で国を肯定できる内部の人間だけが意識されることとなる。そのような日本という国だけを考える国家中心意識が単一民族意識を生み出している。それを支えているのが日本民族優越意識であろう。日本民族は優秀であるとすることができるから、単一民族を唱えることができる。
16日(06年6月)に閉幕した開催地東京の『世界経済フォーラム・東アジア会議』で、「シンガポールからの参加者は、日本企業が海外現地法人の幹部を日本人で固めていると指摘し、『外国人を使いこなせる多国籍企業ではなくてはならない』と述べた」(『ダボス会議東アジア会合 経済統合 日中関係が影』06.6.17.『朝日』朝刊)と出ているが、世界のグローバル化の流れに反するこのような状況も、日本人が優秀だとしているからこそ拘ることができる日本民族優越意識からの日本人優先人事であろう。
靖国神社こそ、現時点に於いて天皇についで二番目に日本優越民族国家を体感できるなくてはならない記念碑であろう。何しろ日中戦争・太平洋戦争で国に奉公した国家指導者を含む戦死者英霊200万人もが眠ったままその〝奉公〟という偉業によって日本を肯定し、戦争を肯定する役目を担い、日本を戦前から引き継いだ瑕疵なき国家・無誤謬国家(=優越民族国家)と見せているのだから。
天皇の参拝が再現され、かつての国への奉公に慰謝を与えたとき、靖国神社は天皇と合体して〝天壌無窮〟の光を放つ。多くの日本人の意識の中に神国の再来をもたらすだろう。多くの日本人の中に勿論、「日本は神の国」と言った森前首相を真っ先に入れなければならない。二番目の椅子は小泉首相に与えよう。