連続幼女誘拐殺人事件を起こして死刑が確定した宮崎死刑囚が月刊誌に手記を寄せて、「日本で実施されている絞首刑について『踏み板が外れて下に落下していく最中は、恐怖のどんぞこに落としいれさ(ら)れるのである。人権の軽視になってしまいます』」(06.6.7.『朝日』朝刊)と述べているそうである。
絞首刑否定の代わりに「『(米国のように)薬使用死刑執行だと、「遺族にはやはりすまないことになったなあ」と反省や謝罪の言葉を述べる確立(確率)も高い』」(同記事)と「薬使用死刑」を支持している。
殺人者であっても、やはり人間である。今後の制度自体と方法の是非は別として死刑判決が他者の生命を犠牲にしたその残忍さに対する懲罰であることを当然の認識として、その懲罰(=死)と日々向き合っていく段階を経なければならないのは既定された事実であるにも関わらず、価値判断が自己中心に立った自己利害の制約を受け、そこから逃れられないでいる。そもそもの幼児誘拐殺人自体が他を一切顧みない異常なまでに自己中心的な自己利害行為であり、それをそのまま引きずった自己中心性でもあろう。世の中、こういった人間が多いのは、それが人間本来の姿でもあるからだ。利害の自己中心性が強いか強くないかの違いしかない。
政治にしても国民のためと言いながら、直近の選挙(参議院選)への影響を考慮して消費税の増税率を曖昧とする国民ではなく自分たちのことを考えた自己中心的な自己利害を優先させる。
人間は幼くても自己中心性を抱えている。それでも幼く生き・幼く笑い、ときには幼いままに泣き、幼いままに怒る。食べ、寝て、遊び、父親、母親と親しみ接し、友達と触れ合う。自己中心性を抱えながらも、感情と意志ある生きものとして無心・無邪気に生き、それがずっと遠い将来まで続くという生命自体に本来的に与えられ、人間の当然の権利としても与えられている意識・無意識の生命の予定調和を自己中心の歪んだ欲望・歪んだ自己利害のために無残にも暴力を以て破壊し、抹消した自らの残忍な仕打ちは打ち忘れてしまったらしく、誘拐し、殺した幼い子どもたちにどれ程に深い「恐怖のどんぞこ」を味わわせたことか、それがどれ程に残酷な「人権の軽視」であったか、〝相対化〟の差引計算すらできずに絞首刑が宮崎死刑囚に与えるとする「恐怖のどんぞこ」、「人権の軽視」の不当を訴える。
少なくとも宮崎死刑囚には自らが犯した「人権の軽視」と比較した場合、絞首刑の「人権の軽視」を言う資格はない。それでも言うのは、犯罪者であったときから死刑囚となった現在まで、他者の生きて在る事実は存在せず、生きて在る自己にのみ目を向けているからだろう。自己あるのみ、の自己中心性なのである。