日本時間6月23日、日本チームが対ブラジル戦を4-1で敗れて、1勝もできないままに1次リーグ敗退が決定、06年度サーカーワールドカップ挑戦の幕を閉じた。
最終戦となった対ブラジル戦開始前に確か清水エスパルスでかなり前にゴールキーパーを務めていたと思うのだが、ブラジル人のシジマールが(かなりのおっさんになっているようだった)静岡県の浜松市で暮らしているらしく、ブラジルチームではなく、日本チームを応援すると言うのを静岡を地元とするテレビ局が映し出していた。額には日の丸の鉢巻きをして、日本チームのサポーターになり切っている。リポーターの質問に、「3―0で日本が勝つ」と即座に宣言した。
日本チームが幸先のよい先取点を入れたものの、前半戦の終了間際に同点とされた瞬間、シジマールの予想は崩れた。リポーターが予想が早々に外れたことを指摘すると、シジマールに「日本の選手、ボール見てるけど、周りの選手見ていないよ」と逆に怒るような口調で日本チームの欠点を指摘されてしまった。面倒見切れないといった調子だ。
23日夜のNHKテレビでは、98年の日本チーム監督の岡田武史氏がアナウンサーに日本サッカーの今後の課題は何かを問われて、「コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ」と言っていた。
6月24日の『朝日』新聞は中小路徹氏(単なる記者なのか、サッカー関係者なのか分からない)と04年度の日本チーム監督のトルシエ氏、それに元日本代表の北沢豪氏の解説を別々の記事で載せている。
まず中小路徹氏の記事を簡単に見てみると、「組織か個人か。理想とする戦術に合わせて選手を選び、細かく教え込んだトルシェ監督に対し、戦術の大枠だけを示し、あとは選手個人に自分の能力を最大限に引き出すことを求めたジーコ監督」
「指示されるのではなく選手自らが状況判断を下す自主性を求めた」
トルシエ元監督が血肉となっている日本人の行動様式・思考様式を十分に承知していて、「細かく教え込む」指示方式を採用したのかどうかは分からない。しかしジーコ監督が知らなかったのは事実だろう。知らなかったからこそ、「選手個人」の判断・自主性に任せることができた。知っていたら、とても「自主性を求め」ることなどできなかったろう。
何度でも言うことだが、暗記教育にしてもその一つ現れに過ぎない、上からの指示に従い、それをなぞる方法で自分の行動・思考を決定していく習性(権威主義)を日本人は一般性としている。判断・自主性に関して言うとするなら、如何に従い、如何になぞるかに関する判断と、判断に応じてその方向に向けた自主性は、その限りに於いては勿論十分に発揮し得る。指示に従って、指示されたとおりになぞっていく上での発展はあるが、指示にない自分の判断がないから、それが必要となる相手がある場合は相手の動きを追いかけるのが精一杯の、なぞることに関する自主性は何ら役に立たないといった事態に陥る。その忠告として、岡田武史氏は「コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ」と選手個人個人が自らの判断を持ち、それに従った自己独自の動きを求めたということだろう。
また「日本の選手、ボール見てるけど、周りの選手見ていないよ」と言っていたシジマールの言葉は、ボールの動きに従い、その動きをなぞることには慣れているが、それだけで、相手チーム・自チーム含めた周囲の選手の動き・位置に関する咄嗟の判断とその判断に応じたボール扱いがないという判断の限界(=動きの限界)を指摘したと解釈できるはずである。判断と動きは表裏一体を成すから、相手選手の裏をかくような自主的な動き(=岡田氏が言う「何をするか分からないという」動き)は特に期待できないことになる。
結果として「結論から言うと、ジーコ監督のやり方は時期尚早だった」と指摘しているが、民族性としてある日本人の行動様式・思考様式である。保育・幼稚園時代から小中高大学と暗記教育離れを経験しないことには従い・なぞる行動様式からの卒業は難しく、「時期尚早」どころか、永久に実現不可能な「ジーコ監督のやり方」ということになりかねない。
記事は「日本はこれまで、個人能力の劣勢を、組織力を研ぎ澄ませることでカバーしようとしてきた。現実的な策ではあったが、個人能力の不足と正面から向き合わない、逃げでもあった」と一般的な分析となっている日本チームの体質的な特徴に言及した上で、その問題点を指摘している。同じ団体競技であっても野球みたいに一定の順序(相互の関係)が前以て決まっている(ピッチャーがキャッチャーのサインを受け、ボールを投げ、打者が打ち、その打球を野手が追いかけるといった相互の選手の関係と順番性)だけではなく、監督からサインを受け、その順序とサインに従属する中で選手は一人ずつその能力が試され試合が展開していく、決められている指示(全体的ルール)に対する従属の形式に則った上での個人能力の発揮は日本人の行動様式・思考様式とは調和し合うが、だからこそワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本チームの王ジャパンは力を発揮して初代チャンピオンの座に輝くことができたのかもしれないが、サッカーは選手一人一人が自らサインを出していく判断と判断に応じた技術が不特定多数との絡み合いの中でその場その場で順序(相互の関係)を組み立て試合全体を構成していく一定の形式を超えた団体競技であって、日本人の行動様式・思考様式とは本質的には相容れない構造となっている。
外国勢相手のサッカーの勝敗を決定する主要因がそのことに占められている以上、「組織力」を以て臨むのは永遠の限界を抱えることになる。郷に入らずんば、郷に従え。サッカーが要求する勝敗決定要因に従う以外に道はないのは言うまでもない。それとも永遠の三流に甘んじるか。
誰しも三流は望んでいないようで、最後に次のように結んでいるが、「ジーコ監督は選手を信頼しすぎてしまった。懸念されるのはこの4年間が否定されてしまうことだ。組織と個人能力は対立軸ではなく、両方備えてこそ、強いチームになる。やっぱり個人能力重視はダメだと、組織頼みに針を戻すようでは、日本サッカーは退行するだけだろう」は当然の警告であろう。
但し、では具体的にどうしたら「個人能力」が育成できるのかの処方箋は示されていない。
前回日本の監督だったトルシエは「敗因はまず選手の経験不足。たしかにこの4年間で、彼らは経験を積み進歩したが、それでもまだリアリズム(現実に即してプレーする判断力)が足りない。ロナウドの同点ゴールも豪州戦の悪夢の10分間も、選手に状況を的確に見分ける力があれば起こりえないことだった」(一部抜粋)と言っている。
最初の記事の中小路徹氏はトルシエ元監督を組織力重視派に位置づけていたが、要求しているのは「状況を的確に見分ける」個人能力としての「リアリズム(現実に即してプレーする判断力)」の向上である。
尤も「4年前はコレクティブに(集団で)戦い1次リーグを突破した。今回は個人の強さを前面に出したが、不十分だった。日本の誇る中盤は、技術レベルは高いが、結果は何ももたらさなかった」と自身の戦術が組織力重視であったことを披露しているが、そのことに反してジーコ監督の「個人の強さを前面に出した」戦術に選手の個人能力が不足していたためについていけなかったと言うことだろう。当然、その不足を補う向上が要求される。
日本サッカー協会の川端会長は「02年のトルシェ前監督のように、選手を枠にはめるような方向には絶対しない。選手の個々の特徴を大事にするジーコの流れを変えない」(06.6.24『朝日』朝刊)という方針で次期監督の人選に入っているとのこと。〝日本的〟ではダメだ。非日本的な〝自主性〟を基本とした戦術を求めると言うことだろう。そういった主体的行動性を日本人に求めるのは本質のところでは無理があると承知しているかどうかである。
元日本代表の北沢豪氏は「ブラジルを見て思ったのは個性があり、バリエーションが豊かなこと。日本は特徴、武器を持った選手が少ない。個人の武器を伸ばすことは個の力を伸ばすことになる。それが日本が強くなっていく一つの方法だと思う」(一部抜粋)
言葉は違えても、言っている内容は3氏とも同じである。個人能力の向上を訴えるものの具体策は示せないでいる。
今朝の『朝日』朝刊(06.6.25)が、次期監督にJリーグ1部・ジェフ千葉のオシム監督の就任が確実になったと報じていた。「オシム監督が選手に求めるのは約束事を守ることではなく、チームにとって何が必要なのかを常に考える姿勢だ。
規律で縛った02年W杯のトルシエ監督から、自主性を求めた06年のジーコ監督、そしてオシム監督へ。日本協会は両極端に振れた舵を、真ん中へ持っていこうとしているのだろう(中小路徹)」)
オシム監督は90年W杯で旧ユーゴスラビア代表の監督を務め、チームをベスト8にまで導いた実績があるとのことだが、個人能力に劣る日本人選手が相手である。例えジェフ千葉を強いチームに変える能力を見せたとしても、いわば日本というコップの中で子供同士を戦わせて頭一つ抜け出た程度の成果を上げたといったところで、外国勢という大人を相手の戦いの中でジェフ千葉を変身させたわけではない。いわば素材自体に差があることも考えなければならない。誰が監督になろうと日本チームを率いるのは難事業であって、簡単には行かないことを覚悟しなければならない。
今年8月に07年アジアカップ予選が開始すると言う。4年後には再びW杯(南アフリカ大会)が待ち構えている。保育・幼稚園から暗記教育離れを促すことで上の指示に従って、指示されたとおりになぞっていく一般性となっている行動・思考様式を薄め、それに代わる主体的判断を裏づけた〝自主性〟を身につけさせ個人能力の向上につなげていく方法を本質的には必要とするが、それでは時間がかかり過ぎ、アジアカップ予選はともかく、4年後の南アフリカ大会にしてもとても間に合わない。
では日本人の行動・思考様式には手をつけずに、判断能力と運動性両方の個人能力を高めるにはどうしたらいいか。サッカーに関してはド素人に毛が生えた程度の知識しか持ち合わせていないが、大胆不敵・不遜にも具体的な処方箋を示してみようと思う。
まず最も強いチームと対抗できる力を養うために、23日1次リーグ最終戦のブラジルチームと日本チームの実力差はどの程度か、数値で弾き出す。もしブラジルチームが日本チームの2倍の実力があるとするなら、新監督のもと新たに編成された日本チームは試合形式の練習を多用し、日本チームのイレブンに対して、相手チームは常にゴールキーパーに当たる1人を抜いた21人編成として、11人対21人のチームで練習試合を行う。
もしブラジルとの実力差が1.5倍なら、11人×1.5≒16人を相手チームとする。当然日本チームはどの選手も普段以上の多人数の厳しいマークを受けることになるが(ブラジルのロナウジーニョなどは日常的に3人4人のマークを受ける)、パスにしてもドリブルにしてもシュートにしても、阻もうとする力とかいくぐろうとする力のせめぎ合いの中で阻もうとする力が強ければ強い程、かいくぐっていく判断と動きはいやでも優る形でその場その場で決定していかなければならないわけで、いくら選手が指示に従い、それをなぞっていく行動・思考様式を同じ日本人として一般性としていたとしても、それを働かす余地は与えてもくれないはずだし、優る形への努力が瞬間的な判断力と身体的敏捷性を少しずつ育む方向へ導いてくれるはずである。
21人相手、16人相手では多勢に無勢過ぎて技術を身につけるどころか話にならないということなら、相手チームは12人から始めて、徐々に増やしていき、ブラジルとの実力差と対等となる人数に限りなく近づけていくという方法もある。
動物にしろ植物にしろ生き物は環境への適応を余儀なくされて進化や退化を繰返すように、判断力にしても運動能力にしても多人数相手の試合という環境への適応を余儀なくされて、能力は進化の方向に向かわなければならないはずであるし、向かうようにしなければならない。15人から20人の多人数チームとの試合を少なくとも5分で戦えるレベルにまで達したとき、大人に位置する外国勢と対等に戦える力を獲得できたと言えるのではないだろうか。
この方法は非現実的だろうか。