東条の孫娘の思考限界に見る日本人の思考限界

2006-08-20 02:56:22 | Weblog

 朝日新聞夕刊に『ニッポン人・脈・記』なる記事が連載されている。現在「戦争 未完の裁き」の項目に進み、その⑦記事目「東条、最後も天皇の軍人 孫『死をもって国にわびた』」が8月17日(06年)夕刊に掲載されている。

 一部省略して引用してみる。

「日米開戦時の天皇の側近、内大臣木戸幸一を国会図書館が67年、6回にわたってインタビューした。木戸は東京裁判で終身刑。30年後まで公表しない約束だった速記録が、ひ孫の木戸寛孝(36)の手元にある。『あのとき、なぜ東条英機を首相に選んだか、しゃべってるんですよ』
 日本の中国への果てしない侵略。米国は日本の撤兵を求め、くず鉄や石油を次々と禁輸した。陸相東条は『撤兵すれば戦果が水泡に帰する』と抵抗、41年9月6日の御前会議は『自存自衛のため10月下旬までに戦争準備』を決める。破局の第一歩だった。
 だが、天皇は『戦争より外交』を望んだ。首相近衛は行き詰まって内閣を投げ出す。当時の憲法では天皇が首相を選ぶ。後継は?木戸は『東条って人は陛下の命というと本当に一生懸命になってやる人でね』と語っている。  
 「開戦論となえる東条ならば開戦論を抑えられる」と木戸は東条を推し、近衛も『逆説的名案だね』と同調した。策士、策におぼれるとはこのことかもしれない。
 首相になった東条は確かに戦争回避の努力を続けた。が、いわゆるハル・ノートで米国から『即時撤兵』要求を突きつけられ、『挙国一体必勝の確信』をもって『聖慮を安んじ奉る』と開戦に走った。
     (中略)
 『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓をつくったのは東条だ。
     (中略)
 東条の孫娘東条由布子(67)は『おじいちゃまはお国のために死んだのよ。世の中の人がどんなことを言っても、おじいちゃまは立派だったのよ』と聞いて育った。『東条ら7名、A級戦犯絞首刑』を知ったのは、学校の社会科の教科書でだった。
 東条は東京裁判の被告席で『自衛戦争だった。自分の責任』と主張した。だが、天皇について問われて『日本臣民が陛下の御意志に反して、あれこれすることはありえない』と一旦答えた。天皇の戦争責任という問題が生じないか。
 キーナン検事『戦争を行えというのは天皇の意志だったか』
 東条『私の進言によってしぶしぶご同意になったというのが事実でしょう。最後の一瞬に至るまで陛下はご希望を持っておられた』
 東条は天皇を弁護。最後まで天皇制の一本気な軍人官僚を演じた。『キーナンは祖父に死に場所を与えてくれた。歴史の濁流の中で手を広げて踏ん張ったのが東条だったろう』と由布子。
 『陛下に背いた開戦』によって、東条が絞首刑になったのは48年12月23日。訴追されなかった天皇は軍服を脱ぎ、地方を巡航し、生物研究の顕微鏡を覗いて、それから40年を生きた。
 東条の最後の気持は?
 『東京裁判は不当だけれど、死をもって国にわびることは100%満足していたと思いますよ』
 靖国神社に祀られることは?
 『汚れた俗世間の人間が神様の神格を剥奪したりできますか。でも、東条がいやであるなら、どうぞ心の中で分けて拝んでもらってもいいんですよ」
 由布子は東条を語りながら、目の見えない人のガイドヘルパーなど福祉の日々である」

* * * * * * * *

 「『おじいちゃまはお国のために死んだのよ。世の中の人がどんなことを言っても、おじいちゃまは立派だったのよ』と聞いて育った。」

 家族としては当然の思いであろう。しかし既にここで思考の限界に侵されている。身内である自分、もしくは自分たちから見た東条英機であるばかりか、身内であるゆえに免罪化したい衝動に添った東条英機論という二重の限界を抱えている。そして67歳になってもなお孫娘の東条由布子も同じ線上の思考の限界に侵されたままでいる。
 
 日本の多くの政治家の歴史認識の着地点が「お国のために戦った」で思考停止しているのと同じであり、その原因が日本という身内に拘り、そこから出れないでいる思考の限界に対応する認識回路を示すものだろう。

 確かに「お国のために死んだ」。しかし東条の頭の中にあった「お国」とは〝天皇の国〟のことであり、天皇に戦争の責任が及ぶことを避けることを最優先の目的とした〝天皇の国〟を守るための「死」であったろう。そういった意味では確かに「立派だった」と言える。そして家族も孫娘も東条英機同様に「お国」を優先させて、何ら疑うことを知らないでいる。彼らの目には戦争の被害にあった日本国民は勿論、外国人はなおさら見えていないに違いない。

 また東条の「日本臣民が陛下の御意志に反して、あれこれすることはありえない」という主張だが、東条には二種類の「日本臣民」があったはずである。一般国民のみを指す「日本臣民」と一般国民の上に置いた自分たち国家指導者を主として指す「日本臣民」とである。一般国民のみを「日本臣民」とした場合、「日本臣民」を遥か下に見ていたことだろう。つまり自分たちを天皇の下に位置させながら、「日本臣民」に対しては遥か上に見ていた。それは当然権威主義の構造からきているが、自分たちを言葉上「日本臣民」と表現しても、一般国民の上に置いている関係から、「日本臣民」であるという意識は薄かったのではないだろうか。

 そこから「陛下の御意志に反して、あれこれすることはありえない」「日本臣民」とは一般国民を指した「日本臣民」であると解釈すれば、理解可能となる。国民には天皇を絶対とさせていたのだから、「あれこれすることはありえない」をタテマエとして述べることができる。そのタテマエを前提として、天皇の名のもとに国を動かし、国民を動かしてきた。

 だが、自分たちを天皇の下に置いていたのは一般国民である「日本臣民」を統治する便利・直截な装置として天皇を最上位に置いておく必要があったからであって、最上位に置いている関係から形式上天皇に対して常に恭しい態度を取っていたとしても、取りつつ自分たちの権力意志を天皇を通して「聖慮」に変える「あれこれすること」があり、そういった権力構造になっていたから、「しぶしぶご同意」といった弁護のための韜晦も可能となる。

 このことは説明するまでもなく、天皇対国民と天皇対直接的国家指導者と権力関係が二重構造となっていたからである。当然自分たちを「日本臣民」とする意識は薄かったはずである。

 「私の進言によってしぶしぶご同意になった」としても、天皇は統帥権者として、さらに最終決定権者としての責任を負う。

 「汚れた俗世間の人間が神様の神格を剥奪したりできますか」には恐れ入る。

 確かに人間一人一人の姿を洗い出せば、「汚れた俗世間の人間」に過ぎない。どのような権力者であっても、権力がその人間を立派に見せるのであって、一個の人間として解剖したなら、欲望や野心や煩悩・損得勘定が渦巻き、猥雑で、矮小な生きものばかりだろう。そのような生きものが軍人であって、戦死し、靖国神社に祀られたら、誰でも一律に神となる。元々は「汚れた俗世間の人間」でありながらである。そこに何ら合理性も整合性もない。

 そのような元々は「汚れた俗世間の人間」を昭和殉難者として靖国神社に祀る。勝てぬ戦争を計画し、無様で醜い敗戦を招いたA級戦犯が〝昭和殉難者〟なら、空襲や外地で軍の保護もなく死んでいった一般国民は何と呼べばいいのだろうか。そもそも「殉難」なる言葉は「国家・宗教や公共の利益のために一身を犠牲にすること」(『大辞林』三省堂)を言う。国家・国民に不利益を与えて、何が〝殉難〟なのか。難に殉じて、難を福に変えて初めて殉難と言える。難を不幸に変えるのは犯罪行為でしかない。例え自存自衛の戦争を目的としたとしても、それを実現する責任と能力を果たさなかった。

 それぞれの生きた歴史を問わない。残虐行為を働こうと、愚かしい指揮で部隊を壊滅させようと、国を過とうと、責任を問わない。そのくせ他人が責任を問うと、〝不当な裁判〟だと言う。その合理性・整合性にしても日本人ならではのものだろう。

 一人一人の歴史を問わないことは、全体としての日本の歴史を問わないことに対応している。全体としての日本の歴史を問えば、必然的に主たる関係者一人一人の歴史を問わなければならなくなるからだ。戦死したからと、一律に神とすることなどできなくなるだろう。一律に神とすることで無答責とすることが可能となる。いわば神とすること・英霊とすることは無責任性のなせるワザであろう。

 責任を問わない・取らないは日本人性としてある。上が下を従わせ・下が上に従う権威主義的行動様式は相互従属の関係(=相互に自律していない関係)にあり、その非自律性が自らを一個の行動者(独立した個人)と規定できないからだ。独立した個人であることによって、他から押し付けられたり求められたりするのではない、自らによって自らを律する主体的な責任意識が生じる。

 人間はどう死のうと神にも仏にもなれない。元々はたいした生きものではないからだ。東条の孫娘由布子が言うように「汚れた俗世間の人間」であることから抜け出ることはできないからだ。「国のために戦って死んだ」からと言って神・英霊とするのは、国のために戦わすための方便に過ぎない。それを信じるような合理精神の欠如が、天皇は現人神だと言われて疑いもせず信じることができたのであり、アメリカとの戦争の勝利を疑いもせず信じることができ、神風が最後に吹いて、日本に勝利をもたらすという非合理な特別意識を信じることができたのだろう。

 「由布子は東条を語りながら、目の見えない人のガイドヘルパーなど福祉の日々である」

 身内として祖父を正当化したい思いがその証明として自己を献身的な行動に向かわせているということもある。その献身性によって、あの人の祖父だから、悪い人であるわけがないと思わせたい無意識の同一化願望が働いてのことである。

 もし孫娘由布子が東条の罪を認め、その償いに少しでも世間の役に立とうという気持で「福祉の日々」を送っているとしたら、正真正銘信じることはできるだろう。もし「裁判は不備があったが、祖父はあのように裁かれても仕方がなかったと思います」と言ったなら、やはり信じることのできる「福祉の日々」となるだろう。

 愚かしい無残な「歴史の濁流」を自らつくり出した国家指導者をいくら身内からの思いであっても、「歴史の濁流の中で手を広げて踏ん張ったのが東条だったろう」などと美化しているようでは、「福祉の日々」にしても東条英機をも美化するための自己美化行為にしか受け取れない。

 「東条は天皇を弁護。最後まで天皇制の一本気な軍人官僚を演じた」と記事は解説しているが、軍部を代表する現役の陸軍大将であって日本の首相であり、内相と陸相を兼ねた立場で「陛下に背いた」か陛下に押し付けたか知らないが、いずれにしても「開戦」を指揮した人間である、このことと「天皇制の一本気な軍人官僚」とどういう関係があるのだろうか。「一本気」とは褒め言葉に当たる。身内の合理性を持たないどうしようもない身びいき論を紹介して、どれ程の意味があるのか疑わしいだけではなく、全体のトーンが感傷的、軽薄で、なおかつ歴史を簡略化しすぎ、危険な内容の記事となっている。

 「天皇は『戦争より外交』を望んだ。首相近衛は行き詰まって内閣を投げ出す」とさも簡単に書いているが、第3次近衛内閣の陸軍大臣だった東条英機自身が米国の日本軍の中国、仏印からの全面撤退の要求に対して「『撤兵すれば戦果が水泡に帰する』と抵抗」して対英米開戦論を展開して近衛内閣崩壊のきっかけをつくったのである。そして近衛が投げ出した内閣を引き受け、「最後まで天皇制の一本気な軍人官僚を演じた」ことなどどうでもいい日本の破局を演出した。

 いわば東条の「戦争回避の努力」とは「撤兵すれば戦果が水泡に帰する」とする、関東軍参謀長出身者らしく中国で得た領土・権益を確保したままの条件付き「戦争回避」であって、正真正銘の「戦争回避」であろうはずはなく、ハル・ノートの「『即時撤兵』要求」に対して中国での権益保全というキーワードを抹消しない限り有名無実化する「戦争回避」(=「開戦」)であったのは当然の結末だったろう。そして44年アメリカ軍が占領したあと、B-29の日本本土爆撃の基地となったサイパン島陥落直後の44(昭和19)年7月18日にその責任を取って辞職しているが、泥沼化した戦局は手の施しようもなくなっていた。

 戦後60余年経過した一風景として東条英機の67歳の孫娘由布子にスポットを当てて「福祉の日々」に色彩を与えようとしたのかもしれないが、そのテーマが結果として67歳の孫娘の東条身びいき感情に正当性を与えてその罪薄めに手を貸すこととなり、その補強として「最後まで天皇制の一本気な軍人官僚を演じた」と持ち上げとなる感傷的なコメントを必要としたということだろうか。

 東条が言う「私の進言によってしぶしぶご同意になったというのが事実でしょう。最後の一瞬に至るまで陛下はご希望を持っておられた」とする「『戦争より外交』を望んだ」天皇の様子をHP<沖縄戦関連の昭和天皇発言>で見てみると、

 ――近衛文麿が1945(昭和20)年2月14日に天皇に「戦局ノ見透シニツキ考フルニ、最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリト存ゼラル」と上奏文を提出し、「最悪ノ事態必至ノ前提ノ下ニ論ズレバ、勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルコトハ全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト云フベク、従ッテ国体護持ノ立場ヨリスレバ、一日モ速ニ戦争終結ノ方途ヲ講ズベキモノナリト確信ス」と「戦争終結」の決意を求めているが、天皇はその後の近衛とのやりとりで、「もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と近衛の提案を斥けている。その「戦果」とは沖縄戦での勝算をいう。同じHPから。

「近衛 沖縄で勝てるという目算がありますか。
 天皇 統帥部は今度こそ大丈夫だといっている。
 近衛 彼らのいうことで今まで一度でも当ったことがありま
    すか。
 天皇 今度は確信があるようだ。
  (戒能通孝「群衆-日本の現実」-『戒能通孝著作集1』)」

 見事に外れた「沖縄で勝てるという目算」はコスト・採算を時間をかけて算定しながら、赤字経営となる官のズサン計画の現在につながるが、何よりも天皇の軍部任せの態度である。それは軍部の意志が天皇の意志を支配していたことの証明――「日本臣民」を統治する便利・直截な装置として天皇を最上位に置いていたことの証明であろう。東条にしても自らの権力意思を通すために天皇を利用してきたはずである。「最後まで天皇制の一本気な軍人官僚」などといった解釈は意味もない持ち上げ以外の何ものでもない。

 沖縄戦(1945.4.1~6.23)での無残な敗北後、約1ヵ月後のポツダム宣言(対日降伏勧告)の黙殺(1945.7.28)。その9日後の広島原爆投下(1945.8.6)、その3日後の8月9日の長崎原爆投下、5日後の8月14日のポツダム宣言無条件受諾と慌ただしいばかりの展開を経て、8月15日を翌日に迎えている。

 因みにポツダム宣言の日本降伏条件のくだりに戦争犯罪人の処罰が含まれている。それをも含めた〝無条件受諾〟である。

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