東京裁判(極東軍事裁判)を否定する側に立つ人々の理由は大体決まり切っている。
①東京裁判で使われた法理である「平和に対する罪」と「
人道に対する罪」は、後からつくった事後法であり、法
の不遡及、つまり事後法処罰の禁止という法及び民主主
義の原則を侵すもので、無効である。
②東京裁判は勝者による敗者への裁きであり、その実質は
勝者の敗者に対する憎悪と復讐の念を満足させる目的以
外の何ものでもない。
③サンフランシスコ講和条約の受入れ(第十一条【戦争犯
罪】「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及
び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し・・・
」云々)は日本が国際社会に復帰するためには調印しな
ければならなかった条約であったからであり、だからと
言って〝東京裁判史観〟を受入れたわけではない。
まず①番目の法及び民主主義の原則を侵すことになる事後法だという点について。
1943年10月18日から30日にかけてモスクワで開催された米英ソ3ヵ国外相会議で3カ国は戦争終決後に連合国がドイツ戦争犯罪人を処罰する意向を表明し、それを受けて1945年8 月8 日の英米仏ソ4ヵ国のロンドン協定でニュルンベルク裁判の設置を決定し、「平和に対する罪」・「人道に対する罪」で裁くとしたのは、現実に引き起こされたナチスの戦争行為を「通例の戦争犯罪」を超えた凶悪な犯罪にも等しいものとして、それを基準に規定すべき罪科が既存法では収めきれない新たに想定しなければならなかった事後法ということではなかっただろうか。
その事後法が法理として東京裁判でも応用されたのは日本国及び日本軍の指導者たちがナチス・ドイツに準ずる戦争行為・戦争犯罪をしたと見なされたからであろう。日本軍の戦争行為・戦争犯罪が例えナチス・ドイツの戦争行為・戦争犯罪と比較して、その残虐性・規模の点で軽いものであったとしても、やはり〝通例の戦争犯罪〟として既存法(戦時国際法やジュネーブ条約等)で収めることはできないとして、「平和に対する罪」・「人道に対する罪」等の事後法の適用をも必要としたからであろう。
いわば勝者の側の論理に不備があり、矛盾があったとしても、事後法で裁かれても仕方がない部分が日本の戦争にあったということではないか。少なくとも事後法であることを楯に日本が抱えていた裁かれても仕方がない行為行動まで全面的に否定も抹消もできないはずである。
②番目の「東京裁判は勝者による敗者への裁きである」云々の主張に対して。
勝者の側は常に自らを〝善〟とする認識を持ち、敗者を〝悪〟とする認識を持つ。キム・ジョンイルは自らを〝悪〟と認識し、日本とアメリカを〝善〟と認識して自らの独裁政治を維持・敢行しているだろうか。
逆であって、自らを〝善〟と認識し、日本及びアメリカを〝悪〟と認識して行動しているはずである。
東京裁判で勝者である連合国側は自らを〝善〟と認識し、敗戦国日本を〝悪〟と認識して裁いた。そのような善悪の構図を世界は過ちだったと歴史の審判を一度でも下したことがあるだろうか。部分的に矛盾や不備の存在を指摘することはあっても、全体的に否定しなければならない認識構図であり、二度と繰返してはならない歴史の教訓と断罪しただろうか。
特に日本の戦争の被害を受けたアジア各国に於いて国民まで含めてアメリカ以下の連合国を〝善〟とした敗戦処理を間違いだったとする動きがあっただろうか。南京虐殺、泰緬鉄道建設時の重労働や死のバターン行進等の捕虜虐待、敵性華僑狩り・強制労働者狩り、従軍慰安婦狩り、土地収奪、支配国での過酷な強制労働、ベトナム占領下での大量餓死者の出現、人体実験、日本刀試し斬り、日本軍人の自らを主人・何様とした横暴な権威主義的態度と敵国人に対する非人間的扱い等々――アジアの国で日本軍の残虐さは言い募っても、欧米の植民地宗主国の残虐さを訴える声を聞くことがどれ程あっただろうか。日本軍撤退時には同胞である民間人保護を放棄して、犠牲者を出しているくらいである。自分のことだけを考える利己主義は戦後の専売特許ではなく、日本の歴史・伝統・文化としてあった日本人性であることの如実な証明となろう。
「戦後、日本は東南アジアに対し、十分に経済的に償ってきた。大半のインドネシア人は日本の過去について、すでに忘れているし、許してもいる。だからといって日本の3年半の統治が残酷なものだったという事実は変わらない。オランダの3世紀半の植民地時代よりもひどかったという人もいる」(05年11月3日『朝日』朝刊記事『東南アジアから近隣外交を問う・中』からジャカルタポスト編集局長エンディ・バユニ氏談話)はまだ穏やかな批判の内に入るのではないだろうか。
キム・ジョンイルの独裁政治は歴史の審判がどのような形で下されようとも、キム・ジョンイル自身がそれを〝善〟とする認識を主張したからと、その主張に添って〝善〟とする認識で裁くことがあるだろうか。カンボジアでポルポト派を裁く特別法廷でポルポトの虐殺独裁政治を〝善〟とする認識が示されたとしても、それを支持する検事・弁護士がいたとしても、全体として〝善〟とする判決が下されることがあるだろか。
欧米各国の植民地政策が例え過酷なものだったとしても、日本軍のそれ以上に過酷な残虐さが逆に比較対照的に罪薄めの特効薬と化し、日本軍の残虐さのみを浮き立たせたといった経緯もあったかもしれない。
いずれにしても戦後世界は総体として第2次世界大戦に於いて勝者の側が自らを〝善〟とし、敗者である日本・ドイツを〝悪〟とした認識の構図に取り立てて異議申し立てを行わずに受け入れ、現在に至っている。日本の一部勢力のみが間違った認識だと主張しているに過ぎないのではないか。
さらに言えば、例え事後法ではあっても、戦争が近代戦化して戦闘規模を拡大していくに伴って残虐化していく過程で、あるいは独裁政治が過度の主義主張に偏り間化して自他の国民を抑圧・抹殺していくケースで、新たに戦争や独裁政治を裁く法理として「平和に対する罪」・「人道に対する罪」という認識が規定され、ニュルンベルク裁判と東京裁判で適用されたものの、それが多くの矛盾と不備を孕んでいたとしても、それ以降の戦争及び独裁政治を裁く規制値、もしくは基準的ルールとなったこと自体により多くの価値を見い出すべきではないだろうか。
そのキッカケを為したのが日本の戦争であり、ドイツの戦争だったのだから、反面教師を為した事後法であり、それぞれの「罪」ではなかっただろうか。法及び民主主義の原則を侵す事後法で裁かれたことを理由にいわゆる戦犯と称する被告人たちは無罪であるとする一部主張は、状況証拠も物的証拠もないとするなら理解できるが、そうでない以上極端なまでに単純化し過ぎであろう。
戦争及び政治の残虐化に伴って、事後法を必要とし、そのような認識で戦争を裁断するようになった。完璧さから程遠くても、いや人類は常に完璧であることから程遠いのだから、ささやかな人類の進歩を示すエポックメーキングと言えなくもない。
それが事後法であったとしても、世界が取り立てて異議申し立てを行わずに受け入れ、その状況が現在に至っていること自体が、当時に於いても世界に向けた方向性はさしてずれていなかったことの証明にもなっている。
③番目の、サンフランシスコ講和条約を受入れたことと〝東京裁判史観〟を受入れことにはつながらないという主張に対して。
戦後日本がアメリカ主体のGHQから様々な改革を受け、その改革に添って戦後長い間21世紀の今日までさしたる滞りもなく時を刻み、国際社会の一員としての役目をそれなりに果たしてきた。国民の大多数が戦後民主主義を受け入れ、基本的人権の自由等を満喫してきた。日本の次期首相の呼び声高い安倍晋三氏が口先だけで誇っている自由と民主主義、基本的人権、法の支配という普遍的価値観は戦後日本が欧米社会から与えられた改革である。そういった様々な改革を受け入れたこと自体が、当時の欧米が到達していたレベルの民主主義を日本が是としたことを意味し、それは最大公約数の日本国民による戦前の否定、もしくは反〝戦前〟の意思表示だったはずである。
いわば日本の戦後民主化が正当な部分を多く含んでいたこと自体が反〝戦前〟もしくは戦前否定によって成り立ったことであって、東京裁判は戦前日本の断罪・否定の象徴劇でもあり、戦前日本への訣別を告げ、戦後民主主義へと橋渡しする記念すべき転換点だったということではないか。
転換点としない日本人が多いが、日本人自らがそのような転換点(戦前の検証・総括)を準備しかった以上、東京裁判を以て、転換点とする以外にないだろう。
戦前日本の断罪・否定としての東京裁判を通過儀礼として初めて日本は国際社会復帰の資格を得たのである。その資格認証式がサンフランシスコ平和条約の締結だった。
日本自らの検証・総括がない上に東京裁判もなかったなら、日本は国際社会復帰の切符を手に入れることができただろうか。日本が戦後に足を踏み入れるには、どちらも受け入れなければならなかった関門だったのである。戦前日本の断罪・否定である東京裁判を受け入れないとなれば、戦前の肯定を意味し、反〝戦前〟の証明とすべき戦後民主化の受け入れと相互矛盾することとなるばかりか、サンフランシスコ平和条約締結による国際社会復帰が民主化の仮面をかぶった、戦前の日本を姿とした国際社会への仲間入りだったことになる。
戦後民主化を否定し、併せて東京裁判の否定(=戦前肯定)を主張して止まない一部日本人が無視できない勢力で存在する。戦争の結末は事実として認めざるを得ないが、日本に誤りはなかった、戦争は大東亜建設のため、植民地解放のための聖戦だったとし、そのような誤りなき戦前の日本の姿を戦前と戦後の境目なしにそのまま今日に引き継ぎたい願望が戦後の否定へとつながっている。
そのように日本を無誤謬としたい衝動が敗戦の事実を〝終戦〟と表現する感覚に象徴的に現れている。いわば〝敗戦〟の否定であり、その否定は東京裁判否定につながり、サンフランシスコ平和条約締結を条件付きとする部分否定に至らしめ、その意志は国民生活を規制すべく目論んでいる憲法改正の中と、教育を通して国民の精神に植えつけるべく教育基本法改正の中に密かに潜り込ませている。