日本人性の反映としてある国と地方の関係

2006-08-04 04:57:26 | Weblog

 日本人がつくる人間関係に関わる体系すべては日本人性に影響を受ける。日本人性から出た制度、組織、慣習を形作る。何事も日本人性の反映を受けて成立・維持していくのだから、それはごく当然な因果性であろう。国と地方の関係に於いても、日本人性がつくり出した力学下にある。

 このことの理解に役立つ新聞記事がある。

 「地方分権描けぬ道筋」(06.7.21.『朝日』朝刊)

 「地方分権で、国と地方の役割を見直す『新分権一括法』の制定が焦点となってきた」という出だしとなっている。新法の必要性では内閣・与党とも認識が一致しているが、その道筋が描けないでいるという内容の記事である。ここにきて小泉構造改革も迷走状態に入ったようだ。

 「小泉政権が進めた三位一体改革は、補助金削減や税源委譲などのカネの配分見直しが柱だったが、国と地方の役割分担から改めて問い直す」(同記事)こととなったというから、「小泉政権が進めた三位一体改革」は最初から満足な内容を伴っていなかったと言うことだろう。

 あれほど三位一体、三位一体と大騒ぎしていながらである。「カネの配分見直しが柱だった」と言っても、財政再建の必要上、国の負担を何兆円ぐらいは減らしたい、地方への財源移譲は何兆円に抑えたいといった、国により都合のいい差引計算で単に数字を弾き出しただけのことだから、〝見直し〟は次なる予定調和として宿命的に抱えていたということなのだろう。構造改革、構造改革とさももっともらしげに言い募ってはいたが、数字上の操作か職務配分上、あるいは配置上の機械的な操作・改変程度で終わっている改革ばかりではないか。

 特殊法人や独立行政法人の整理統廃合にしても公務員改革にしても、いくつのものをいくつにするかといった差引計算、あるいは現在の数字をどのくらい減らすかといった最初に数字ありきで、組織・制度に於ける人事的な機能性の改善抜きでは本質的な問題解決にはつながらない。

 人事的な機能性の中で最も問題としなければならない事柄は日本の官僚が特に血とし肉としている日本人の権威主義性がもたらし制度化している縦割りと縄張りの問題であろう。それが手つかずのままでは諸外国と比較してただでさえ低い公務員の生産性(無能ぶり)は低いままで推移し、改革が改革の体裁を成さないことになる。統廃合や人数削減で従来以上に生産性を上げなければならないところを、逆に組織改変や人数が減ったからと縦割り・縄張りが今までどおりに機能しないより悪い方向に病変して、その混乱によって逆に生産性がなお一層落ちる恐れなしで、改革が組織・制度の表面をいじっただけのこととなり、より始末の悪い結果をもたらすことになりかねない。

 改革が数字を弾き出すか、職務に対する機械的な操作・改変程度で終始するといったことも日本人性に深く関係している。上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の力関係・人間関係に阻害要件となることから欠如させている創造性のなさが、そういった機械的操作に向かわせているのだろう。

 記事は国と地方の関係について次のように伝えている。「現在の分権一括法は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した。ただ、地方全体の仕事の7割に相当する部分が国の関与が残り、役割見直しは不十分とされてきた」

 カネの配分だけではなく、国の役割を主体に地方の役割をも一括して見直すべく取りかかろうとしているのが「新分権一括法」と言うことらしいが、「現在の分権一括方は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した」と記事が解説している国と地方の関係内容と、「地方全体の仕事の7割に相当する部分が国の関与が残」っている関係内容とは相矛盾する成立過程となっている。「国の関与が残」っている以上、「国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え」たとは言い難いからである。

 そもそもからして21世紀の自由・平等の民主主義の時代に自由・平等の民主主義に真っ向から反して「国と地方の関係」が「上下・主従」の権威主義的関係にあること自体、日本人が権威主義性を如何に歴史・伝統・文化としてきたか、「国と地方の関係」がそのような日本人性の反映の一つの姿であることを否応もなしに証明している。

 そのようにも歴史・伝統・文化としてきた「国と地方」の「上下・主従」の権威主義的関係である、地方との間に「7割」も「国の関与」を残していて、「対等・協力」の関係に移行するわけがない。

 例え「関与」がゼロとなったとしても、「対等・協力」の関係は成立しないだろう。権威主義性は日本人が血としている行動様式である。一朝一夕には消えてなくなるものではない。自分たちの情けない血を自覚して、余程意識的に行動しないことには中央の政治家・役人にペコペコ頭を下げる民族的に刷り込まれた習慣はそう簡単には改まらない。

 国の関与が「7割」からゼロになり、地方が完全独立を獲ち取って完璧に別個に仕事をすることになったとしても、いわば地方の役人が中央の役人と顔を合わすことがなくなったとしても、県が今度は一番上の地位を獲得することによって、その権威主義性を強め、これまでの国と地方の「上下・主従」の権威主義的な人間関係に取って代わる形で、県と各市町村との従来からあった「上下・主従」の権威主義的な人間関係にさらに上乗せされる可能性無きにしも非ずである。

 また国会議員が自身や秘書、あるいは系列の県会議員を通して地元選挙区の県の政策や事業に介入する政治家と県との権威主義的な支配・被支配の関係は国の関与とは別個の場所でも行われていたことであって、そういった権威主義的関係をも排除しないことには、いくら「新分権一括法」だと法律をこね回したとしても、改革の底から水漏れが生じない保証はない。

 役人の天下りにしても、権威主義が助けている制度・慣習であろう。一旦手に入れた上下関係の有効期限が変化せずに持続するからこそ、天下りは成立する。在職中の内外に対する上下関係が離職後失効して対等性を招じ入れる類のものなら、天下りは成り立たない。離職後、特に在職中の内に対する上下関係が際立って力を持ち、その関係で有効期限が長く持続するものなら、再就職先で天下りとしての価値が高まる。

 また天下りは中央の役人の特許ではなく、地方の役人の特許ともなっている生業(なりわい)であって、権威主義性が網の目のように日本社会を覆っていることの証明でもあろう。

 天下りに顕著な形で見ることができるように、権威主義的な人間関係が機会の不平等をつくる大きな要因となっている。上に位置する力の強い者が下を従わせる特権を利用して、より有利な機会を手に入れ、下の者の機会を奪う。機会獲得の不平等は当然のこととして、利益配分の不平等をもたらし、そのことが格差をつくり出していく。よく言われる国と地方の格差も、国と地方が権威主義的に「上下・主従」の関係にある同じ構図からの利益配分の不平等がもたらした格差であろう。

 そういったことに手をつけずに、手をつける頭もないからだろうが、安倍晋三は日本を「勝ち組」「負け組」に固定化しない再チャレンジ可能な社会にしていくと勇ましく大見得を切って、5月22日(06年)に第二の人生として農業を目指すサラリーマン退職者などとの意見交換を行ったそうだが、一応の功なり名を遂げ、それなりの生活資金を蓄えた、いわば「勝ち組」に入れてもいい人間相手により確かに「勝ち組」に位置づけていこうとする〝再チャレンジ〟支援であって、譬えれば天下りに新たな利益を与えるべく手を貸すようなもので、「勝ち組」「負け組」を固定化しないという趣旨に反することをして、その矛盾に気づかずに得意顔となっている。所詮「再チャレンジ」は奇麗事の政策で終わる宿命にあるのだろう。

 日本人は上に立つとふんぞり返りたくなり、下に位置すると上に対してペコペコ頭を下げて取り入ろうとする人種である。そのような上下関係を改めることからすべての改革は手をつけるべきではないだろうか。真に対等の関係となったとき、言いたいことを言うことが可能となり、そこから政策にしても制度づくりに関しても、創造的な発想が生まれてくる。

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