自民党総裁候補安倍晋三の〝公〟意識教育の正体

2006-08-25 06:03:34 | Weblog

 安倍官房長官は今年9月の総裁選に向けて憲法改正と教育改革に重点を置いた公約を掲げた。教育改革の一つに「『公』意識の育成」と、その具体化の方法としてだろう「奉仕活動の必修化」を項目に入れている(06.8.23.『朝日』朝刊)。

 民主党前代表の前原氏も「公の精神」という言葉で同じ政策を掲げていた。「耐震強度偽装問題は「『官』の責任放棄、『民』の倫理観低下」を象徴している。それは小泉政権による『短絡的な競争原理、表面的な効率化』の押しつけがもたらしたものだ。
 『官であれ民であれ、守らなければならない「公の精神」が急速に失われつつある』
 『民主党は公の精神を追求する。このことが自民党等の根本的な違いである』」(<政態◆拝◆見>05.12.20.『朝日』朝刊)

 前原氏が言うように「公の精神」とは「官であれ民であれ、守らなければならない」道徳観・倫理性だとすると、「公の精神」とは〝おおやけの精神〟=公共心を意味することになる。〝公共心〟(=「公共の精神」)とは社会全体の利益のために尽くそうとする精神を言うはずである。「公の精神」などと言わずに、なぜもっと素直に分かりやすく〝公共心〟と言わなかったのだろうか。

 当然自民党総裁候補の安倍晋三にしても、同じことが言える。なぜ素直に〝公共心〟の育成と言わずに、勿体づけるかのように〝公意識〟の育成などと言う必要があるのだろうか。

 果して前原氏も安倍氏も〝公〟を公共心と同じ意味で使っているのだろうか。同じ意味で使っているなら、回りくどくなくずばりと〝公共心〟と表現するだけで片付く。〝公共心〟という言葉を使わないのは、〝公〟を公共(社会全体に関すること)として使っていないからではないか。そこに〝国意識〟を紛れ込ませているから、〝公〟なる表現となっているのではないだろうか。それとも政治家らしくただ単に気取って公共心を「公の精神」とか「公意識」とか表現しているのだろうか。

 前原氏以前の5年前の2005年には「神の国」の首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が将来的には満18歳のすべての国民は1年間とする「奉仕活動の義務化」を議論していた。但し「奉仕活動を全員が行うようにする」とする項目を掲げはしたが、1年間の義務化に関しては世論の反対にあって、中間報告案から「義務化」の言葉が外されている。

 今年(06年)6月に国会の会期切れで次国会への先送りとなった自民党教育基本法改正案は、現行法が「個人の権利尊重に偏りすぎている」と批判し、「公共の精神を尊ぶ」べしとする公共心の育成の必要性を前文に明記した。にも関わらず、安倍総裁候補となると、「公意識」である。

 唯一はっきりしていることは、安倍氏の「公意識」の育成も、意識育成の具体的手段である「奉仕活動の必修化」も自身の発案ではなく、与野党とも、その保守層に属する政治家は「奉仕活動」を重要手段として〝公〟なる道徳性を植えつけ国民を教化たい衝動を従来から抱えていたのであり、衝動所持者の一人として政権を獲得した場合には具体的に政策化しようという安倍官房長官の姿勢だということが分かる。

 公共心と言ってくれるならいたって理解可能だが、「公の精神」あるいは「公意識」となると、今ひとつ具体的にどのような態度傾向を言うのか不明である。政治家の口から頻繁に飛び出す言葉であるが、具体的な説明がないものだから、言葉の抽象性にとどまるのみである。それとも誰にでも理解できる内容で説明するだけの力がないからなのか、国家意識を滲ませているから、説明しにくいということなのだろうか。

 では、〝公〟という言葉自体は正確に何を意味する単語なのだろうか。〝公〟が保守系好みの国民教化衝動となっている事実から復古趣味への疑いを発生せしめ、その連想から、彼らの時代感覚にふさわしいと思える大正6年初版発行という古い時代の『大字典』(啓成社)で調べてみた。
 
【公】読み「コウ」――最初に太字で「オオヤケ」との意味づけがあり、続いて細字で「タヒラカ、平等、タダシ、通ズ、私ナシ、共同、ヤクショ、ツトメ、官府、朝廷、政府」と進み、太字に戻って「オカミ」、細字に戻って「世間、衆人、表ムキ」太字「キミ」、細字「天子、諸侯、主君、對手の敬稱、五等爵の首位、夫の兄、夫の姉、鐘ニ通ズ」となっている。

 これらの意味解釈の中で支配層以外に属する言葉は「世間、衆人」の二つのみである。「夫の兄、夫の姉」は一見すると一般社会に属する言葉に見えるが、「公(きみ)」は「君(きみ)」と同義語として使う場合があるから、上層階級の「夫の兄、夫の姉」を「きみ」と指したのではないだろうか。

 あとはすべて支配層に属する言葉となっている。特に太字で強調している意味言葉の「オオヤケ、オカミ、キミ」の三文字を総体的に関連づけると、「オカミ、キミ」の二文字から「オオヤケ」にしても明らかに支配層の中でも政治権力層を指す言葉となる。

 「對手の敬稱」として封建時代に「公(こう)はどちらに住んでおられるのか」といったふうに使用したようだが、ごく一般的な市民ではなく、武士とかの身分の高い人間が相互に使い合う言葉であろう。

 参考のために「おおやけ【公】」の意味を国語辞書(『大辞林』三省堂)で引いてみると、「①政治や行政に携わる組織・機関。国・政府・地方公共団体など。古くは朝廷・幕府などを指す。②個人ではなく、組織あるいは広く世間一般の人に関わっていること。『土地を――の用に供する』『市長としての――の任務』③事柄が外部に表れ出ること。表ざた、表向き④天皇。また、皇后や中宮」となっていて、直接的な地位関連の意味言葉は①と④のみで、特に最初の①に持ってきている意味づけから判断すると、やはり一般社会を指すというよりも、国家機関とそれに準ずる組織、いわば政治支配層を指す言葉であることが分かる。

 首相の靖国参拝でよく公人か私人かで問題になるが、公人とは〝公〟の人のことで、支配者層の者に使うべき言葉であろう。

 となると、〝公の精神〟にしても、〝公意識〟にしても、厳密に言うなら、一般社会の精神・意識ではなく、天皇や皇族、国会議員や官僚、地方議員・地方役人、それに警察官や国公立教育機関の教師も含めなければならないだろう、そういった広い意味での公職に就いている者が担わなければならない意識・精神(=倫理・道徳性)であって、その内容としなければならない姿勢が『大字典』で言うところの「タヒラカ、平等、タダシ、通ズ、私ナシ、共同」と言うことだろう。

 「通ズ」は断るまでもなく無闇やたらと異性と通じたり、悪徳政治家や悪徳官僚が悪徳事業者と、あるいは悪徳警官と暴力団や悪徳経営者と気脈を通じて悪事を働く「通ズ」ではなく、職務上の知識・情報に精通していることを言うはずである。

 「私ナシ、共同」は説明するまでもなく誰もが備えていなければならない道徳性であるが、特に支配社会層の人間がより多く備えていなければならないはずで、そのことに反して最も欠けている性格要素ではないだろうか。、

 以上見てきたように〝公〟が支配社会層を指すとするなら、安倍官房長官が目指している「公意識の育成」は本来は公職に就いている者に求め、常に自覚させておかなければならない〝意識〟であって、〝公〟向け(支配層向け、あるいは公職者向け)に涵養しなければならない意識・精神(=道徳律・倫理性)となる。またそうでなければならない。

 いわば政治家を目指す者、官僚試験を受けようとする者、警察官になろうとする者、教師になろうとする者、地方役人を目指す者などを対象に教育すれば片付く〝公意識〟である。一般道徳として涵養していくというなら、わざわざ〝公〟と名づけ、条件づける必要はまったくない。それを名づけ、条件づけた上で、公職に就くかどうかも分からない生徒にまで広げて〝公〟向け(支配層向け、あるいは公職者向け)の意識・精神(=道徳律・倫理性)を教え込もうとしている。

 日本の政治家・官僚以下の公職者すべてが備え担っている〝公意識〟をすべての国民に備えてほしいから、学校教育の授業に取り入れると言うなら、ウソ偽りを働くことになる。日本の公職者がどこから見ても〝公意識〟を体現しているとは到底思えないからだ。

 公共心の育成は従来的に学校教育の重点項目としているだろうから、それが機能していないと言うなら、より効果的な授業方法へと改革を求めるとするか、改革への提言を行うとするかで自らの教育に関わる政策を理解させることができる。

 そうはせず、公職者となることで発揮すべき意識・精神(=道徳感・倫理性)である〝公意識〟を、あるいは単なる公共心の育成なら事新しくわざわざ頭に〝公〟とつける必要もないにも関わらず、〝公〟と頭につけた上で学校教育としてすべての生徒が身につけるべき学習項目とすることができるとしたら、〝公〟向けの道徳律・倫理性の教育とすることによって、「公意識」教育は可能となる。

 公共心教育に屋上屋を架すことになっても問題にすることもないし、公職者になるかどうかも分からない生徒への学習項目とする正当性も出てくるし、頭に〝公〟と名づけ、〝公〟と条件化する必要性も出てくる。

 〝公〟向けの道徳律・倫理性の教育とはそっくりそのまま〝公〟への従属を示すものだろう。親兄弟といった家族のため、家のため、地域のため、社会のためと段階を踏んだ公共心教育を通して、最終的には国のための〝公意識〟を植えつけて、国を中心とさせ、国民をその周辺に置く従属である。

 いわば安倍官房長官やその類の国家主義者的政治家が言う〝公意識〟の実体は、社会全体のための利益を謳いながら、それが国を指す全体であって、そのための利益となることを要求する〝公〟を中心とした意識の育成ということなのだろう。

 このことは「奉仕活動の必修化」が如実に証明している。「奉仕活動」の最終最大対象が〝公〟(=国家)そのものであろうから。また憲法改正案や改正教育基本法改正案に盛り込もうとしている「愛国心の涵養」欲求とも連動する国を中心としてそこに誘導し、国家意識に取り込もうとする従属要求であろう。

 安倍官房長官やその同類政治家の〝公意識〟と名づけた国家への従属要求は、靖国神社の戦死者の国家への奉仕を意味する「国のために」を重要価値観としているように、参拝行為を通しても既に国民に発信されていたと見るべきではないだろうか。それを教育現場にまで広げようと意図していると言うことだろう。

コメント (3)
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