私が住んでいる市営団地と県営団地が5棟ずつ建て並ぶ南西側に幅10メートルか15メートル程度だと思うが、ちょっとした川がある。左岸が土手になっていて、土手の川の反対側の一段低くなった場所にかなり大きくなった桜が200~250メートル程の並木をなしていて、季節になると見事な花を咲かせる。枝が川岸まで差しかけていて、夏は日陰をつくり、暑さしのぎの格好の場所となっていて、桜の季節だけではない散歩道ともなっている。
自治会で年に1回6月に一斉に川の草刈りを行うのだが、次の年になると葦やススキ、その他の雑草が人の背丈ほどに生い茂ってしまう。6月の草刈りだから、桜の季節は右岸も左岸も枯れた雑草が汚らしく鬱蒼としているだけではなく、土手の道も人が歩く真ん中は踏まれて草は生えていないが、左右から膝の高さ程に伸びた雑草が迫っていて道幅を狭くし、折角の桜の満開を損なう景色となっていた。
定期的な草刈りでは左岸側が我々の管轄区域で、右岸はよその自治会の管轄となっている。一昨年働くのがいやになって仕事をやめ、細々とした年金生活に入った。仕事に時間を取られていた分パソコンに向かう時間が増えたから、時間の余裕ができたわけではないが、時間の配分が自由になったこともあって、気紛れを起こして市営団地側の左岸のコンクリートブロックの隙間から伸びている雑草を取り除くことから始めて、傾斜した右岸の根元に土が堆積して雑草を生やし汚く見えたから、その土を除いて、水の流れが岸の根元に沿って流れるようにし、1ヶ月に一度ずつ中州と岸の草を草刈機で刈ることにした。岸は溜まっていた土を取り除くと、ブロック自体に隙間が殆どなく、雑草はまばらにしか生えないから、さして大変ではない。中州は午前中一杯かかる程に生える。
市営団地と県営団地の間に道路があって、そのまま橋につながっている。市営団地に住む人間として自分の領域は橋までだと思っていたが、県営団地側の土手の雑草の方がひどい状態なので、今年に入って桜の季節に間に合わせようと右岸と土手の道と右岸側の州の雑草を刈り出した。傾斜した岸は途中までコンクリートブロックになっていて、雑草はたいして生えていないのだが、そこから先がコンクリート製の石を雨水が浸透するように隙間をこしらえて並べた岸となっていたから、葦やススキが石の上にまで土を集めて直径1メートルもある塊となって密生しているような状態になっていた。草刈機の刃では根元に土や小石が挟まっていて取り除ききれず、つるはしを使って根こそぎ取るのに午前中だけの仕事で1週間ほどかかった。桜の季節、左岸だけが見違えるほどにきれいになった。
桜の満開時に花の下を散歩しながら、土手状態の右岸は雑草が生え放題に生えていて、桜との対照が何とも不似合いであったが、6月の一斉草刈りを待って、それから1ヶ月に一度のペースで草刈りをやりだすことにした。現在2回目の草刈に入ったのだが、7月の1回目は午前中だけで3日かかったのが、暑さのせいでなかなか前に進まない。1時間に5分程度の休憩が30分ごとに5~10分程度となったのだから、当然と言えば当然である。
右岸の草刈を始めるについては、自治会一斉の草刈りの後、ガードレールの外のアスファルトの上まで土が20~30センチ程はみ出していて、草を刈った跡が残っている。通勤路となっていて、車の交通量がかなり多いものだから、草を刈るごとにガードレールの外に出るのは面倒だから、アスファルトの上の土を取り除くことにしたが、午前中だけで5日かかった。
通りがかりの自転車に乗った70恰好の男性がいつもなら草が道路にまではみ出している上に穂先が道路側に垂れるものだから、道が余計に狭くなって自動車とすれ違うときギリギリまで寄けても、すぐ脇をスピードを落とさずに走っていってヒヤッとさせられることが多い、アスファルトの土を取って雑草が生えないようにしてくれるだけでも助かると言っていた。車を運転している方は余裕があると見てそれなりのスピードで走っていくのだろうが、すぐ脇を通られる人間としたら、ギリギリのところを走っていくように思うのだろう。
上が決めたことはやるが、決められていないことはやらないという日本人の上に従う権威性が、折角桜並木を200~250メートルも抱えているのだから、草刈は開花前に変えようといった(これもささやかな改革のはずだが)発想を許さず、1年に1度、6月の第1日曜日と決められると、それを当たり前のことして10年20年と守る。さらに草刈りだからと草を刈るだけのことはするが、土が道路側にアスファルトの上まではみ出して雑草を生やしているから、土を取り除こうといった発想も持たない。そう、上から言われていないことは決してしないからだ。
コンクリート製の石を積んだ浸透式の岸の雑草は手で抜くことにした。機械で刈ると、根が残るからすぐに生えて、石垣の折角の幾何学模様を短時間に損なってしまう。8月初旬に石垣の雑草に取り掛かっていたとき、いきなり頭の上から「ボランティアですか」と声をかけられた。60歳前後の少々太った、と言うよりも恰幅のよさを思わせる女性だった。
私は「ボランティアじゃない」とつい険しい声になって言い返していた。女性の物言いが上の者が下の者に向かって問い質すような口調に聞こえたからだ。小学校の校長か教頭、あるいは保育園の園長といった経験者が部下に使っている言葉遣いのようだった。無視して草を抜き続けていると、「ご苦労様」といって立ち去っていった。「ご苦労様」も上の者が下の者に向かって言う声の調子がした。
普通なら、いきなり「ボランティアですか」と聞きはしない。「大変ですね」といった言葉から入るのではないだろうか。
よく「ボランティアか」と聞かれるが、「ボランティアじゃない、勝手にやってることだから」と答えることにしている。「ボランティアです」なんて言ったら、おこがましいことになってしまう。
「仕事は何をしているんですか?」
「細々とした国民年金暮らしだから」
「ああ――」
それで納得した顔になる。時間があり余っているからできるんだと思うのだろう。しかし年金暮らしで時間が余っている人間がすべて自分に関係ない場所の草刈をするとは限らないと考えるだけの客観性がないから、簡単に納得顔になれる。
「誰にもできることじゃないのだから、こういった人を市で表彰しないのかしら」といったことを言う者も結構いる。
「表彰と言うことになったら、即やめることにする」と答えることにしている。表彰を貰って片付くほど草刈りは簡単ではない。自分たちがしないこと、あるいはしようとしないことを表彰を貰わせることで片付け、しないこと・しようとしないことの埋め合わせとする気持があるように思えるのだが、邪推だろうか。
「誰がが市に言ってやらなければ、市は知らないでしょうから」
「誰がが」ではなく、誰もいなければ自分でという気持ちは起こさない。この手の他人頼みも言われたことはするが、言われないことはしない権威性からの他人頼みだろう。いわば言われないことでも自分からするといった発想はない。
かくして草刈りをしながら、日本人の自分が日本人をつくづくと眺めることになる。日本人を意識せざるを得ない日々を送っているからでもあるのだが。