今となってイスラエルを抹殺できるのか

2006-08-07 02:43:02 | Weblog

 アフマディネジャド・イラン大統領が言っていた。舌を噛んでしまいそう。名前もややこしいが、人間もややこしくできあがっているようだ。

 「アメリカがつくろうとしている中東と、我々がつくろうとしている中東は違う。中東にイスラエルは要らない」

 パレスチナの政権を握ったハマスはイスラエルによるパレスチナの生存権の承認が先で、イスラエルの承認はその後だと主張しているらしいが、後先の問題ではない。現実にイスラエルが既にそこに生存していて、それを何が何でも排除するのか、それとも共存する道を選ぶのか、大枠は二者択一しか残されていない。それを後先の問題とし、それがテーブルについていての主張ならまだしも、武装闘争を継続させながらの態度だから、イランのアフマディネジャド大統領と同じくイスラエル排除が基本姿勢なのだろう。パレスチナのアッバス自治政府議長がイスラエルとの共存の是非を問うべく7月26日(06年)に予定していた住民投票をハマスが反対して実施の一時保留に追い込んだことからも、排除の意志に添った反対に違いない。

 そこへきてレバノンのヒズボラによるイスラエル兵拉致に端を発したイスラエルのレバノン攻撃である。イスラエルの攻撃が一般市民を巻き込んで多くの死傷者を出していることから、国際世論はイスラエルに対して厳しいものとなっている。

 8月6日日曜日(06年)の夕方、NHKがヒズボラと地元NPOが共同で大きな地下駐車場を避難場所とし、イスラエルの空爆を逃れてそこに非難している市民に食糧や衣類を配布している姿を映し出していたが、そういったことがまたレバノン国民のヒズボラ支持を高めているとかで、そんな市民の声を紹介していた。

 「ヒズボラは私たちの誇りです。彼等の指示に従います」
 「ここでの生活は充実しています」

 空爆を逃れた地下駐車場の避難生活が「充実し」ているはずはない。「充実してい」ると心底思っているとしたら、ヒズボラ絶対の教条主義に冒されているか、そういう態度を取らなければならない雰囲気に強制された演技のどちらかだろう。あるいは外国のテレビカメラが向けられ、何か問われたらそう答えるように命令されていて、それを役目としていて答えているといったこともあるかもしれない。

 イスラエルの空爆と避難生活の直近の原因はヒズボラによるイスラエル兵拉致であって、いわばヒズボラがつくり出した災厄である。自分たちは死んでもいないし、怪我もしていないが、他に多くの死傷者を出している。それを避難場所に安全な地下駐車場を宛がわれ、役目でも雰囲気からの強制でもなく、食糧や衣類を無料で配布されたからとヒズボラを心の底から有り難い存在だと信じているとしたら、そういうふうに計算合わせできる合理性には素晴しいものがあると感心させられる。

 人命や社会資本といった国の資源を消耗するだけの根本的な解決につながらない姑息なテロを散発的に繰返し、それがかつてあり、また今回のように全面衝突といった事態に発展してさらに多くの人命と社会資本を消耗しながら、白黒決着のつく最後のところまで持っていく能力も気力もなく、国際社会の力を借りて完全な和平へとは進まない停戦という一時凌ぎをして、再びテロを引き起こして全面衝突といった同じことの繰返しを延々と続けるのか、それとも同じことの繰返しを続けながら国力をつけて、それを軍事力にまわして、いつの日かのイスラエル放逐を待とうと計画しているのか。

 もしイラン以下がイスラエル抹殺の意図を露骨に掲げてイスラエル攻撃に移ったなら、イスラエルは自国の生存をかけて核兵器の使用も辞さない徹底抗戦に出るだろう。そのことを予測したイランの核開発なのかもしれないが、どのような軍事力を以てしてもイスラエルの中東からの完全な消滅は軍事的にも物理的にも、さらに国際世論上からも不可能で、核兵器まで使った単なる人命と社会資本の徹底的な消耗合戦に終わるだけのことだろう。

 もし核戦争へと発展したなら、日本の軍部がアメリカに制空権を完全に握られ、軍事力はほぼ壊滅し、反撃の余力も残していないにも関わらず、降ろし所もないくせに拳を振り上げて徹底抗戦・本土決戦を唱えてポツダム宣言の受諾を一旦は拒否したはいいが、広島と長崎に原爆を落とされて多数の市民を死傷させ、都市の姿を見る影もなくさせたばかりか、悲惨な後遺症者を背負い込むこととなった日本の愚かさを中東のイラン、パレスチナのハマス、レバノンのヒズボラが再演することになるだろう。あるいはイスラエルが。

 そこまでいくのも一つの手かもしれない。そこまでいかなければ、自分たちの愚かさに気づかないだろうからである。停戦に持っていこうなどといったことはせずに、イスラエルとヒズボラを徹底的に戦わせたらいい。罪もない一般市民の犠牲?――そんなものは人間の愚かさがつくり出す、時間が経てば忘れられてしまう茶番に過ぎないし、犠牲者にしても何らかの形で関わっている愚かさでもあるだろう。

 子どもには罪はないと言うかもしれないが、罪があろうがなかろうが、選別しないのが戦争であり、選別を必要とするなら、戦争のない世界を先ずきっちりと考え出すべきだろう。いわば戦争で子どもまで犠牲にする責任は、世界に生きるすべての人間にかかっている。戦争をする当事者だけの問題ではない。

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