財政再建政策が招く〝地獄の沙汰もカネ次第〟

2006-08-01 06:14:06 | Weblog

 『朝日』新聞が06年7月28日の朝刊で、10月2日から施行される容疑者国選弁護制度で国選弁護人を選任できる容疑者・被告人の資力の基準額を法務省は50万円以下にする方針だとする記事を載せている。

 所持する現金・預貯金等が50万円以上なら私選弁護人に振り向けられるという。50万円という基準額の根拠は、「①平均世帯の1ヶ月の必要生計費は約25万円②刑事事件を受任した私選弁護人の平均着手金は約25万円――とした上で、『50万円以上あれば、私選弁護人に着手金を払った上でひとまず生活できる』と説明している」という。

 国がカネをかける国選弁護人ではなく、国の懐を痛めない私選弁護人の方に回したい意図が露骨に見える。振り分けの線引きが「ひとまず生活できる」というラインだと言うから、裏返すなら、線上にある人間は「ひとまず」の生活で十分と言うことだろう。それが厭なら犯罪を犯すなということなら、犯罪を犯すも犯さないも、その跡始末となると「資力」(=カネ)次第と言うことになる。

 容疑者もしくは被告人が独身なら、留置場暮らしが生活費を賄ってくれるが、家族があって、容疑者もしくは被告人の働きで生計を立てている場合は家族の生活は「ひとまず」どころか、3ヵ月後、4ヵ月後と続くのである。国の側から言わせたなら、人権もクソもない、国も借金でクビがまわらないんだ、そこまでは面倒見れるかと言うことなのだろうか。

 財政再建のためにあらゆる場面で国にかかるカネを極力減らそうと悪戦苦闘している政府・官庁の姿には心底から頭の下がる思いがする。政治家・官僚自身のムダ遣いには殆ど手をつけず、野放し状態にしておいて国民向けにのみ悪戦苦闘しているのだから、その点に関しても再度頭を下げなければならない。

 まあ、日本だけではなく、地獄の沙汰もカネ次第が相場の人間世界である。「04年度の刑事訴訟法改正で容疑者国選弁護制度が導入された際、資力を申告する制度も盛り込まれ」、「資産の範囲について法務省は、手持ちの現金や預金のほか小切手、郵便貯金などに限り、不動産や貴金属は含めない意向。虚偽申告すれば10万円以下の科料になる」(同記事)と言うことだが、弁護士選びもますますカネ次第となるわけだから、結構なことではないか。

 計画的に犯罪を犯そうとした場合は、資産を現金・預貯金から不動産・貴金属に換えておけば、自分の懐は痛めずに国のカネで裁判が受けられる。予めそうしてから犯罪に着手する人間も出てくるかもしれない。

 戦後の「基本的人権の尊重」が自分の権利だけを主張する、自分さえよけれはいいとする行き過ぎた利己主義の風潮を生み、カネの力で何でも解決しようとするカネ万能の世の中をつくり出したと、そのような戦後精神を是正するために公の精神を重視すべきだ、占領下につくられたという理由までつけて、その方法として教育基本法だけでなく、憲法にも「国を愛する心」の植え付けを求める条文を盛り込むべく、これも悪戦苦闘している。

 マスコミはこぞって時代の寵児扱いした若き経営者の「カネさえあれば、何でも買える」と豪語した言葉を究極のオールマイティーと讃えながら、メッキが剥がれると、その言葉がそれを口にした人間の人格のすべてを物語る忌むべき証明であるかのように手のひらを返すように批判の対象とし、「カネ」という言葉をあからさまに口にすることが悪であるかのような雰囲気を世の中に伝えた。

 だがである。カネですべてが解決できるわけではないが、カネが大いなる力であることに変わりはない。稼ぐ方法、あるいは使い道に善悪はあるが、カネそのものは常に善であり、より多くの場合、平和の使者となる。そのことを身に沁みるまでに日々思い知らせているのは世の中のカネ万能主義の風潮だけではなく、政府のなりふり構わない財政再建策も一役買っている。

 上記の容疑者国選弁護制度に譬えて言うなら、カネがあれば有力な弁護人を何人でもつけることができるが、なければ満足のいく形で自由には選べないとなってはカネの力を思い知らされることになり、国の政策はそのように仕向ける動機ともなっているはずである。

 年金制度改正による給付額の減額と社会保険庁のズサンな職務からの年金制度に対する不信から国民にカネがなければダメだな、カネがあってこそ人間らしい生活ができる、貧乏ではダメだ、辛いだけ、情けないだけだと、カネの力を改めて認識させたとしたら、そのようなカネ万能主義への意識改革も政府が一役どころか、二役も三役を買ったことになる。

 特に若者世代に年金に対する不信感を強く植えつけているとしたら、老い先長い生涯に亘って頼れるのは自分のカネだけということになって、そのことがカネ万能主義どころか、カネ至上主義に走らせたとしても、止むを得ない心理変化と言える。

 医療費の自己負担分引き上げがカネの力を再認識か、再々認識させていることも、入院時の食事に保険が適用されなくなり、自費で賄わなければならなくなったこと、介護保険法改正によって介護報酬の単価が引き下げられたことが訪問介護サービスの質の低下につながった場合、やはりカネこそが安心を与えてくれる源だと、葵の印籠だと思い知り、子や孫、その他の近親者に、カネをすべてとしろ、カネこそが政治家・官僚が世の中をどんなにおかしくしても唯一助けになるお助けマンだ、政治に期待するな、自分のカネに期待しろ、警察に捕まらない範囲で手段を選ばず、カネを稼け、稼ぎに稼ぎまくって、安心を手に入れろと教え諭したとしても無理のない話で、基本のところでそう仕向けたキッカケは政府の社会保障政策と言っても過言ではないだろう。

 6月(06年)に可決・成立した医療制度改革関連法によって12年度始めまでに全国38万床ある療養型病床を6割減らして15万床にする切り捨て政策によって一番安心できるのは医療ケア付き有料老人ホームしかない、そういった施設に入るには金持ちにならなければだめだという意識が一般化したなら、一般化の後押しをした栄誉はやはりそのような制度をつくった政府に与えなければならない。

 〝カネこそ力〟の風潮に若者世代が既に侵食されていることを証明する朝日新聞の記事(06.7.25.朝刊)がある。医学部への志願者が急増し、医学部シフトが加熱しているという内容である。見出しの一つが「少子化でも10万人突破 強まる生活安定志向」と謳っているが、一部を紹介すると、「今春、関東の私立大医学部に入学した女性(19)は、『一生食べていけるのかは大事。医師免許は年齢制限もないし、更新制もない。病気はなくならない。高校生には利点ばかりが見える』と話す」――

 記事は「強まる生活安定志向」としているが、医者の収入は一般的な「生活安定」を超える安定性を保証する。カネ万能主義が一般的な「生活安定志向」を超えて、より高いレベルにまで向かっているということを物語っていないだろうか。

 「文部科学省は『学校基本調査報告書』などから集計すると、全国の国公立大と私立大の計80の医学部(医学科、防衛医大含む)の定員約7700人に対して、志願者数(延べ人数)は、00年度入試では8万8996人だったが、04年度入試で10万人を突破。05年度入試はさらに増え、10万5993人だった。
 この間、大学・短大の志願者数が約9万2千人減少した。さらに84年度をピークに医学部定員が『医師過剰時代』の回避などを目的として政策的に減らされてきたことを考えると、受験生の『医学部シフト』は顕著だ。(後略)」――

 05年度で定員に対して14倍近い受験生が殺到した。その一方で24時間拘束され、プライベートな時間がなかなか持てないきつい仕事という不人気から多くの産婦人科医が姿を消し、地方の過疎地では医者の来てがいない。「医学部シフト」は都会中心、十分休日が取れる医業へのシフトであり、その意味するところは社会的責任意識からではなく、一般的高収入を超える「カネ万能主義」志向一本やりの風潮といったところだろう。

 そのような風潮はテレビの影響もあるに違いない。医者をセレブと持てはやし、リッチの最先端に位置する職業の顕著な一つとして紹介することが流行りとなっている。テレビがセットする医者との見合いパーティ。その持てはやしが医者との見合いに女性をなおさらに駆り立てる。あるいは女医を社会的ステータスの証明として伴侶に求める男。テレビが取り上げることによって有名人化する可能性への期待も「医者シフト」の傾向を後押ししている原因の一つになっているかもしれない。

 医者になるには小学生のときから中高と有名塾に通い、成績がそれ程でなければ、高い学費を覚悟しなければならない私立医大を選択しなければならず、医者になるまでのバカにならない子どもの教育費をクリアできるかどうかは親の収入にかかってくる。いわば親の収入が子どもの将来を左右し、将来的な生活の保険の有効性に関係する。当然のこととして、親が支払う保険料次第・カネ次第で否応もなしに子どもの生活に格差がついていく。

 国会議員に二世議員が多く占めるのも(名ばかりで中身はニセ議員というのも多く占めているだろうが)、親の名前ばかりではなく、カネの力がモノを言っているに違いない。

 小泉改革に於ける財政再建策がひそかにカネ万能主義を煽り立て、それが一層の社会的格差を生み出し、その社会的格差がまたカネの力への認識を日々新たにして、なお一層のカネへの執着というカネ万能主義への悪循環のスパイラルを渦巻かせている。

 医者となった彼ら・彼女らの多くは自民党支持者へと変身していくことは間違いない。そのような支持者を抱えた自民党が自らも陰でカネ万能の利己主義を支えて格差社会をつくり出していながら、戦後の「基本的人権の尊重」が自分の権利だけを主張する、自分さえよければいいとする行き過ぎた利己主義の風潮を生んだと警告を発し、機会の平等を柱とした再チャレンジ社会の構築を訴えている。その小賢しげな顔をした倒錯的矛盾はどう説明したらいいのだろうか。

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