教育現場で見せる親の「無理難題要求」

2006-09-05 16:22:47 | Weblog

 教師は学校社会の教育者でなければならない。

 教師などに常識では考えられない理不尽な申し出をする親のことがここのところ話題になっているらしい。インターネットで調べたところ、06年7月23日の産経新聞に詳しく出ていた。

 持ち込み禁止の携帯電話を生徒から取り上げた中学教師が保護者に「『基本料金を日割りで払え』と言われ、言葉が見つからなかった」とか、「あの子の親と仲が悪いから、今すぐうちの子を別のクラスに移して」と言う親、「うちの子がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」とか言う親のことを取り上げ、「保護者が教師に無理難題を言うケースが各地で急増している。教師が頭を悩ますこうした『理不尽な親たち』について、大阪大の小野田正利教授(人間科学、教育制度学)は、文部科学省の科学研究補助金を受けて教育関係者や弁護士、精神科医らによる『学校保護者関係研究会』を発足させ、原因究明と対策に乗り出した」(同記事)と伝えている。

 同じ記事内からさらに見てみると、
「ある幼稚園では、おもちゃを取り合う園児を見た親が『取り合うようなおもちゃを置かないでほしい』と申し入れた」

 「小学校の1学年全クラスの担任配置表を独自に作成し、『この通りでなければ子供を学校に行かせない』と要求した保護者もいる」

 記事は続ける。「《病む先生…》 先生たちはお手上げだ。文科省調査では、全国の公立小中学校で精神性疾患による教職員の休職者は一昨年度、病気休職者の56%を占める3559人に達した。10年前のほぼ3倍だ。研究会メンバーの嶋崎政男・東京都福生市教委参事は『現場感覚でいうと、精神性疾患による休職の多くに保護者対応による疲弊が関係している』とみる。
 小野田教授の調査に、小中学校・園の8割が『無理難題要求が増えた』と回答。背景として嶋崎参事は『教師の能力に問題があるケースもあるが』と前置きした上で、『行政による「開かれた学校」がうたわれた結果、些細(ささい)なことにもクレームが寄せられるようになった』と指摘する。
 保護者の理不尽な要求への関心は高まっており、小野田教授の講演依頼は学校やPTA、民生委員から殺到している」

 次は原因。

 「《家庭に原因》 『過保護型』『放任型』『過干渉型』。嶋崎参事は、無理難題を言う保護者の養育態度を3種類に大別する。いずれも家庭内の人間関係に原因がある場合が多く、過干渉型の場合、親にとって『良い子』を演じる子供が教師の言動を大げさに報告し、事態を悪くすることもある。
 また、要求態度については、子供の言い分をうのみにする溺愛(できあい)型▽教師の困った様子を見て満足する欲求不満解消型▽利得追求型-などに分類している」

対応策は「《学校の限界》 このような保護者への対応として、嶋崎参事は(1)複数の教師で対応に当たる(2)専門家のアドバイスを受ける(3)マニュアルを作る(4)事前研修の実施-などを提案する。
 その一方で『学校に無理な要求をする保護者は皆何らかの問題を抱えている。その解決のために学校と話したいという意思表示と考えるべきだ』とし、要求を機に保護者を“味方”に変える努力を呼びかける。
小野田教授は『たてつかない弱者をいじめる“言った者勝ち”の傾向が社会に蔓延(まんえん)している』と指摘。社会問題としてとらえ、第三者機関の設置や学校の“守備範囲”の限定を訴えている」

 そして最後に「研究会で把握している保護者からの要求」の実例を挙げている。

「《保育園・幼稚園》
『うちの子は箱入り娘で育てたい。誰ともけんかさせないという念書を提出しろ』
『行事のスナップ写真でうちの子が真ん中に写っていないのはなぜだ」
『子供が1つのおもちゃを取り合ってけんかになるからそのおもちゃを置かないでほしい』
《小学校》
『石をぶつけてガラスを割ったのは、そこに石が落ちていたのが悪い』
『義務教育だから給食費は払わない」
『(夜中に電話で呼び出して)飲食店での話し合いに応じろ』
《中学校》
『(保護者がクレームを言いに来た日の)休業補償を支払え』
『風呂に入らないので入るように言ってほしい」
『(けがをした生徒を病院に行かせたところ)なんでやぶ医者に行かせるんだ』」
(引用以上)

 悪者は親だとする主眼を出発点としているから、まさに教育荒廃は親が元凶、親の家庭教育の未成熟が原因といった趣一辺倒の内容となっている。同じ目で見ているからだろう、保守政治家が家庭教育を問題視するわけである。「教育の基本は家庭教育である。親の子どもに対するしつけがいい加減だから、学校での生活態度を確立できない。集団生活に馴染めない。朝食を食べさせないで学校に行かせる親、昼食にコンビニ弁当を持たせる親。親を教育する教育が必要である」云々。
 
 「親を教育する教育」が必要なら、政治家を教育する教育も官僚を教育する教育も必要としなければ、公平が保てない。親・政治家・官僚――この三者は同じ穴のムジナに見えて仕方がない。このような親がいてこそ、同じ穴の自民議員を支持することとなり、結果として自民党は政権党として成り立つことができている。常識を知らない親(=大人)のお陰というわけである。

 大体が「無理難題要求」する親の、あった事実を単に表面的に把え、羅列しているに過ぎない。いわば出来事を表面的に把えて、最近の親はああだ、こうだと言っているに過ぎない。「『過保護型』『放任型』『過干渉型』」の原因分析にしても、表面的な分析で終わっている。

 「嶋崎参事は『教師の能力に問題があるケースもあるが』」と教師側の問題を部分的とし片付けていること自体が表面的分析を証明している。

 持ち込み禁止の携帯電話を生徒から取り上げた中学教師が保護者に「『基本料金を日割りで払え』と言われ、言葉が見つからなかった」という一事が問題点がどこにあるかをすべて物語っている。 

 「言葉が見つからなかった」のは教師が対応できるだけの言葉を持っていなかったということに他ならない。「いいえ、払うことはできません。持ち込み禁止となっている携帯電話を持ち込んだ。ルールを守らなかったのはあなたの子どもの方です。ルールを守っていたら、取り上げることはなかったでしょう。今後ともルールを守らなければ、それなりの罰則を与えることになります。当然の措置です」といったことを言えば済むことを、学校教育者でありながら「言葉が見つからなかった」。

 確かに「学校に無理な要求をする保護者は皆何らかの問題を抱えている」と言えるだろうが、「言葉が見つからなかった」教師も「問題を抱えている」のである。小野田教授が言っている「たてつかない弱者をいじめる“言った者勝ち”の傾向が社会に蔓延(まんえん)している」にしても、日本人が行動・思考様式としている権威主義性は時間を過去に遡るほどに権利意識の未発育を受けて強い磁力を放っていたのだから、過去の時代ほど“言った者勝ち”の傾向は蔓延していたはずで、今の時代だけの問題ではないはずである。

 「研究会で把握している保護者からの要求」のすべてが、教師が対応可能な臨機応変の言葉を持っていたなら、その場で片付く問題であろう。少なくとも当事者間で解決しなければならない問題のはずである。それを「文部科学省の科学研究補助金を受けて教育関係者や弁護士、精神科医らによる『学校保護者関係研究会』を発足させ、原因究明と対策に乗り出」さなければならない。飲み会で終わってしまうのではないだろうか。

 対応できない、当事者間で解決できないお粗末な事態は社会も教師自身も、学校教師を勉強を教えるだけの人間と把えているだけで、教師は学校社会の教育者であるという明確な位置づけを行っていないことがすべての原因となって起こっているのではないだろうか。教える勉強にしても教科書に書いてある範囲の内容を機械的に伝え(=指示)、それを生徒が機械的に記憶する(=従属)暗記教育だから、殆ど用意してある言葉を使うのみで、ない言葉を自分から見つける訓練づけも習慣も与えられていない。当然、マニュアル化している言葉は使えるが、マニュアルにない言葉は使えないという障害が起きる。

 このようなことは何も学校教師に限ったことではなく、国会の質疑応答でも、党首討論でも、お互いに自分が用意した言葉をぶつけ合うだけで、用意していなければ、相手の言葉を把えてその不備・矛盾を突くといったことが満足にできない。いわば日本人性となっている日本人全体の問題であろう。

 勿論このことも日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義性からきている。子供の頃か親にああしろ、こうしろ、あるいは逆のそれはしてはダメだ、これはしてはダメだと肯定か否定いずれかの指示を受け、その指示をなぞって従属するだけの権威主義的対人関係・意思疎通に慣らされてきて、それが小中高校と暗記教育の知識授受を通して上塗りされていく。

 親に暴力を振るわれて育った子は成長して同じように暴力をふるう傾向にあるという調査結果があるそうだが、刷り込まれ学習した対人関係の方法が暴力を介在させて成り立たせたものだから、将来的な対人関係でも同じ手段を必然化させる傾向にあるということだろう。権威主義的な指示・従属を慣習として育った場合にしても同じ経過を踏む。単に暴力が介在しているかいないかの違いしかない。尤も一方的に指示を出して従属させる関係は心理的暴力を手段としていると言えないことはない。

 かなり前に別のところで目撃談として一度書いたことだが、幼稚園の園児が散歩から帰る時間に園長が上がり口となっている廊下の敷居のところに園児を迎えるべく現れた。先頭を歩いてきた園児は順番に縁側の前で園長を半円に囲むような形で立ち、園長とそれぞれ声を掛け合うでもなく残りの園児が揃うのを黙って待った。幼稚園園児だから、しんがりは他処見しいしい歩いていたのだろう、かなり遅れていた。保母が早く歩きなさい、みな待ってるでしょ、と急かした。これもああしなさい、こうしなさいの指示で、但し相手が幼い園児だから、指示がまともに機能しない。保母はときにはヒステリックになる。言うことを聞かない子供にヒステリックになる母親のように。指示する側は指示が思い通りに実現しないとヒステリックになるのは、有効な言葉を持たないからでもあるが、両者の位置関係から言えば、相手(園児・子供)が下位権威者の立場にあるから可能となっているヒステリー対応であって、保護者にはそういった態度は取れない。逆に教師や保母よりも上位権威者と見ているから、親の「無理難題要求」に対して反論もできず黙って伺うといった従属状態を示しもするのだろう。だとしたら、保母にしても教師と同様に教育者の立場には立てない。少なくとも園児から見たら社会の一員として、大人としてそれ相応の社会経験を積み、社会の先達者として教育者の立場にいるはずだが、権威主義的な指示・従属の関係性ばかりが全面に出て、教育者の立場に立つことを阻害している。

 園児がみんな揃ったところで、主だった保母が「園長先生、ただいま」と指揮すると、園児たちはすぐ近くにいるというのに、大きな元気のよい声を出すようにこれまた指示されていて、指示通りにだろう、「園長先生、ただいまー」と声を一斉に張り上げて帰りを告げると、園長は初めて、「お帰りなさい」と応じた。このときのために早く到着した園児には何も声をかけないで、「お帰りなさい」を温存しておいたのだろう。

 挨拶が終わると、「ただいま」を指揮した保母が今度は、「さあ、手を洗ってうがいしてから教室に入りましょう」と次の指示を出すと、園児たちは元気よく「ハーイ」と返事して、それもそういうふうに「ご返事しましょう」と洗脳されていたのだろう、背後の手洗い場に一斉に群がり、指示されたとおりに手を洗ってうがいしてから、終わった者順に廊下に上がっていった。

 帰り着いた者から誰の指示がなくても順に「園長先生、ただいま」と普通に声をかけ、手洗い場で手を洗い、口をうがいしてさっさと廊下に上がって教室に戻り、みんなが揃うまでの時間、指示されたことではない自分が興味のあること――絵本を広げるとかオモチャで遊ぶとか、自分で考えて自分で行動する訓練とそういったことの学習・習慣づけが一切ない。あるのは上が下を従わせる指示と下が上に従う従属の権威主義性の刷り込みのみである。

 保母が指示する「園長先生、ただいま」の言葉にしても、手を洗いうがいを命ずる言葉にしても用意されている言葉であり、その指示を受けて園児が口にする「園長先生、ただいま」の言葉も、手を洗い、うがいすることを指示されて「ハーイ」と応じる言葉も、用意されている言葉を用意されたとおりに鸚鵡返しに口にするだけのことで、そこには自分の言葉は存在しない。いや、存在することを許さない。

 知り合いの誰かと出会って、相手が子どもに挨拶しても殆どの子どもが黙ったままで、「おはようは?」と親に促されて、初めて促された言葉どおりに「おはよう」と言う。「ありがとうは?」と親に指示されてから、「ありがとう」を言う。「バイバイは?」・・・・。
 
 幼い頃からそのように訓練づけられている。指示を指示通りになぞって従属する関係には用意された言葉の受け答え(ああしなさいこうしなさい、これをしてはダメ、あれはしてはダメといった指示の言葉と、そのことに機械的に対応する言葉)のみで、それぞれの性格や思いから自然に出てくる自由な言葉の介在はない。

 権威主義性に則った指示と従属の関係は創造的な言葉の介在を許さないだけではなく、自立性(自律性)の介在も許さない。自立性(自律性)は権威主義性成立の否定要因だからなのは言うまでもない。

 「外で誰かにおはようと声をかけられたら、お母さんに言われなくても自分から挨拶してもいいのよ」という教え方で子どもに考えさせ、親の指示を受けてそれに従属するのではない自分で判断させる訓練の習慣が殆どない。

 例え教師の「言葉が見つからな」い状況が教師だけの問題ではなく、日本人全体の問題であったとしても、教師は勉強を教えるだけの人間ではなく、社会が学校社会の教育者であることを教師の使命として求め、教師自身もそれを教師であることの使命とする自覚を持ち、自らを律することを相互の位置づけとする――そういった認識がなく、学校教師が勉強を教えるだけで終わっていて、学校社会の教育者たる自覚も資格も有していないから、言葉を見つけることができないのであり、親の「無理難題要求」に対応しきれないといった事態が生じる。

 また教師は学校社会の教育者として、権威主義的な意味ではなく、保護者よりも上に位置する権威(オーソリティー)であって、またそうでなくてはならず、自信を持って対等に渡り合う姿勢を持たなければならない。だが、やはり勉強を教えるだけで終わっている。

 道徳とか規律とかを教えるにしても、教科書ないしは参考書を用意して授業として教えるだけから、用意してある他人の言葉を伝えるにとどまり、生徒も機械的に受け止めることしかできない。対人関係の構築や社会化は本来は親や教師、あるいは生徒同士が日々発する言葉の中から必要とするキーワード・感性を自分で見つけて学び身につけていくものだが、教師にしても生徒にしても子どもの頃から指示と従属の人間関係に馴染み、その範囲内の言葉を日常語としているから、見つけようにも見つけることができないのだが、それ以前の問題として、指示・従属の関係は見つけるというプロセス自体を本来的に必要としていないから、権威主義的人間関係に慣らされている人間ほどその種の意識作用を作動させず、指示・従属の対人関係、あるいはその範囲内の社会化にとどまることになる。

 いわば実際には親を教育する教育は小中高大学といった教育機関が担っているのだが、学校教師がコマ切れ知識を暗記させる勉強しか教えることができず、学校社会の教育者足り得ていないから、家庭で常識をしつけられずに育った子が学校社会に送り込まれてきても、小中、あるいは高校、大学と暗記学力は身につけさせることはできるが、常識のしつけに関しては素通りさせるだけで常識知らずの社会人として社会に送り出し、結婚して子を設け親となっても、自らが常識を弁えていないから子どもに満足なしつけができるはずはなく、親の子どもでしかない子どもが小学校に送り込まれてきても、やはり学校自体がその子を常識を弁えないまま社会化させ大人に成長させていくだけの素通りの役目しか果たさず、常識を弁えないクローン人間を次々につくり出していく無限循環を繰返す機関にとどまっている。学校社会が生徒に用意されている言葉ではなく考える言葉、あるいは考えさせる言葉を伝えることを役目としていながら、教師自体が考える言葉・考えさせる言葉を持たないから、その役目を機能させることができないでいるということだろう。

 ということなら、親の「無理難題要求」よりも、学校教育が素通りを許している原因となっている教師の考え・考えさせる言葉の欠如を問題とすべきだろう。そのような言葉を持ったとき、教師は単に勉強を教えることから、学校社会の教育者となることができる。そのための第一歩として、教師は勉強を教えるだけであってはならない、学校社会の教育者でなければならないという自覚を持ち、そうあるべく自らを厳しく律することから始めなければならない。「言葉が見つからなかった」などと言っている場合ではない。

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