安倍晋三の危険な「美しい」論理矛盾

2006-09-12 03:11:01 | Weblog

 その日本民族優越意識

 「日本を美しい国にしていく」

 「戦後レジーム(体制)から新たな船出をすべきだ。21世紀にふさわしい国の在り方を示す新憲法制定のためリーダーシップを発揮していく」(『安倍官房長官の出馬会見(要旨)』06.9.2.『朝日』朝刊)

 以前このブログに書いたことの繰返しになるが、「美しい国にしていく」とは、かつてはそうであったが、現在「美し」くない国になっていることを意味する。確かに現在の日本が美しくない国であることは痛いほどに理解できる。格差、矛盾、犯罪、怠慢・怠惰、放縦、無責任、私利私欲等々――このように日本の現在を美しくない国としたことに関しては、自民党政治にしても大いに関与・貢献もしているはずである。

 かつて日本が「美しい国」として存在したことがあったのだろうか。かつて存在したなら、それをモデルとして「日本を美しい国にしていく」ことは可能となる。安倍晋三には無理であっても。

 かつて存在したことがないということなら、安倍晋三は自己の論理矛盾に気づいていないことになる。それぞれの段階で完結体とすることができ、積み重ねや他人に伝えていくこともできるモノづくりの技術の物理性と違って、人間の行動として現れる精神性はそれが一人の人間の場合でも社会的規範に即して常に合理的・同一的姿を取る完結体として現れるわけではなく、逆に常にその時々に応じた不完全な形を取りやすくできていて、その総合的な反映として現れる各時代に「美しい国」を存在させることができなかったなら、将来に於いても存在させる力を獲得しようがないだろうからである。

 安倍晋三官房長官が出馬表明記者会見で、「『美しい』という言葉を使った経緯は」とメディアから問われて、おこがましくも「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ。日本の麗しさ、すばらしさを再構築しなければならないという思いで使った」(毎日新聞インターネット記事 06.9.1. 20:49)と答えたそうである。
  
 言っていることが事実でないとしたら、根拠も実体もない優越論と化す。

 「再構築」しなければならないということは、「日本の麗しさ、すばらしさ」が現在の「日本が美し」くない国の姿を取っていることに対応して崩壊した状態にあることを伝えているはずである。

 と言うことは、現在は美しくなくても、日本がかつて「美しい国」として存在したことがあるとする考えに立っていることを示している。どの時代を「美し」かった(「麗し」かった、「すばらし」かった)とするのか、安倍晋三は明らかにすべきである。その時代をモデルとした「美しい国」の規範精神を新たに制定を目指している新憲法や教育基本法に反映させて、「戦後レジーム(体制)から」の「新たな船出」を図ろうということだろうから。

 愛国心の涵養に拘っているところから推測すると、天皇のため・お国のための日本人総愛国心時代だった熱き戦前を「美しい国」と思い定めているのだろうか。靖国神社に祀られているという戦没者への異常なまでの美しい思い入れ・熱愛からすると、それぞれに対する情熱は時間的連続を得て一つに融合する。戦後生まれの遅れてきた愛国少年だったのかもしれない。

 過去のすべての時代が美しかったが、戦後の昭和の時代のみ美しさを失ったとすると、2000年の歴史のうちの最後を占めるわずか60年そこそこの期間で変質してしまう程に、最初の1900年以上の長きにかけて培ってきた「日本の麗しさ、すばらしさ」がトイレットペーパーで作ったたちまち水を含んで崩れてしまう船のように軟弱且つ脆弱な民族的資質に過ぎなかったことになる。

 いわば、日本が「美し」さを失ったとする時代区分を戦後の時代のみに限定するなら、日本人が日本民族という自らの心理的、人的、地理的、自然的を含む諸々の民族的環境に2000年以上に亘って相互影響し合って、あるいは相互制約を受けて培い、培わされた全体的な精神・意識としてある本質部分の民族性が持つ恒常性を無視し、否定する論理的矛盾を侵す指摘となる。

 逆に戦後の昭和の時代の日本の国が「美しい」姿を取っていないとするなら、過去のすべての時代を歴史・文化・伝統として受け継いだ美しくない姿だとしたほうが、日本民族優越論を掲げる保守政治家には認めがたいことだろうが、民族性が持つ恒常性に論理的にも整合性を与えることができる。

 国家、もしくは民族を評価するに当たって、根拠も実体も獲得不可能であることを無視して、あるいは不可能であることを「敏感に感じ取る」感性を持たずに美しくなかったものを美しかったとする無理やりな事実の構築は危険な優越論へと向かわないとも限らない。

 前述の朝日記事の『安倍官房長官の出馬会見(要旨)』には、「日本は美しい自然と長い歴史を持つ」と述べたくだりがあるが、それを以て日本人自身が美しく、品性豊かだとするなら、客観的認識に関わるその幼稚性を疑わざるを得ない。いくら日本の自然が美しくても、また歴史がいくら長くても、そのことが日本人の性格や行動様式をプラスの価値観で特徴づける決定要因とはならないからだ。歴史の長さによってではなく、歴史が与えた時代的環境や時代的な状況が性格や行動に影響を与えはするが、それらの時代性が長い歴史の僅かな一部分を占める現出である場合は、歴史全体で培ってきた民族性を覆って異質のものとするほど力を持つとは考えにくい。民族の本質部分を形作ることとなった民族性はそれほど柔ではなく、如何ともし難いほどに頑迷に出来上がっているからである。

 どの民族の如何なる歴史も美しくはない。歴史は人間がつくり出していくからだ。人間自体が美しい生きものではないのだから、歴史は美しくなりようがない。歴史を仔細に眺めていけば、権力欲や名誉欲からの権力闘争、領土拡張欲、支配欲、名を残すため、あるいは記念碑づくりのためのパフォーマンス、金銭欲からの利益誘導、地位欲(今の時代の代表は大臣病)・地位漁り・嫉妬・虚栄心・保身・形勢を見て有利な方に付こうとする事大主義、打算・縁故主義、都合が悪いとなると決め込む事勿れ主義etc.etc.――そういったもの渦巻かせて歴史は成り立っている。

 だからこそ21世紀の時代になっても族益・省益がなくならないのであって、既得権益にしがみつく人間もなくならない。自己利害の生きものであることから抜け出ることができない。

 ゆえに自分の国の歴史を素晴しいとすることも、自民族を優秀だとする非合理な優越論に相当する。合理的精神を欠く人間でなければ掲げることのできない優越意識であろう。

 また「日本は美しい自然」を持つに関して言えば、富士山は日本を代表する「美しい自然」であるにも関わらずユネスコの世界遺産登録から漏れた原因が日本人が「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」だからこそそうすることができた、世界で最もゴミの多い山という名誉ある評価を得ていたからであって、「美しい自然」と国民性が相互反映の関係にないことの最たる証明であろう。

 ゴミの山は何も富士山だけの問題ではない。日本人全体の問題としてある社会道徳に関わる責任意識の欠如を賜物とした景観であろう。また私的な場面だけではなく、社会的な場面に於いても日本人の責任意識のなさ、無責任性はよく言われることで、社会の一員として自律した行動を取れないことからきている全体性であろう。自分は一個の個人ではあるが、同時に社会の一員であり、一員としての行動を取る責任を有するという主体的な規範意識に則った行動性を確立して初めて責任意識を備えることができる。

 当然、「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」になれるかどうかは確固とした規範意識の確立が絶対条件となる。総裁選で誰それが優勢だからと、ポスト欲しさや自己保身、あるいは自己権力の拡張を目的として無節操に雪崩を打って支持に走る姿は国会議員として社会の重要な一員を形成しているという規範意識のみならず、国民に対して常に保持していなければならない重要な一員としての務めを果たそうとする責任意識を放棄して、自己利害のみに立っていることから可能となっている現象であって、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」とすることから程遠い姿となっている。

 このような日本人の美しくなさは戦後の時代にのみ現れた突然変異体ではなく、戦前にもあったことである。電車がまだ窓の開け閉めができる汽車と呼ばれていた時代、窓から駅弁のカラや果物の食べかすを放り捨てたりは当たり前の光景であったし、政治家・官僚の美しくない犯罪・乞食行為は戦後の昭和の時代と似たような頻度・規模で繰返され、日本人が「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」感受性を民族性として持っていたなら完璧に不可能な無責任を乱舞させていた。それらを受け継いだ現在の世界で最もゴミの多い美しくない富士山であり、戦後日本の相も変わらない政治家・官僚の美しくない犯罪・乞食行為であろう。

 江戸時代にはワイロは付け届けという形で広く日常的に行われていた。ワイロの通用は人事・政策が情実・縁故で左右される各種談合場面を付随させたことを意味する。ワイロ・談合の跋扈は「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」感受性を抹消条件としなければ生じない。

 「感じ取る国民」だったが、戦後のアメリカナイズの影響を受けて、あるいは個人の権利意識が行き過ぎて、その感受性が麻痺し、「感じ取る国民」でなくなった、だから「再構築」しなければならないは、民族性の本質的な普遍性・恒常性の無視を条件としているゆえに論理的な合理性を持たない。「美しいか醜いかを感じ取る」感受性は民族性としてあるものではなく、民族とは関係のない個人的資質としてあるものだろう。そのような資質を持たない人間はカメレオンのくるくる変化する警戒色のように自己の置かれた状況に応じて必要なら発揮する機会的・便宜的なポーズで以て「美しいか醜いかを感じ取る」感受性を代用するから、自然を愛するからと言って、その人間が信用できるわけのものではない。

 広大な屋敷を構え、広い庭に大きな池をこしらえてそこに色鮮やかな特大の錦鯉を何匹も放って日々眺めてその美しさを愛でる政治家が裏でカネで政治を操り、不正な巨額の政治献金を受け取っていたといったこともあったのである。

 安倍本人自体が「美しいか醜いかを敏感に感じ取る」ことのできる人間だったなら、戦前の日本の戦争と兵士たちの戦争行為を仔細に総括しないでは済まないだろうし、総括したなら、靖国神社に参拝して「国のために戦った」、「国に殉じた」と単純化できないだろうし、当然「次のリーダーも参拝すべきだ」と言った言葉も出てこないだろう。

 人間は決して性善には出来上がってはいない。「日本を美しい国にする」、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」――これは日本人を性善として把え、日本人性善説に立つ主張でもあろう。耐震偽装問題で日本人性善説に懲りていたはずなのに、性懲りもなく日本人性善説に取り憑かれている。このことだけでも合理的精神の欠如を疑われても仕方がない。

 日本人のみを性善とする考えは勿論、合理的な論理性の欠如、もしくは合理的な客観性の欠如を条件として成り立たせ得る日本人優越意識の反映としてある。両者は共犯の関係にあるといえるだろう。合理的な論理性の欠如、もしくは合理的な客観性の欠如は人間の現実の姿を見る目を持たないことによって到達可能となる。

 人間の現実の姿を見る目のない政治家が一国の総理大臣になる。ある意味滑稽であり、空恐ろしいことでもある。自民族優越意識を政治立場上の糧としながら、平等・互恵を解く。普通の人間だったならなかなかできない芸当である。自民族の優越性を内心に抱えながら、何ら矛盾を感じることなくバランスよく自由と民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値観の共有を謳うことができる。

 それもこれも安倍晋三がツラの皮が厚いのとは正反対に、「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」ことのできる感受性豊かな人間に仕上がっているからだろう。

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