「五百旗頭真防衛大学長が、7日に配信される小泉内閣メールマガジンの中で、『靖国参拝一つで、どれ程アジア外交を麻痺させ、日本が営々として築いてきた建設的な対外関係を悪化させたことか』などと批判した」という記事が9月7日(06年)の『朝日』夕刊に載っている。
「通算248回を数えるメルマガでの首相批判は異例だ」と言い、「『小泉政権をこう見る』と題した寄稿文で、五百旗頭氏は『信用という対外資産は、首相が靖国参拝に拘ったことによって大きく損なわれた』とも批判した。
その一方、『小泉首相のあり余る魅力と国民的な人気がアジア外交への批判を封じている』と分析。対米関係や北朝鮮訪問を評価した上で、『アジア外交の失点は小さくないが、それは小泉首相が再浮上の機会を後継者たちに残したものと考えて対処しなければなるまい』と記し、次期政権での中国や韓国との関係改善に期待感を示した」となっている。
靖国参拝がアジア外交を損ねたという別に珍しくもない広く行われている「首相批判」を、首相が今月の9月末には退陣するという間近に迫ったこの時期に、しかも「小泉内閣メールマガジンの中で」の首相批判となると本来ならあり得ない「異例」のことを「異例」でなくした。なぜなのだろう。
「小泉内閣メールマガジンの中で」首相を批判できる立場にあるなら、また「アジア外交を麻痺させ、日本が営々として築いてきた建設的な対外関係を悪化させた」と真に憂慮していたなら、その「悪化」を少しでも防ぎ止めるべく、ガン治療の絶対条件となっている早期発見・早期治療と同様にもっと早くに批判して靖国参拝を思い直させようと働きかけるべきではなかったろうか。例え結果的に翻意させることができなかったとしてもである。小泉内閣最後の年だからと果たせずにいた公約の8月15日参拝を強行した後である。
首相の立場でこれ以上参拝することはないと分かっているこの時点で批判したとしても、それが如何に痛烈な内容であっても、小泉首相に対してはもはや何の役にも立たないカエルの面にショウベンなのは分かりきっていることで、これまでもショウベンだったが、批判そのものは遅きに失したものでしかない。
となれば、批判が主ではなく、誰が見ても分かることだが、「アジア外交の失点は小さくないが、それは小泉首相が再浮上の機会を後継者たちに残したものと考えて対処しなければなるまい」の結論に主眼を置いた議論の展開と見るべきだろう。
「後継者たち」と複数形にしているが、安倍晋三が反安倍派にしたら幸運にもということになるが、親安倍勢力からしたら、当然不運にもということになる何らかの突然死に見舞われない限り安倍晋三で決まりなのは分かりきっていることだから、安倍晋三を頭に置いた「後継者たち」ではないと言ったら、ウソになる。
また、「後継者たちに残した」「再浮上の機会」とは、前段の批判を受け継がなければならない以上、靖国参拝の中止を手段とした「再浮上」の構築を置いて他にないはずである。
しかし安倍はかつて宣言している。「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」
安倍晋三は自分で自分の足に公約と言ってもいい参拝の足枷をはめたのである。一旦口に出して置きながら、参拝を中止したなら、「行くか行かないかは外国から指図されるものであってはならない。それによって首脳会談ができる、できないというのは間違いだ」と常々公言している手前からも、中国の批判を恐れて中止した言行不一致、二枚舌の政治家と受け取られかねず、首相の公式参拝のみならず天皇の公式参拝まで実現させようとしている勢力の批判は勿論、参拝賛成派の一般国民からの批判にしても免れるわけにはいかないだろう。
だからと言って参拝を強行したら、アジア外交を自らの手でますます袋小路に追いやることになる。
そこで五百旗頭真防衛大学長のご登場を願った。その役目は小泉靖国参拝がもたらしたアジア外交の停滞を「小泉首相が再浮上の機会を後継者たちに残したもの」と、実際にはそんなことを意図していたはずはないのだが、そう解釈づけることで、安部晋三に靖国参拝中止の「機会」を与えると同時に、その解釈自体を中止の正当化の理由付けの「機会」に提供しようと図ったものではないだろうかと、こちらとしたらそう解釈づけることができないわけではない。
つまり安倍晋三が自らの足にはめた足枷である「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ」とする方針を転換させるための正当化の道筋をつける布石ではないだろうか。また批判が強いほど、正当化の理由付けとして効果を持つ。
そのように意図した布石であるなら、「小泉内閣メールマガジン」という場を使ったことにも意味が生じてくる。しかも防衛大学長の意見である。憂慮のバロメータになるだろうし、無下に無視するわけにはいかないという口実に利用できないわけではない。
もしそのような狙いを持った深謀遠慮なら、「異例」でも何でもなくなる。
また小泉靖国参拝はアジア外交を損ねただけではない。アフリカ外交まで損ねている。中国にとっては小泉首相の靖国参拝強行は中国の国益に叶う事柄であったろう。一般に流布しているように中国国内の反体制派の目を反日に向けさせて政権に対する不満を逸らせる口実になるという意味ではなく、靖国参拝強行によってつくり出された日本に対する激しい対抗意識をエネルギーとして世界のすべての国に対する外交に振り向けることができただろうからである。
外交とは他国との競争の上に自国の政策を売り込むことでもあるから、日本が靖国参拝問題の関わりからも負けるわけにはいかない競争相手国となっているだろうことを考えると、そのことによってもたらされた対抗意識は十分に外交上の力となり得たはずである。
「常任理事国入りを目指す日本がドイツ、インド、ブラジルと連携したG4案をAU(アフリカ連合)は拒否。中国はAU各国に『中国と敵対する国』の常任理事国入りへの反対を求めていた。
日本が最も頼りにしたナイジェリアのオバサンジョ大統領は4月26日、胡主席を招いた夕食会で『今世紀は中国が世界を引っ張る。我々は中国のすぐ後ろにいたい』」(『アフリカ戦略、中国に後手・ODA「倍増」打ち出したけど』(06.5.2.『朝日』朝刊))
日本の常任理事入りに対して「中国は各国大使館に現地政府関係者を招き、日本が戦争行為で残虐な行為をしたことを告発する映画を上映して日本への不支持を呼びかけたとの報告が外務省に入った」(『小泉時代 「強い男」演じた外交』 06.5.3.『朝日』朝刊)
「中国と敵対する国」という日本に対する位置づけと「日本が戦争行為で残虐な行為をしたことを告発する映画を上映」はもし靖国参拝問題で中国との関係がこじれていなければアンフェアな外交戦術と見なされ、逆に中国は卑劣な手を使うと批判されただろうし、日本も批判して得点稼ぎができただろう。
しかし中国の戦術から窺うことができるのは、日本に対する対抗意識のエネルギーの激しさのみである。対する日本は「一度中国の言いなりになったら、次々と難題を持ち出してくる」といった程度の批判では中国に対抗する外交エネルギーとしては不完全燃焼のガス湯沸かし器程度の力しか与えないのではないか。
次期総理安倍晋三が五百旗頭真防衛大学長の「機会」提供を受けて靖国参拝を控えたとしても、あくまでも首相職を全うするため、アジア外交のみならず世界外交を成り立たせるための見せかけの方便に過ぎず、外交の強いエネルギーとはなり得ないのではないだろうか。外交の場面で中国の存在感がますます強まり、日本がその背後に隠れてますます影を薄くしていくといった事態が起きないとも限らない。単純・単細胞な国粋主義だけではやっていけないことは確かである。