08年12月17日の「サンスポ」記事≪橋下知事、文科省を「バカ」連呼で猛烈批判≫が橋下大阪府知事の対文科省「バカバトル」を次のように伝えている。
文科省が来年のテスト実施要領に「市町村別の成績は必要ないという都道府県教育委員会には特定のデータを提供しない」との内容を盛り込むことを検討していることに対して、「教育委員会の要請があれば(データを)出さない、と責任をなすり付けている。文科省のバカさ加減に感心する」と記者会見で批判。何度も「バカ」と繰り返したと。
「府教委が『データは要らない』と言うと思っているのか。文科省は本当にバカだ。バカですよ。感心するくらいバカだ。・・・日本の教育のためには(文科省の)官僚は全部入れ替わった方がいい」
対して国の教育を預かる塩谷文科相「テストは学力の把握が目的で公表は目的ではない」
この文科相の批判と橋下知事の再反論を12月16日の「NHK」インターネット記事≪橋下知事 文科相発言に再反論≫で見てみると、
塩谷文部科学大臣「過去に成績を序列化した際、成績の悪い人を休ませたり先生が答えを教えたりする事態が起きて失敗し、テストをやめた経緯を知らないのではないか」
橋下知事「大半の市町村別データを公表した大阪で過度な競争や序列化になっているか、大臣にはきちんと説明したいし、そういう問題は起きていないと思っている」
「かつてのまちがいを引きずったまま、何もやらないというのでは光は見えないが、大阪はそこを乗り越えようと取り組んでいる。今回の件では行政の諸悪の根源を見せつけられた」・・・・・
橋下知事は「大半の市町村別データを公表した大阪では過度な競争や序列化になっていないと思っている」と言っているが、全国の小学6年生と中学3年生約232万人を対象とした「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)が今回行われたのは08年4月22日、都道府県の順位と平均点を公表したのが08年8月29日。昭和30年代の学力テストで自治体間や学校間の競争が過熱した反省から、文部科学省は市町村別や学校別のランキングは公表せず、都道府県のデータ公表にとどめたという(「msn産経」)。
大阪府が成績を開示したのは2カ月前の10月16日、府内43市町村のうちの32市町で、公表について態度を決めていない11の自治体については非開示扱いしたと「毎日jp」記事(08年10月17日)が伝えている。
いわば府内43市町村のうち11市町村を残して32市町の自治体の成績を開示して2カ月経過したのみで、「過度な競争や序列化になっていないと思っている」と言っている。
その後府内すべての自治体で開示したのだろうか。だとしても、最初に一部公表した時点から、たった2カ月という時間経過に変りはない。
前回のテストですべての分野で平均正答率が41~45位と低迷した大阪府の成績に対して橋下徹知事は「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」と府教委を厳しく批判した(「msn産経」)ということだが、「このザマは何なんだ」と罵られたテストの点のみに関する教育無能力の責任は各市町村教委及び所属市町村立小・中学校に降りかかってくるわけで、なお且つ成績開示を受けた32市町村及び市町村立小・中学校の殆どは「このザマは何なんだ」を確認する開示でもあったろうから、その責任の回復(「このザマ」からの脱出)は来年の学力テスト成績で証明するしかないのは分かりきったことで、各市町村教委及び所属市町村立小・中学校は当然テストに出た問題の傾向を研究して、そのことに重点を置いたテストの点を上げ、順位を上げるためのテスト教育に力を注がざるを得なくなる。
そのキッカケをつくったのは文科省の都道府県別の順位と平均点の公表であり、橋下府知事の「このザマは何なんだ」であろう。
そして次回テストの成績公表を受けて、順位の上がり具合で学校・教委の責任がどの程度果すことができたか、果たせなかったかが判明する。大阪府教委が再び橋下府知事から「このザマは何なんだ」と罵られるかどうかも順位が決める。
順位が上がればさらに上の順位を目指し、順位が下がったなら、それ以上下がらないために力を注ぐ。教委・学校共に常に順位の圧力を受けることとなって、その強迫意識から順位を中心に学校教育が動く。責任の有無は順位が決定権を握ることとなる。
教育の目標が順位に向けられることになれば、当然の結果として学校教育は順位競争を自己目的化することになる。
塩谷文科相が言った、「過去に成績を序列化した際、成績の悪い人を休ませたり先生が答えを教えたりする事態が起きて失敗し」たという状況は自己目的化した順位競争を背景として起こる事態であって、そのことへの懸念であろう。
成績発表を受けて既にそれぞれの学校現場内では特別補習だ何だと順位を上げる、あるいは上位学校は順位を維持することのみを目標としたテストの成績底上げの授業が始まっているかもしれないが、学校間の「過度な競争や序列化」が表に現れるのは改めて順位を知ることになる1年後、さらに2年後であって、年を追うごとにそれが加速していった場合、学校教育が順位競争を自己目的化した泥沼ににっちもさっちもいかない状態ではまり込んでいることが疑いようもなく判明することになる。
それを都道府県別の順位公表から4カ月、府知事が府内43市町村のうちの32市町で市町村別の成績を開示してから2カ月しか経過していないにも関わらず、橋下府知事は「過度な競争や序列化」は起きていないと言う。自分自身がテストの成績の順位を都道府県間及び学校間の学力を計る基準とし、その順位を以って教委・学校の教育責任の基準とした以上、学校教育を順位を中心に動かしめ、順位競争の自己目的化に向けて既にムチを振るったことになるのだが、そのことに考え至らない客観的認識性を欠いた物言いはさすがだと言いたい。
大体が「バカ呼ばわり」は自己を絶対善と位置づけることによって成り立つ。08年10月28日投稿の当ブログ≪橋下府知事光市母子殺害弁護団懲戒請求に見る独裁者キャラ≫で次のように書いた。
<元々自信過剰の性格なのではないのか。それがタレントで人気を獲得し、その虚名で大阪府知事に若くして大量票を獲得して当選したが、実力だと思い込んだがために手に入れた府知事の権力を自らがつくり出したものとし簡単に自己をより絶対化させてしまった。マスコミがチヤホヤすることもあって、自信過剰が膨張し、自己の絶対性に大確信を持つに至った――自分自身を絶対的存在、絶対的正義の存在とするあまり、独裁的になっていることに気づかない。
自己を絶対化・正義化する人間は必然的に独裁化する。独裁性が主たる人格となる。何しろ自己は間違うことのない絶対的人間、正義の人間、王様だと看做しているのだから、自分のどのような判断も正しいということになるからだ。
自分のどのような判断も正しいということになれば、その絶対値に逆らう判断は橋下にとってはすべて排除すべき間違った主義主張となる。>・・・・・
最後の一節は次のように書き換え可能となる。
<自分のどのような判断も正しいということになれば、その絶対値に逆らう判断は橋下にとっては「バカ」ということになる。>・・・・・
今回実施(08年4月22日)の「学力テスト」の小学校の成績は一昨年の前回と同様に秋田県がすべてで1位を占めた。2年連続の小学校1位である。その秋田県が25日、一昨年と今年の全国学力テストの秋田県内の各市町村別平均正答率などのデータを公表した。
大阪府が情報公開請求に応じる形で市町村別のデータを一部公開しているが、県内すべての市町村のデータを公表したのは秋田県が全国で初めてだと25日夕方7時からの「NHKニュース」が伝えていた。
ニュースは先ず街の声を拾っていた。
女の子連れの若い母親「いいと思いますけれどもねえ。特別隠す必要もないし――」
中年男性「子供たちにあんまり差をつけちゃあいけないからね、あんまりそういうことをしない方がいいと思うな――」
30代後半(?)女性「学力を向上させるためには、ある程度いいと思う」
公表に踏み切った秋田県寺田知事「私は純粋に公表することはですね、エー、秋田県の教育向上につながると思って、そういう一途にものを考えて、公表させていただいています。公教育はプライバシーを除いて私は公開は基本だと思います」
公表に反対の教委の意見。
八峰町千葉良一教育長「まさか公表されるとは思っていなかったんで、そういう点ではちょっと、動揺しています。公表されたってことは非常に残念だなと、率直にそう思いますけども――」
秋田市高橋健一教育長「数字が一人歩きをするということを、大いに懸念をせざるを得ない。序列化や競争激化と、いうことで、教育現場に対してはいい影響を与えない。平均正答率の公表は、好ましくない、すべきではない――」
こういった反対の指摘に対する寺田知事の主張。
「子供たちにとって序列化、過度の競争とかってことについてですね、私はそれはないと思っています。他の市の良さ、よその学校の良さ、をですね、理解してですね、自分たちの教育の向上につなげることが私は、あのー、やるべき姿だと、思っていますが――」
「市町村別データを公表した大阪で過度な競争や序列化になっているか、そういう問題は起きていないと思っている」とする橋下府知事と同じ考え・同じ主張に立っている。確かに公表したくらいで「子供たちにとって序列化、過度の競争」はないかもしれないが、それが子供発ではなくても、全国学力テストの成績を各学校間の学力の指標とする以上(都道府県別順位の公表によって秋田県は小学校の成績で2年連続1位だと既に指標化を受け、なぜ1位なのかの分析が始まっている。)、親発、学校発のそれぞれに教育責任を負う立場もあってより上の指標に向けた成績欲求は抑え難く、「序列化・過度の競争」を必然化する可能性は限りなく大で、そうなった場合、子供も巻き込まれて当事者の立場に置かれることになるが、そうなるとは考えられないらしい。
何しろ教委にしても学校・教師にしても、また親にしても教育に向けた責任は子供のテスト能力を介したテストの成績で評価する基準をそもそもから設定済みで、自分の子供は自分の子供ですという態度を取れない裏返しなのだが、その基準を文部科学省が全国一斉の学力テストを行って都道府県別順位でその成績を公表することによって都道府県(=全国)に広域化した指標としてしまったのだから、少なくとも大学入学を迎えるまではそれぞれのクラス内、あるいは学校内で済んだ順位競争が全国を点取り合戦の戦場とすることとなり、そこに直接立たされる子供たちを「序列化・過度の競争」に否応もなしに巻き込まずには済むはずはない。
寺田知事の「他の市の良さ、よその学校の良さの理解」とは、成績順位の高い市、学校はどういう授業を行っていて、テストの成績向上にどう役に立っているかといったことに視点を置いた「良さ」であり、その範囲内の「理解」に成績公表が役立つと言っているに過ぎない。小学校2年連続1位の余裕からの態度でもあるだろうが。
大体が定期的なテストの成績で測る学力とは真の学力と言えるのだろうか。あるいは定期的なテストで生徒の学力のすべてを測ることができるのだろうか。学力とは学校の授業によって身につける知識だけではなく、社会が様々に伝える情報の中から自分のものとした知識を応用して新しい知識・情報へと向けて創造し、発展させる能力をこそ言うはずである。
だが、教師が与え育む学力はテストの回答に役立つだけのことにとどまっている。このことは経済協力開発機構(OECD)実施の国際学習到達度調査(PISA)といった国際テストで日本の生徒の読解力や思考力、文章表現能力の欠如が常に指摘されることが証明している。
与えられた知識を応用・発展させ、創造していく学力に欠けるとされているのである。文部科学省が12月22日に高校の新学習指導要領案を公表したが、12月23日付の「毎日jp」記事は、経済協力開発機構(OECD)が実施する国際学習到達度調査(PISA)で明らかとなった、日本の生徒は「覚えた知識を取り出す力はあっても、セオリーに当てはまらないひねった問題は苦手」という結果を示すこととなった成績が大きく影響した「思考力や表現力の養成を重視した」改定だと解説している。
「覚えた知識を取り出す力」と「思考力や表現力」の二つの能力を相互に相反する能力として把え、欠けているとする「思考力や表現力」により重要性を与える高校新学習指導要領案となっているとの指摘である。
「覚えた知識を取り出す力」とは知識を暗記したままの段階に踏みとどまらせていて、暗記したままの状態で活用する限定的な能力のことを言うはずである。暗記した知識をテストの設問に暗記したままの形で機械的に応用し、機械的に当てはめる能力は備えているが、新しい知識に向けて創造的に応用し、創造的に発展させるプロセスを欠いているがゆえに「思考力や表現力」に進化することもなく、その養成に重点を置かなければならないということであろう。
だからこそ小・中学校の全国一斉テストで基礎学力・基礎知識を問う「A」問題と読解力や思考力、文章表現能力等へと活用できているか否か、その活用力を問う「B」問題とに分けて試験を行い、より成績の劣る後者により重点を置くことになっている。
またゆとり教育の導入で授業時間を減らし、それに合わせて教科書を薄くした結果、学力の低下を招いたことにも、その学力が真の学力ではなく、機械的に植えつけた暗記学力であることを証明している。
譬えて言うと、5あった授業時間を3に減らした。それで学力が落ちたということは、1+1+1+1+1=5と1を機械的に5個積み上げる授業だったからであろう。3に減らした結果、1+1+1=3のやはり1を3個機械的に積み上げる授業しかできなかったことが逆に5-3=2の学力が落ちたということではないのか。
いわば1+1として与えた知識が生徒に考えさせ、発展させてイコール2にも3にも4にもなる構造の創造性を植えつける授業となっていたなら、授業時間が3に減っても、1+1+1=3が4にも5にも6にもなったろうから、5より落ちないはずである。
1を授業時間に合わせて単に機械的に積み上げていく授業形式の知識授受とはなぞることを基本原理とした暗記教育だからこそ可能となる。
文部科学省は22日に発表した高校の新学習指導要領案で英語の授業に関して基本的に英語で行うと規定し、「使えない英語」から「使える英語」へとの転換を図る方針を打ち出した。
中学、高校、大学と10年通して英語の授業を受けながら、殆どの生徒が「使えない英語」であったこと自体が発展への有機性を持たない、当然新たな創造に向かうことのない、単になぞってテストの回答で終わらせてきた学力に過ぎないことを物語っている。
このことは「使えない英語」だけの問題ではない。国語も社会も歴史も数学も知識がそれぞれの科目だけの暗記学力(=暗記知識)にとどまっていて、相互につなげ、応用と発展を経て創造的な学力・創造的な知識へと高まることがなく、いわば「使えない知識」となっているからこそ、「思考力や表現力」に欠けるという状況を招くこととなっている。
このことの分かりやすい証明として、元タレントの飯島愛(36)が東京都渋谷区のマンションで今月の24日に死因不明で死亡していたことから思い出したのだが、出演していたフジテレビ系番組「ウチくる!?」の飯島愛は芸能界引退のために2007年4月8日放送分を以って降板、NHK出身の久保純子(36)が後釜に坐ったが、機知、機転、アイロニー、ユーモアの点で飯島愛は久保純子を遥かに凌いでいた。
学校教育から得た学力という点では「Wikipedia」を参考にすると、久保純は小学校4年間をイギリス、高校時代をアメリカで過ごし、東京都立調布北高等学校入学後、ウィスコンシンの高校を経てニューヨークパイオニア・セントラル高校、上智大学比較文化学部比較文化学科を経て、慶應義塾大学文学部英米文学科卒業。1994年にNHKへ入局という経歴が示すようにホステス出身らしい飯島愛よりも遥かに上を行くだろうが、小・中学校、あるいは高校を通して(高校を卒業しているのだろうか)社会や周囲の人間が発信する情報から学び、それを発展させて自分の言葉(=自分の情報)へと応用し創造する学力の点では飯島愛の方が遥かに上回り、久保純子が自らの高い学歴に反して十分に「使える日本語」を駆使しているとは言えないのに対して、十分に「使える日本語」を話していた。
このことは私一人の感想ではなく、多くの視聴者、さらに番組スタッフが共有していた感想であろう。
飯島愛が降板するまでは中山秀正と二人でゲストを向かえてトークショーを繰広げていたが、久保純子が07年4月15日放送分から出演、その半年後の10月7日放送分よりお笑いタレントの青木さやか司会側に加わったと「Wikipedia」に書いてあるが(私は久保純子に代わって何回か観た後、殆ど観なくなった)、久保純子一人では飯島愛一人分の役を果たしていなかったことの措置からだろう。少なくとも飯島愛と同等、あるいはそれ以上の機知、機転、アイロニー、ユーモアを発揮して場を盛り上げ、視聴者を喜ばせていたなら、もう一人を必要としなかったはずだからである。
かくかように学力とは学校教育が与える知識を言うとは限らない。それが暗記学力に踏みとどまったままなら、学力とは似て非なるものに過ぎないだろう。
上記NHKニュースで街の声として母親たちが秋田県知事の成績の公表を「学力向上のためにはいい」と答えているが、その学力が単に暗記能力を試す学力――「覚えた知識を取り出す力」に踏みとどまった学力に過ぎないことに気づいていないことがそもそものボタンの掛け違いとなっている。
尤も暗記学力であっても、兎に角高校を出て大学に進学し、大学卒業後に成績に見合った会社に就職できれば問題はないとするなら話は別である。文部科学省はそれでいいかどうかの統計を取って、それでいいとする意見が多数を占めたなら、読解力に欠けるだの、思考力に欠けるだのはやめた方がいいかもしれない。
言われているところの学力が応用・発展させることができ、創造的な読解力や思考力、文章表現能力に結びつく学力であるなら、全国一斉・一律の試験で試す必要もそもそもからしてないだろう。試さずとも、生徒は教師のアドバイスを受けて自ら応用・発展させて、自らの知識を創造していくだろうから。
そのように仕向けた教育とはなっていないから、全国一斉・一律のテストが必要となる。
また、生徒たちの学力が全国的に統一的な暗記学力だからこそ、全国一斉テストが可能となる。もしそれぞれの学校がそれぞれに独自の教育を行ない、それぞれに独自性を持ち得ていたなら、一律性から離れるゆえに全国一斉学力テストでは学力は測ることができなくなる。
それが北は北海道から南は沖縄まで、簡単に一斉テストで一律的に測ることができる学力となっている。
いずれにしても大阪府の橋下知事や秋田県の寺田知事のように学力テストの各市町村別平均正答率データを公表するのが「過度な競争や序列化」を招くこととなる「バカ」な遣り方なの、「過度な競争や序列化」は丸っきりの杞憂に過ぎず、公表すべきでないとする文科省が「バカ」なのかどちらがバカであっても、どちらもバカであっても構わないが、先ずは文科省が全国学力テストの都道府県別成績を公表することでそれぞれの成績を都道府県単位の各学校間の学力の指標としてしまったパンドラの箱を開けてしまった以上、だから橋下府知事の「これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」の罵りがあるのだが、例え文科省が来年のテスト実施要領に「市町村別の成績は必要ないという都道府県教育委員会には特定のデータを提供しない」方針を確定したとしても、各学校共に“指標”から受ける学力向上の強迫意識に囚われて生徒をしてテストの成績底上げの尻を叩くことになるだろうから、ただでさえ日本の教育が暗記教育であることから欠いている生徒たちの自発的学びの姿勢を身につけさせる機会は限りなく期待不可能な獲得に向かうに違いない。
自発的学びとなっていないからこそ、日本の生徒の国際比較した場合の学習意欲が低い数値となって現れる。「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)」で分かったこととして、成績の良い国ほど勉強を面白くないと思う傾向にある(「YOMIURI ONLINE」)ということだが、勉強がテストの成績を上げるための強制的なものとなっている、あるいは自分からそう仕向けていることの証明ではないだろうか。
暗記教育は生徒が暗記することに忠実でありさえすれば、テストの成績は上がる。その機械性のみが必須条件となり、知識の創造的な応用も発展も活用も必要条件とはしない。