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有効期限切れ・賞味期限切れの古証文を持ち出すに過ぎない福田内閣衆院信任決議

2008-06-12 06:52:34 | Weblog

 昨11日の参院本会議で民主・社民・国民新3党提出の福田首相問責決議が共産党を含めた野党の賛成多数で可決された。総理大臣が問責決議を受けたのは憲法史上初めてのことだということだが、福田首相は名誉な勲章を受けたことになる。
 
 対抗して自公与党は昨日衆院本会議に福田内閣信任決議案を提出、今日の12日に与党絶対多数の頭数で可決させることで参院問責決議を差引勘定ゼロとし、福田内閣は信任されたとするらしい。

 社会の一員としての役目も果たさず、職場でも信頼されていない、存在すること自体が却って迷惑がられている大の男の子供が「うちのお父さんは偉いんだぞ」と子供にだけ信任されていて、それを唯一の証文として自己存在の維持を図るようなものだろう。

 相手が子供だから健気と言えるが、自公の与党は衆議院では3分の2の絶対多数を確保していると言えども、単なる頭数に成り果てているのだから、それを後ろ盾の証文とすること自体がおこがましい限りである。

 確かに2005年9月11日の郵政衆議院選挙では与党は3分の2以上の議席を獲得する信任、国民の「民意」を受けた。それ以降も小泉内閣は終盤経済上・生活上の、あるいは地理的な様々な格差が噴出して現在の社会的混乱の先駆けを演出したものの、引き続いて国民の支持を得てきた。だがバトンタッチした安倍内閣によって先代が築き上げた財産であったそれまでの国民の信任・「民意」を郵政造反組復党問題や年金記録問題、相次ぐ閣僚の不祥事、安倍晋三自身の国民の生活をないがしろにした国家主義的政策運営等でいたずらに食い潰し、2007年7月の参議院選挙で決定的に賞味期限切れ・有効期限切れの証文に変えてしまったのである。

 いわば小泉純一郎が「改革」をキャッチフコピーとした言葉巧みな悪徳商法で勧誘した国民の信任=「民意」は参議院選挙の与野党逆転で衆議院の国民の信任・「民意」は単に頭数だけを残した形だけの古証文そのものと化したのである。

 尤も国民の信任・「民意」を回復して政治運営の新たな証文を手に入れたというなら話は分かるが、安倍内閣を引き継いだ福田内閣の支持率がNHKの6月9日のニュースによると、最近は少し回復し先月より5ポイント上がったというものの、支持は26%で内閣維持の「危険水域」と言われる30%を割り込んだままであることが何よりも証明している参議院だけではなく、衆議院も含めた古証文となったままの自民党政治に対する「民意」、国民の信任であろう。 

 それを賞味期限切れ・有効期限切れとなった衆議院の古証文を持ち出して、国民の支持を失った福田内閣の信任決議を行う。

 滑稽であるばかりか、倒錯的変態行為としか言いようがない。にも関わらずそれを敢えて冒すのは「問責決議」が法的根拠がないというものの、野党の行為が「民意」を背景としていることに変わりはなく、頭から無視した態度を取れないからだろう。無視できない代わりに例え古証文となっていようと、「民意」に対する「民意」で対抗と言うわけである。 

 民主党・小沢一郎代表(記者会見で)「直近の選挙で過半数を与えられた野党が信任しないということだ。首相は重く受け止めなければならない」(≪首相問責決議を初可決 野党、新医療制度廃止求め≫47NEWS/ 2008/06/11 20:30【共同通信】)

 ごくごく当然のことを言っている。

 福田首相「(問責提案の理由を)一つ一つ重く受け止める」衆院解散については
「そういうことを今考えていない」(≪問責理由一つ一つ重く受け止める、衆院解散「今考えていない」=福田首相≫(ロイター/2008年 06月 11日 19:22 JST)

 町村官房長官は「参院がそういうことをするのは,政治的パフォーマンス以上の如何なる意味があるのか」(≪問責 視線は秋の攻防≫08.6.12/『朝日』朝刊)と言っているが、既に指摘しているように参議院選挙の野党勝利とそれ以降の福田内閣の低支持率=国民の不評が比較対照的に証明している野党に対する国民の信任・「民意」を背景とした参議院「問責決議」なのだから、決して意味のないことではない。意味がないとしたら、福田内閣支持率まで意味のないこととすることとなって、国民の政治に対する判断能力を疑ってかかることにもなり、国民を小バカにした態度と言うことになる。

 尤も国民を小バカにする態度は自民党政治家にとっては武士の習いで、慣れに慣れていることではあるだろうが。

 衆議院「福田内閣信任決議」こそが、賞味期限切れ・有効期限切れとなってメッキが剥がれてしまった古証文を後生大事に取り出し、それを唯一の金看板としている点で「政治的パフォーマンス以上の如何なる意味」もないとしなければならない。

 そのことに気づかない町村は官房長官として福田内閣の政治運営の要役にふさわしくない単細胞な政治家としか言いようがない。衆議院を解散して総選挙に打って出た場合の与野党逆転の敗北とその敗北によって政権を手放すことを恐れるあまりに正々堂々とした態度が取れないでいる。冬が去って春の季節となったのに穴に閉じこもったまま外の世界に打って出た場合の変化恐れて、そこから出ることができない図体ばかり大きな熊といったところだ。

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再びマスメディアは伝えるだけで終わるな/ミャンマー軍事政権の非人権行為

2008-06-10 04:34:42 | Weblog

 6月8日(08年)の読売インターネット記事が≪ミャンマー復興、軍政系企業が独占…被災者に強制労働懸念≫の見出しで次のように伝えていた。

 <【バンコク=田原徳容】ミャンマー軍事政権が、サイクロン被災地の“復興事業”を親軍政企業10社に請け負わせ、一部ですでに作業が始まっていることが7日分かった。

 軍政筋が明らかにした。軍政は各地の避難所を閉鎖し、強制的に被災地に帰した住民らを徴用して作業に当たらせる考えとみられ、国際社会からは、新たな懸念の声が上がっている。

 同筋によると、軍政は、エヤワディ・ヤンゴン両管区の被災地を10~30区画に分け、道路や学校、病院の再建や農地の整備などを行う復興事業を策定。軍政幹部の親族が経営する建設会社などに事業を独占的に受注させ、割り振ったという。事業資金には、支援国からの復興支援金が充当されるとみられる。

 軍政は国営メディアを通じ、「緊急支援は終了した。今は復興段階だ」と連日強調。情報省筋も、今回の“復興事業”について、「災害で職を失った国民に仕事を与える」としている。

 だが、軍政寄りの企業では低賃金での重労働などが常態化しており、国際労働機関(ILO)は「(軍政の言う)『復興段階』で、子供を含む強制労働が増加する恐れがある」と指摘している。>――――

 国際社会には復興支援に乗り出した当初から復興資金が軍政を利するとの警戒感があったことでもあるし、上記記事の内容は驚くに当たらない実態であろう。殆どの軍事独裁政権が国民に対する自由の束縛、精神的のみならず物理的虐待を基本的手段として国民から搾取・独占した富を力に国家権力を存立させていることを常態としているからである。既に北朝鮮という先生が身近に存在し、独裁政権はかくあるべしの数々の模範演技を示してくれてもいる。

 問題はかつてはミャンマーに対する最大の援助国であった日本の対ミャンマーODA(政府開発援助)やその他の経済支援及び外交政策(政治支援)がミャンマーの民主化に何ら役に立たず、逆に軍事政権が今なお国民を虐待し、搾取することができる権構造の維持、独裁権力の延命に役立ってきたことを物語る実態提示であり、日本政府がそのことを強く認識しているかどうかである。

 勿論のこと認識しているだろうし、認識していなければならない。道路政策でムダな要素の存在を認識していなかったために、ムダな道路や必要規模以上の過剰規模の道路を造り続ける歴史を積み重ね、そういった経緯を道路政策に於ける伝統・文化としてきてしまったが、道路建設側は最近になってやっと「ムダの存在」を認識するようになった。尤も国民の手前演じて見せている認識に過ぎない疑いが濃厚ではある。

 マスメディアは情報の伝達者としての使命のみならず、権力の監視者としての使命を果たすためにも単に情報を伝えるだけではなく、記者会見等の機会を把えて、どう認識しているか、そのことの確認を行うべきだろう。

 ミャンマー軍政はサイクロン復興に関する事業を「軍政幹部の親族が経営する建設会社などに独占的に受注させ、割り振」り、「災害で職を失った国民に仕事を与える」という名目で「子供を含む強制労働が増加する恐れがある」とする情報が存在するが、このことは日本のこれまでの対ミャンマー援助がミャンマーの民主化に何ら役に立っていなかったばかりか、逆に軍政の独裁権力の維持・強化にのみ役立ってきた実態を示す光景だと思うが、政府はこのことをどれほど認識しているのか。

 あるいは政府はこういった情報を既に認識していて在ミャンマー日本大使館やその他の機関を通して実態確認・事実確認に動いていると思うが、国民を搾取することに当たる軍政系企業での「低賃金での重労働など」「常態化」がどの程度のものなのか、その深刻度をどの程度把握しているのかを問い質して、国民に知らしめるための社会的情報とすべきだろう。

 国民の税金等を原資とした国家予算がミャンマーに関しては経済援助の形を取って何に役立っているか政府は説明責任を負うはずだし、その説明を引き出し、国民に知らせる情報媒体としての役目をマスメディアは負っているはずである。経済支援がミャンマーの民主化に何ら役に立たず、却ってミャンマー軍事政権の独裁権力維持・強化に役立っているという逆説的且つ倒錯的事実を日本国民は常に問題にしなければならず、そのための情報をマスメディアは提供すべきだからであるが、実際は現地の情報を伝えるだけで終わっている。

 また、日本の経済支援がミャンマー民主化に何ら役に立たず、軍政の独裁権力維持・強化にのみ役立っているという実態・事実は日本の対ミャンマー外交政策の失敗を示すもので、失敗に対するその責任は歴代首相と歴代外相が負うべきもので、マスメディア及び国民は両者の責任を追及しなければならない。

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ミャンマー軍事政権コメディアン拘束報道/マスメディアは日本政府に傍観させるな

2008-06-08 06:22:37 | Weblog

 7日土曜日朝早くニュース検索サイト「グーグル」を検索していたら、ミャンマーで被災者支援を行っていた人気コメディアンが軍事政権に拘束されたことを伝えるマスコミ3社の報道見出しを載せていた。
 
 「CNN」は2008年06月06日14時21分のアップロード記事。 「asahi.com」は2008年06月05日20時21分。「Msn産経」は2008年6月6日00時46分。3社ともそれぞれに所属する記者たちはこの情報を6月6日の日中には共有していたはずだし、共有していなければならなかったはずである。例え部署を違えていても、世の中の動きを知るために自分たちの報道部門がどのようなニュースを流したか知っておくべきだろう。

 またマスメディア全体の使命からしたら、いつ・どこで・何があったか、事実をただ伝えるだけではその使命は全うしたとは言えないはずである。全うしたとするなら、「権力の監視」の役目を担うことにもなる社説やコラムでミャンマー、その他の人権抑圧国家に対してその権性を批判したり非難したり、あるいは民主化を求める主張を展開する必要は生じないことになり、実際にはしていることと矛盾することになる。

 いわば新聞・テレビはいつ・どこで・何があったか事実を伝える以上のことをして、初めてその使命を果たすことができる。

 だが、上記マスコミ3社はミャンマー軍事政権が人気コメディアンを拘束した事実を記事にした以上のことをしていないようである。

 では、何をすべきだったのか。予め3社の記事を引用しておく。

 ≪ミャンマー軍政、被災地支援活動のコメディアンを拘束≫CNN/2008.06.06 Web posted at: 14:21 JST Updated - AP)

 <ヤンゴン(AP) ミャンマー(ビルマ)でサイクロン被災地の支援活動に取り組んでいた人気コメディアンのザルガナル(本名・マウン・トゥラ)さん(46)が4日夜、ヤンゴン市内の自宅で軍事政権に拘束されたことが分かった。ザルガナルさんは今週、英BBCなど複数の外国メディアとのインタビューで、軍政に批判的な姿勢を示していた。

 家族らによると、ザルガナルさんは最大被災地のイラワジ川下流地域に救援物資を届け、自宅に戻ったばかりだった。警察が自宅を捜索したうえで、本人を連行したという。

 ザルナガルさんは最近、タイの情報誌「イラワジ」とのインタビューで、ミャンマー国内の芸能人ら400人以上とともに、被災者支援のボランティアとして活動していると語った。メンバーは現地訪問を繰り返し、被災者に食料や毛布、蚊帳などを配布。ザルナガルさんは「一部地域にはどこからも救援の手が届いていない」「現地で軍政側と対立することもある」などと話していた。

 軍政は先月末、被災地への外国人の立ち入りを許可すると表明したが、その後も事実上、立ち入り制限は続いている。国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによれば、一部の被災地では住民が食料と引き換えに労働を強制されたり、軍政側が救援物資を差し押さえたりするケースが報告されている。

 ザルガナルさんは、これまでも軍政への批判的言動で注目を集めてきた。不法な政治活動を行ったなどとして、88年以来少なくとも3回拘束されている。昨年9月には、反政府デモに参加した僧侶に食料を提供したとして、3週間拘束された。
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 ≪軍政、被災者支援の人気コメディアン拘束 ミャンマー≫asahi.com/2008年06月05日20時21分)

 <【バンコク=山本大輔】国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは5日、バンコクで会見し、ミャンマー(ビルマ)でサイクロンの被災者支援にあたっていた同国の国民的な人気コメディアンのザガナル氏が軍事政権に拘束されたと発表した。

 ザガナル氏は5月7日から被災者への援助活動を始め、タイに拠点を置く情報誌を通じて「援助活動は全く行き届いていない」などと被災地の現状を報告していた。

 アムネスティなどによると、ザガナル氏は4日夜、ヤンゴンの自宅で当局に拘束され、サイクロン被災地を映したCDなどが押収された。同氏は昨年9月にも反政府デモで僧侶らを激励したとして3週間拘束されている。

 アムネスティは5日、ヤンゴンで被災者に食料を配っていた有名俳優のチョー・トゥ氏が、無許可の支援活動をやめるよう軍政関係者にナイフで脅かされ、一緒にいたカメラマンが拘束されたことも発表した。 >
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 ≪被災支援の喜劇俳優を拘束 ミャンマー軍政≫Msn産経/2008.6.6 00:46 )

 <ミャンマー軍事政権は4日、同国の人気男性喜劇俳優ザルガナールさんを拘束した。家族が5日、明らかにした。軍政は拘束の理由を示していないが、サイクロンの被害が大きかった地域で個人的に被災者支援活動を行い、その様子を映像に収めていたことを「個人の宣伝目的の支援」と判断した可能性が高い。

 ザルガナールさんは軍政に批判的で、昨年9月に軍政が反政府デモを武力鎮圧した際、抗議行動に参加した僧侶に仲間の俳優らとともに食べ物や水を提供、3週間拘束されていた。(共同)>
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 3社はサイクロン被災者救援の人道支援を行い、軍事政権の彼らに対する対応を批判し、昨年9月の反政府デモ僧侶を激励までしていた人気コメディアンのミャンマー軍事政権による拘束の事実を伝えた。繰返し言うことになるが、それだけで終わっている。

 軍事政権はこの権行為に対して外国政府が何らメッセージを発しなかったなら、
何ら関心を払わなかったと看做し、結果的には軍事政権に対して無事遣り過ごさせ、見て見ぬ振りの免罪の機会を与えることになるだろう。このことは黙認と同じ経緯を踏むことにならないだろうか。

 同じ権行為であるいじめに対して自らを傍観者の立場に置き見て見ぬふりをした場合、結果的には黙認したと同じ行為となるのと同列のことだからである。

 外国政府が何らメッセージを発しないことによって生み出されることとなる黙認・免罪の付与は軍事政権の権行為の肯定、もしくは正当化につながっていくに違いない。担任教師がいじめに気づいていながら、いじめ生徒に対して何らメッセージを発せずに見て見ぬ振りをしたなら、いじめ生徒自身の中でいじめは正当化され、いじめ生徒はどのような制約も受けずにいじめを展開することが可能となる。と言うことは担任生徒は見て見ぬ振りをすることで間接的にいじめ生徒のいじめを正当化させたことになる。

 外国政府が自ら何らメッセージを発しないということなら、ミャンマー軍事政権の権行為を正当化させないためにも記事を伝えたマスメディアが自らの使命としてメッセージを発せさせるべきで、そうすることもニュースを伝える者の使命ではないだろうか。記者会見でのマスメディアの側からの質問はそのことのためにもあるはずである。質問し、メッセージを発せさることで国民、あるいは質問対象の当事国政府に外国政府がどのような態度を示しているか、どのような考えを持ったか、あるいはどのような評価・判定を下したか直接知らしめ伝え、正当化させない制約(=ブレーキ)の役目を持たせる。

 そこまでしなくてもいいというなら、発生した事実を記事にすることだけではなく、社説やコラムで批判したり非難したりすることは自分たちマスメディアの問題とのみ限定した活動となり、情報媒体としてのその社会性と矛盾することになる。

 日本政府はミャンマー軍事政権の権行為に対して批判し、民主化要求までしているのである。福田首相は昨07年11月の東アジアサミットでミャンマーのテイン・セイン首相と会談しミャンマーの民主化の進展を直接的に求めている。

 高村外相も同じ東アジアサミットでミャンマーの外相と会談し、同じく民主化要求を行い、他の様々な機会を把えて発しているメッセージを通して同じ要求を行っている。

 町村官房長官にしても記者会見で「日本は随時申し上げているが、ミャンマーの民主化とか人権の状況、大変強い懸念をもっていることは外務大臣ベースでもお伝え申し上げているし、国際会議でそういうことは申し上げて、国連の場などでも申し上げているところでございます。したがって、今後、引き続きミャンマー政府に働きかけていく。その一環として、藪中外務審議官も行っているということでございますから、また、今後いろいろな国際機関などの場での議論も進んでいくであろうと思いますから、そうした結果を踏まえながら、強い措置を含めてさまざまな方策について考えたいと思います」(≪ミャンマーにカメラ返還確認求める 町村官房長官会見詳細)MSN産経/2007.10.1 11:39 )と同じ立場を示している

 さらに言えば、昨年のミャンマー民主化要求デモに対する軍事政権の武力弾圧の際、取締り官憲が日本人映像ジャーナリスト長井健司氏を巻き込み銃撃死させている未解決問題も日本政府は解決する責任を負っている。

 上記3社だけではなく、如何なるマスメディアもミャンマー軍事政権の人気コメディアン逮捕に関して福田首相や高村外相、さらに町村官房長官に記者会見の場を利用して質問し、軍事政権のそのような権行為に関して、民主化要求しているのだから当然批判することになる、あるいは遅々として進まない民主化に苛立って非難することになる何らかのメッセージを発せさせたという記事・ニュースに出会わないから、事実を記事で伝えた止まりで済ませてしまったのだろう。

 このことは福田首相や高村外相、町村官房長官ら政府の人間をミャンマー軍事政権の権行為に対して結果として傍観者の立場に立つことを許し、福田や高村、町村をしてミャンマー軍事政権に見て見ぬ振りの免罪の機会を与えたことになるばかりか、マスメディア自身も権行為の事実を記事で伝えたものの、そのことに対する日本政府要人のメッセージを引き出さなかったことによって、例え社説やコラム、その他でそのことを批判したり非難したりしたとしても、日本政府の傍観を許し、見て見ぬ振りの免罪の機会を与え、結果的に黙認させたことに変わりはなく、その点で自分で自分たちをミャンマー軍事政権の権行為に対する傍観の共助者、あるいは共犯者に仕立てたことにならないだろうか。情報媒体としてのその社会性を一部欠いたことになる。

 社説やコラムで人気コメディアンの不当な拘束を批判したり非難したりして自らのみを傍観者に立たしめない部分的完結で済ますのではなく、何よりも福田や高村、町村といった政府要人を傍観者で終わらせない非傍観の普遍化を心がけることも、このことは国民に対しても言えることだが、自らが社会的使命としている情報伝達と権力の監視(監視は内外の権力にまで範囲を広げているはずである)、あるいは世論の喚起に添うことになるはずである。

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アフリカ問題を考える/水パイプラインが水不足解決策にならないだろうか

2008-06-06 11:48:15 | Weblog

 5月28日のNHK「クローズアップ現代」≪アフリカ“自立の力”を引き出せ≫と題してアフリカ問題を扱っていた。5月8日から5月30日まで横浜市で開催された第4回アフリカ開発会議(TICAD4)に合わせた企画なのは番組の中で「今日から横浜で開催されるアフリカ開発会議では国際社会の支援を実際の貧困解消にどう結びつけるか、そのための仕組みをどう打ち出していけるかが問われている」と解説していることからも分かる。

 テーマは「如何に貧困を撲滅するか」に置いているが、石油資源や鉱物資源の開発とその価格の高騰で急激に経済発展を遂げている国がありながら、その富の配分が偏って却って経済格差が広がり、アフリカ人口の増加の中で貧困人口も増加していることを取り上げている。

 これはガバナンスの問題だが、アフリカ第2位の石油産出量を誇り、石油高騰の恩恵を受けて(政府歳入の90%がオイルマネー)07年の経済成長率は21%を記録というふうに急激な経済成長を遂げ、「スーパーリッチ」と呼ばれる富裕層を生み出しているにも関わらずその恩恵が貧困層に全く届いていなくて国民の70%もが貧困生活を強いられているアンゴラの財務大臣は「労働人口の殆どが技術を身につけていないという事実を我々政府は向き合う必要があると考えている」などと他人事のように言っている。

 「~する必要がある」とはこれからの課題を示す未来形の言い方であって、現在真剣に取組んでいるという進行形とはなっていない。自分自身、取組みの遅いことに気づいていないのは自民党政府の閣僚と同じく国民の貧困をまともに視野に入れていないからだろう。

 首都ルワンダは空前の建設ラッシュに沸いているということだが、中国に油田開発権を売り渡して得た日本円で総額5000億円を超える資金は政府施設や道路の建設に主としてまわされていると番組は紹介しているが、この事実こそ国民の貧困をまともに視野に入れていない証拠となる。

 視野に入れていたなら、石油採決権譲渡で得た資金だけではなく、中国の資源狙いの援助資金や投資も人材育成に何ほどかまわしていただろうから、「向き合う必要がある」などと将来的な課題として把えることはなかったろう。

 ラッシュの建設現場で働いている中国人労働者とダンプの荷台に建設現場に向かうのだろう、スシ詰め状態で乗り込んでいるヘルメットをかぶった中国人労働者の映像を見せていたが、その映像と共に建設現場では中国人労働者が目立つこと、資材も中国から持ち込まれていること、そのことがアンゴラ人の雇用拡大や格差是正につながっていないこと、アンゴラの市民団体代表が「折角の巨額の援助や投資なのですから、本来なら私たちアンゴラ人への技術移転を進め、雇用の創出につなげるべきです」とつながっていないことを訴えていたことなどを伝えていたが、やはりアンゴラ政府が日本の自民党政府同様に国家のみを視野に入れ、国民を視野に入れていないことの間違いない証拠となる。

 貧困層の直接支援はNGO任せで、そのNGO自体が資金難に陥っている窮状にあるということだが、従来の各国のODAが援助対象政府どまりで、農村等の貧困現場まで直接届いていない状況を示している。その教訓・反動から、「欧米では政府を介さずに貧困層に直接働きかけて貧しい人々の経済的自立を目指そうという取組みを行っている」と解説していたが、これも遅すぎる取り掛かりに思える。
 
 番組の後半は貧しい地方に直接入って農家の自立を図る取組みをしているオランダ人やアメリカに本部を置くNPOの成功している活動を取り上げていたが、アフリカ人口の70%が農業人口で、その多くが水不足で満足な農業ができないでいるということ、その延長にある食糧不足と貧困の蔓延といった現状を考えると、自立成功物語は一部にとどまっていることを示している。

 2007年4月9日(月)「しんぶん赤旗」が≪温暖化の影響に警鐘乱打 異常気象・水不足・飢餓広がる IPCC報告≫
で<2020年までに7500万人から2億5千万人が水不足に直面。農業生産は多くの国で危機的な状況になり、幾つかの国で降雨に頼る農業は2020年までに生産が50%に落ちます。アフリカは気候変動に対し最も脆弱(ぜいじゃく)な大陸です。>と伝えているアフリカ。

 70%が農業に従事していて、その多くが水不足に悩み、その結果の食糧不足・貧困ということなら、何よりも優先的に取組まなければならない問題は水不足解消なのは誰の目にも明らかな事実で、NGOの民間団体だけではなく各国政府も井戸掘りその他の水問題に資金援助と共に人材を派遣しているが、横浜市でのアフリカ開発会議(TICAD4)でも「地下水開発」、「水不足対策」を取り上げているところを見ると、これまでの事業が根本的解決に至る抜本的な方策とはなっていないことを示している。

 日付が記入してないから、何年何月何日の記事か分からないが、≪国際水域分野に関するプロジェクト事例 - 水による紛争の防止≫なるHPに<ナイル川流域での協力 10カ国の間を流れる全長7000キロ余りのナイル川は、豊かな文化と歴史をもつ世界でも有数の偉大な自然資源として認識されており、「生命の川」とも言われています。しかし、人口が急増するこの半乾燥地帯では、ナイル川の水に対する需要が高くなる一方、流域諸国ではこうした人口急増への対策がかならずしも優先されていません。

ナイル川の水が干上がった310万平方キロもの土地には、世界の最貧国10ヵ国のうちの6ヵ国が位置しています。最貧困国の大半は、土地と水資源に依存して生計を立てています。ナイル川一帯の流域諸国が水を協同管理すれば、経済面、環境面で国境を越えた大幅な利益がもたらされることは確実です。>という一文が記入されている。

 ≪青ナイル川流域の水文GIS≫(GIS=地理情報システム)というHPによるとナイルの水を最も多く利用しているのはエジプトで、次はスーダンだということだが、ナイルの水資源利用に関しても格差が生じていて、「6ヵ国」が水不足と貧困に喘ぎ、それらの国々も人口増加の例に漏れず、悪条件に拍車をかけている現状にある。

 上記HPは次のことも伝えている。<ナイル川の水利用については1929年のナイル水協定で取り決められたが、エジプトの年間480億m3に対してスーダンは40億m3の利用が認められたに過ぎなかった。残りの320億m3は未配分となった。59年の協定ではエジプトへの555億m3の配分に対し、スーダンには185億m3となったが、他の流域国はこの協定には含まれなかった。

 流域各国の人口増加と食料増産その他による水利用の増大は、今後の水紛争の火種となっている。そのため、流域各国は相互利益をもたらす協調的な開発の必要性を認識して、Nile Basin Initiative(ナイル流域先導会議)の設立へと歴史的な歩みを始めた。そして1999年2月に上記流域10カ国の水関係大臣協議会によって、公式に発足し、同地域の貧困との戦いと社会経済的発展のための、ナイル川水資源の有効活用による流域全体としての取り組みを始めた。>――――

 水不足に悩むナイル流域最貧国という倒錯的且つ逆説的状況の解決方法は効率よくナイルの水を配分することだが、送水方法は水路を設けるか、石油パイプラインのようにパイプをつなぐ方法が考えられる。水路建設は地面を間断なく掘削していかなければならない分カネと時間がかかるということなら、等間隔に支柱部分を掘削し土台となるコンクリートを打設するだけで済む水パイプライン方式がいいということになるが、別にステンレス等の金属製ではなく内径1メートル前後のコンクリート製のヒューム管をつないでいっても用を足せる。

 だが、ナイル流域国だけが水不足が解消してもアフリカ問題の抜本的解決にはならないわけで、ヒューム管仕様の水パイプライン方式を水不足に悩むアフリカ全土に応用しなければならない。これは可能な方法だろか。

 あるいは既にパイプライン方式で水資源の配分を行っている国があるのだろうかと思ってインターネットを検索すると、≪ミツカン水の文化センター 水はただではないという文化≫というHPに「トルコの水商売」の小見出しで、トルコが自国の水量豊富な河川からパイプラインをアラブ諸国まで引いて、その水を有料で提供しようと計画を立てアラブ諸国に打診したところ、一旦その水に頼った場合、政治的関係の悪化や値段の高騰等の理由で死命を制約される問題点が存在することから、この「ピースパイプライン」と名づけた「アラブ諸国への水供給プロジェクト」は立ち消えとなったという話を紹介している。「ピースパイプライン」が常に「ピース」を保障するとは限らないというわけである。

 記事は<「水は喉から手が出るほど欲しいし、供給は技術的・経済的にも実現可能だけれど、政治的にみて、水の安全保障という観点からはお断りします」という結果になりました。>と書いている。

 「技術的・経済的にも実現可能>ではあるが政治的には問題点があるという欠点をクリアするためにはパイプライン方式による「水供給プロジェクト」を一国の経営ではなく、国際社会共同の経営にしてはどうだろうか。

 水資源供給国の資本を49%までとし、残りの51%は先進各国政府の資金が分担する。水資源供給国の必要資金は先進国の30年~50年の長期低利の融資によって賄い、水を売った利益の49%の配当分から返済していく。先進国は融資金のすべて、もしくは一部分を内外の私営企業の投資によって賄う。

 問題が生じた場合は株主である水資源供給国共々各国政府代表が一つテーブルを囲み、話し合いで相互の利益に適う解決策を探る。

 水を買う方は国民個人が買うのではなく、供給を受ける各国政府が政府予算で買い付け、国民には無料で提供することとする。

 また水資源は河川や湖、あるいはキリマンジャロの雪解け水が浸み込んだ地下水等のみを利用するのではなく、資源は枯渇するという認識のもと雨量の減少等を原因とした水位低下に備えて臨海各国に海水を真水に変えるより大きな海水淡水化装置を設置し、それをパイプラインで水不足地域に送水する先進国融資のプロジェクトを立ち上げて、供給源を多角化する必要もあるのではないだろうか。

 各地域にヒューム管のパイプラインを設置した後、各村のメイン広場まで最小限、柔軟性があって工事が簡単な水道用PP管(ポリプロピレン管)を地下に埋設して水道を立ち上げ、各家庭がそこからバケツ等で蛇口をひねって必要なだけ水を確保することにすれば、水汲みの負担も軽減され、農業にもより簡単に利用できるはずである。

 道路とか政府施設といったインフラは必要不可欠ではあっても、まずは底辺で生活する国民の貧困解消を優先課題とすべきで、あちこちに井戸を掘るといったこまごまとしたことよりも、思い切って水パイプラインを張り巡らした方が国家権力による「国民保護の責任」も果たせて抜本的解決になると思うのだが、素人考えに過ぎないだろうか。

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後部座席シートベルト着用義務化に反対

2008-06-04 05:29:18 | Weblog

 従順な国民養成を一環とする一種のファシズム――全体主義とならないか

 08年6月1日より「改正道路交通法」が施行。車両後部座席でのシートベルト着用が義務化された。一般道路での違反は注意のみだが、高速道路や自動車専用道路での未 
着用違反は「行政処分点数」が一点減点の罰則付きとなる

 対象は自家用自動車のみではなく、タクシーや観光バスまで含まれるというが、タクシーの場合は注意が行き届くが、観光バスの場合は常に車内全体に向けていなければならなくなって、ガイドの負担が増えることになるに違いない。社内旅行などで酒に酔った元気でやたらと席を立ち上がって同僚に話しかけて回る人間が席に戻るたびにシートベルトをきちんとかけるとは考えにくいから、ガイドがうるさく注意した場合、トラブル発生といったことも起こり得る。「二度とお前の会社なんかに頼むもんか」と。

 だが、自家用車、タクシー、観光バス等の各後部座席に乗る子供から大人まで、男女老若関係なしに、最終的に誰からの注意を受けるまでもなく車に乗ると同時に一人残らず自分からシートベルトを締め、車を降りるまで一人残らずシートベルトを締めたままの状態でいる姿を想像した場合、それは空恐ろしい光景とはならないだろうか。誰一人何も文句を言わずに判を押したようにすべてが黙々と同じ姿勢を取ることになるのである。

 このことは後部座席に乗る者の安全を守るというもっともらしい名目はあるものの、警察権力によって同じ姿を取らせることで国民個々の自発的個人性の管理・統率を謀ってそれら自発的個人性を剥奪・喪失させ、全体性(同じ姿)へと意識を向かわせようとする一種のファシズム――全体主義とはならないだろうか。

 そういった従順な姿に統率し、それ以外の姿の去勢である。

 元々権威主義を行動様式として上は下を従わせ、下は上に従う動員社会の日本である。運転席と助手席でのシートベルト着用も同じだが、後部座席共々取締りや罰則によって誰に対してもシートベルトを着用する姿へと持っていく訓練の過程を経て最終的には国民を言うことを聞く同じ従順な存在へと仕立てる動員意識がそこに作動しているように思えてならない。例え意図していなくても自然に下を従わせる権威主義の行動様式に促されて。

 こういった勘繰りが大袈裟な的外れの穿ち過ぎ、悪意な解釈であったとしても、少なくとも個人の自発性を奪い、自発性を抑圧する訓練とはなり得るはずである。人殺しや強盗といった第三者に迷惑・被害を与える犯罪ではない。法律の形を取った命令に従うことに慣れさせ一つの鋳型(一つの姿形)にはめることで、はめられた側の自発的存在性の否定を型取っていく。シートベルトで自らを抑えつける構図が最もよく自発性の抑圧を象徴する絵柄ともなる。

 例えば自分の家と用事のある家が同じ道路の側にある場合、そこに直接歩いて向かうには左側通行となって歩行者は右側通行の原則に反するからと、目的の家とは反対方向に一旦右側通行を取って横断歩道のある場所まで歩き、その横断歩道を渡って反対側の道路を右側通行で後戻りして目的の家を通り過ぎた横断歩道まで進み、その横断歩道を渡って右側通行を取ると、いわばぐるっと遠回りに一回りすることで歩行者は右側通行の原則に反することなく目的の家に到達できる。

 だが、遠回りになったとしても、誰に危害を加えるものでもないにも関わらずこのような歩行者は右側通行の原則をすべての国民が守って同じ姿を取るとしたら、人間の自然の行動に反して誰もが規則で動く人間と化す。そうなったとしたら、やはり空恐ろしい光景となるだろう。

 幸いなことに道路交通法は歩行者は右側通行の原則を掲げつつも、さまざまな例外規定を用いて人間の自然な行動を妨げない配慮を示している。それは人間の自然な行動に照らして、それを法律に反映させたもので、法律によって人間の自然な行動をつくり出したわけではないはずである。人間の自然な行動とは自発性を大きな要因とする。

 それゆえに例えそれが法律であっても、社会的な秩序を乱すわけではない人間の自然な行動を奪い、自発性を抑圧する規則の絶対的強制は一種のファシズム――全体主義と化す。

 意図しない動員意識が働いた一種のファシズム――全体主義ではないかと言ったが、多分そのことに薄々気づいているから、一般道路での未着用に対して罰則を設けることができないのだろう。但し「一般道では今秋まで指導期間として罰則は適用されない」と「毎日jp」(引用後出)記事が伝えているから、ゆくゆくはファシズム(全体主義)が作動することを無視するということではないか。

 同じ「毎日jp」記事が「妊婦やけが人は着用義務はない」としているが、シートベルトをせずに車の外の振り出されて母子もとに死亡するか、それとも締めたシートベルトに圧迫されて胎児は死亡しても、シートベルトのお陰で母親は助かるるケースもあり得ることを考えた場合、矛盾した規定となる。

 確率から言ってまずあり得ないということなら、常に確率を免れる者も存在するはずで、それが誰か分からなくても、そのことを無視してすべての人間に着用を義務付けるのはやはり一種のファシズム――全体主義に当たるだろう。

 例えそうではなくても、後部座席でのベルト未着用で事故が起きた場合の死亡率は着用時の3倍になるといった統計をもとに法律によってシートベルト着用を義務化するのは事故を前提とした自発性の抑圧を意図するものであることは間違いがないことで、それ以前の問題として事故を前提としない安全運転に期待してこそ、自発性を損なわずに済むのではないだろうか。

 第三者による、特に警察権力といった上からの力による自発性の抑圧によってではなく、個々人の自発性に責任を持たせる事故対策である。

 例えば血圧や尿検査、その他の診断値が一定基準を満たす健康状態にある場合に適用され保険料が割り引かれる「優良体保険料率」制度、非喫煙者の場合はさらに保険料が割引れる「非喫煙者優良体保険料率」制度は個々人の自発性と自己責任に期待し、依存した制度であって、誰の強制が働いているわけではない。

 それと同じようにシートベルト着用に於いても、事故が起きて負傷する、あるいは死亡した場合、シートベルトをしていなかった者は受け取る保険金が割り引かれる制度にしたら、法律によって個々人の自発性を抑圧する権威主義を抹消して、逆に自発性と自己責任に期待し、依存する制度とすることができる。

 このような制度にすることで、シートベルト着用義務化が権威主義的行動様式を受けた国家権力による国民支配の一環としての一種のファシズム――全体主義ではないかといった疑いを持たせることからも距離を置かせことができる。警察はどのような疑い、勘繰りからも青天白日を確実にモノにすることができる。

 大体が経済は風が吹けば桶屋が儲かる式に相互性を原理とし、相互的に循環している。死者が出れば葬儀社が儲かるし、寺も葬儀で潤う。病院も利益が出る。警察官の仕事もできる。警察官が事故がなくなって給料を貰ってばかり、暇を持て余すでは困る。雇用の問題にも関わってくるから、事故が減ったなら、警察官の頭数を単純・即座に減らせば済むという問題でもないだろう。

 もし親が交通事故死で子供を交通遺児にしたくなかったなら、あるいは若者が交通事故死して親を悲しませるようなことをしたくなかったなら、常に安全運伝を心がけることである。シートベルトしていなくても、安全運転に終始していたなら、たいした事故を起こすことはないだろう。但し他人が運転する車から事故を貰った場合、防ぎようがないことで、事故を与えた者を厳しく罰するしか手はない。滅多にないことだが、貰った事故でシートベルトをしていない場合は車の外に放り投げられる恐れがあると考えるなら、自分からシートベルトを締めればいい。すべて自発的行為とすべきだと思うが。―― 


 改正道交法:後部座席シートベルト、きょうから着用義務 /長崎(毎日jp/2008年6月1日 地方版)

 車の後部座席のシートベルト着用や75歳以上が運転する車に「高齢運転者標識(もみじマーク)」表示を義務付ける改正道交法が1日から施行される。
 警察庁と日本自動車連盟(JAF)による昨年10月の調査では、県内のシートベルト着用率は一般道(98・9%)、高速道(99・9%)とも全国1位。しかし、後部座席の着用率は8・2%で、全国平均(一般道8・8%)を下回った。

 着用義務化の背景には事故時の死亡・負傷率の高さがある。後部座席の人が負傷した07年の県内事故で、シートベルト着用者は173人だったが、非着用者は849人で、約5倍に跳ね上がった。

 県警交通企画課は「後部座席と言っても安全ではない。被害軽減のためきちんと締めて」と呼びかける。

 違反すると、行政処分の点数1点が運転者に科される。一般道では今秋まで指導期間として罰則は適用されないが、高速道路は1日から適用される。妊婦やけが人は着用義務はない。もみじマークの表示義務違反は、違反金4000円と行政処分の点数1点が科されるが、指導期間の1年間は罰則適用はない。

 ◇タクシー、バス、心配の声も

 改正で最も影響を受けるのはタクシーや高速バス。長崎県営バスは、高速バス運転席の上にステッカーを張り、利用客が乗るたびに「着用お願い」アナウンスを流し、周知に躍起だ。長崎市内のタクシー運転手(53)は「客が酔っぱらいだと、絡まれることもあるので着用を呼び掛けにくい」と渋い表情だった。【阿部弘賢】〔長崎版〕

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日本民族優越性と共に読み解く水泳の記録を決める水着の性能

2008-06-02 05:46:01 | Weblog

 英スピード社製水着着用選手の記録ラッシュ以来、水着騒動が持ち上がっている。5月30日の夜のNHKニュースは「今年生まれた世界新40のうち、37がスピード社製着用」だといったことを報じていた。5月29日『朝日』夕刊がその辺の具体的なイキサツを紹介している。

 ≪スピード水着 世界を揺らす≫

 <(写真「asahi.com」記事から/調子が上がらないマナドゥ。北京では巻き返しなるか?=AP)

 世界新を連発する英スピード社製水着の登場で、世界のスイマーと各国の水泳連盟が揺れている。水着を国内3社に限ってきた日本水連は、スピード社製を試した選手の意見を聞いたうえで6月10日に最終結論を出す方針だ。プロ選手が増え始めた競泳界の道具選択は、サッカーなどのように選手の希望を優先する流れになりつつある。(由利英明)

 選手、希望優先の流れ

 スピード社と契約する米国水連は選手のプロ化が進んだことを考慮し、水着選択は個人契約を尊重する。スピード社と契約するオーストラリア水連も基本的には自由。他社製ならブランド名を隠すように指導している。

 07年世界選手権男子100メートル自由形王者で、イタリア水連が契約する伊アリーナ社製を着ることになっているマニーニは「連盟は選手に無理強いできない」と、スピード社製着用を辞さない構えだ。ドイツ水連は09年まで4年400万ユーロ(約6億6千万円)で独アディダス社と契約を結び、スピード社製着用を禁止している。選手の不安や不満を和らげるため心理学者を雇ったものの、全選手が連盟に従うかは不透明だ。

 メーカーと個人契約を結ぶプロ選手たちも、1社にとらわれない選択をしつつある。AP通信によると、アリーナ社と契約する南アフリカの主将、ザンドバーグは「五輪でスピード社製を着る。違約金は3千ユーロ(約49万円)だが、3千ユーロが何だと言うんだ

 もと男子100メートル自由形世界記録保持者、ファンデンホーヘンバント(オランダ)は07年世界選手権で米ナイキ社との個人契に違反しながら、スピード社製を着用。ナイキ社との契約は続いているが、五輪で再びスピード社製を選ぶ可能性を示唆する。

 アテネ五輪女子400メートル自由形金メダルで、アリーナ社と契約するロール・マナドゥ(仏)はフランス選手権で3位に終わり・「アリーナの最新水着を待つ、としか言えない」と泣いた。

 アディダス社 開発に参戦

 アディダス社のハイナー最高責任者は28日、「われわれも最も機能的で革新的な技術で勝負する自信がある。五輪が楽しみ」と述べ、新型水着の開発を行っていることを明らかにした。アディダス社は「テックフィット」と呼ばれる独自技術で筋肉を適度に締め付け、血液循環を促して体の動きを補助するハイテク素材を使用した新型水着を開発。研究チーム担当者は「締め付けの強度は最新水着で最も高い」と説明し、スタートタイムで2・8%、ターンで3・8%短縮される研究結果を示した。(共同)>――――

 5月29日の「asahi.com」記事。
 ≪柴田亜衣はデサント製水着 「着用」明言≫
 <水泳のアテネ五輪女子800メートル自由形金メダルの柴田亜衣(チームアリーナ)は29日、東京都内の北京五輪代表合宿で「(五輪はデサント社製の)アリーナの水着で泳ぎます」と明言した。
 柴田はデサント所属。改良水着の試作品をいくつか試し、自分の感覚と合うものがあったという。世界新を連発する英スピード社の水着については「長い距離を泳ぐので、体を締め付ける水着は合わない」と話した。
 またスピード社製水着を着て4月の代表選考会で男子100メートルバタフライの代表に選ばれた岸田真幸(アクラブ調布)は日本水連の決定に従うとしながら「今のところ(スピード社製水着の)レーザー・レーサーが一番速いのはわかっている」と五輪での着用を希望した。 >――――
 「水着を国内3社に限ってきた日本水連」は回答期限を5月30日にその3社であるミズノ、デサント、アシックスに現在以上のスピードが期待できる水着改良を要望し、3社は記者会見を開いて改良水着のプレゼンスを行っている。

 その模様を5月31日のサンスポ記事≪スピード製仕様できた!国内3社が改良型水着発表≫から。

 <スピードの水着にそっくり――。英スピード社製の「レーザー・レーサー(LZR)」を着用した外国人選手が世界新記録を連発したことを受けて、日本水連と北京五輪での水着提供契約を結ぶミズノ、デサント、アシックスの国内3社が30日、改良版を水連に提示した。いずれもスピード製と同じ素材やコンセプトを取り入れた“類似品”を完成させた。

 なりふり構ってはいられない。国内3社がスピード製の“類似品”を作り上げた。体を強く締め付けるなど、LZRの特徴を意識した改良品がズラリ。

 ミズノの開発担当者は「結論を言えば(LZRと)同じようなコンセプト」と認めた。世界最速の魚類にヒントを得た“カジキ水着”を開発していたが方向転換。これまでは親水性と動きやすさがウリ。それが一転して、撥水(はっすい)性と締め付けを重視した。

 素材の半分を取り換えた。個人契約を結ぶ男子平泳ぎの北島康介(日本コカ・コーラ)とも意見交換したという。実験では入水から15メートルのタイムが「LZRと同等」と胸を張った。

 女子自由形の柴田亜衣(チームアリーナ)が社員のデサントの改良品は、色やデザインまで酷似していた。ポリウレタンパネルを使う発想はうり二つ。開発担当者は「LZRの優位性を分析し、自社のものに展開した」と説明する。

 女子背泳ぎの中村礼子(東京SC)が着るアシックスは脚部の締め付けを約3倍に強化した2タイプを提示。「当社のオリジナル。以前から開発を進めていた」と開発担当者は強調したが、これもLZRと似ている。

 プライドを捨てた3社の改良品に、日本代表・上野広治監督は「想像以上でした。よくぞ、この短期間で対応できたと思う」と満足そうな表情を浮かべた。31日の朝練習からさっそく、代表選手が試着を始める。果たして選手の反応は? スピード製の着用可否は6月10日に決定される。 (浅井武)>――――

 以上のイキサツを我流解読すると、日本水連が「水着を国内3社に限ってきた」のは伝統精神としている一国主義・日本民族優越主義をベースとした外国製品排斥、国産品優先の固定観念姿勢が決定要因となった選択であって、その国内主義の歴史・伝統・文化に寄り添い続けるために3社に改良水着の開発を依頼することとなった。日本人の頭脳はどこの国の人間にも増して優秀なのだから、英スピード社製水着を上まわる水着が開発できないはずはない。

 尤も日本人が頭脳優秀であるという信念が例え事実であるとしても、人間は人種・国籍に関係なしに一方では無節操な生きものにできている。利害の生きものであることから、利害に負けて背に腹は代ええられないとばかりに無節操を演じる。

 その結果、日本人の頭脳は優秀である、モノづくりの才能にかけては世界に冠たるものがあるとその優秀さを掲げながら、「なりふり構ってはいられない」「いずれもスピード製と同じ素材やコンセプトを取り入れた“類似品”を完成させ」る利害損得・欲得計算の無節操を演じることとなった。

 もしも国内3社の改良水着がスピード社製の性能に劣るという、日本人頭脳優秀性を裏切る一種のカタストロフィを迎えることとなったなら、さらに記録獲得という利害損得・欲得計算を優先させて契約なんか「何だと言うんだ」の反撥が爆発して、個人契約に縛られていない選手は「国内3社」の規定を破って英スピード社製水着に走ることになるのだろう。

 個人契約選手の中からも記録がすべてとばかりに清水の舞台ならぬ、他社製品使用禁止規定の飛び込み台から飛び降りる選手が出現する可能性も否定できない。

 好記録は水着の性能が決定する。水泳競技が0.01秒を争う世界だからこそ、水着の性能に依存することになるのだろう。だが、この水着依存が逆に人間の利害損得・欲得計算を刺激して、無節操に向かわせ、日本民族優越といったプライドを見せ掛けのものとし、日本人にしても単なる俗な生きものでしかない正体を曝すこととなっている。 

 それが正直な人間の姿だとして利害損得・欲得計算の無節操あるいは俗性のあからさまな露出をこのまま許すのか、それとも利害損得・欲得計算の無節操とは無縁の人間のあるべき姿だと思い描いた理想の人間像を日本人の姿だと固定観念し、そこに踏みとどまるのか、自覚的な選択を行うべきだろう。

 後者の姿こそが日本民族優越意識を許している思い込みであろう。日本民族優越意識からの脱却を願うなら、今回の水着騒動は歓迎すべき展開だが、自分たちが曝している姿が暗黙的に意識化させている日本民族優越性と乖離していることを自覚できているかどうかが問題となる。「乖離」の自覚のために自覚的選択が必要となるのである。

 もし3社の改良水着の性能がスピード社製よりも優れているという結果を得たなら、その技術に助けられて利害損得・欲得計算の無節操あるいは俗性を内側に巧妙にしまい込んで日本民族優越意識を維持可能にするに違いない。

 いわばこれまでの利害損得・欲得計算の無節操な騒動などケロッと忘れて、日本の技術を誇り、日本人の優秀性を何らかの形で謳い上げることになるだろう。

 だが、現実には水着の性能によって表現されることとなるモノづくりの優秀さは保証されたとしても、その優秀さが競泳選手のナマの才能、ナマの実力を曖昧にすることとなる。選手たちの才能や実力の戦いではなく、水着の性能の戦いへと変質させたのだから。それは競技の不純化を意味する。

 逆にスピード社製よりも性能が劣るということになったなら、日本水連の「水着を国内3社に限ってきた」た暗黙的な日本人優越性は打ち砕かれることとなる。水連はそのときの責任をどう果たすのだろうか。「水着を国内3社に限」らず、国産品、外国製品に限定せずにその時々の最も優秀な水着を着用するとしていたなら、こういった利害損得・欲得計算の無節操な騒動は曝さずに済んだだろう。民族優越性意識の相対化であり、そういった姿勢こそが必要だった。

 もしも競技の不純化を免れ、利害損得・欲得計算の無節操あるいは俗性から離れていたいなら、あるいは水着の性能に頼らない、本人のナマの個人性(=才能と努力と体力)のみに頼った記録を真の記録とするなら、水着を脱ぎ捨て、裸で泳ぐしかない。

 スケベーな私としたら、特に女子競技に限って一番望む理想の光景なのだが、不可能な話であって、スポーツ選手が運動用具会社と専属契約してその会社の用具を使用するのも、用具の品質だけではなく利害損得・欲得計算のカネが絡んだ話でもあって、それが人間の現実の姿だと自覚し、時と場合に応じて別の利害損得・欲得計算を働かせるのも選手個人の判断に任せるべきではないだろうか。所詮民族の優越性など幻想・思い込みに過ぎないのだから。

 幻想・思い込みでしかない日本民族優越性からの脱却である。

 このままの騒動が続くと、北京オリンピックでは水泳で金メダルを取った選手の何人はどこの会社の水着を使用といった統計まで記録報道に付け加えられるような気がする。そうなったなら、今回の水着狂騒劇は北京オリンピック水泳競技終了も暫くの間続くことになる。水着の性能に振りまわされることになる、なかなか面白いおまけつきの人間劇だと見れば、愉しみが一つ増えることにもなるが。

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