■源氏物語に描かれた宇治
宇治。ここは今も昔も京都の離れの間という静寂と宇治川の流れに常に新鮮な風情です。
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平等院。この響きとともに美しい伽藍の様相は我が国ならば手元に在ります十円玉の硬貨その表面に美しく彫像されています。昭和二十六年、現在の十円硬貨はこの1951年より鋳造が始り翌年から発行がはじまりました。当時はかけそば17円にコーヒー30円の時代だ。
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宇治市宇治蓮華に広がります平等院は、日本を代表する情景であると共にいまや、ユネスコ世界遺産古都京都の文化財に列せられています。その創建は永承7年こと西暦1052年まで遡ります、開基は藤原頼通でかの藤原道長実子、別荘を寺院へと改めた経緯があります。
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開山に明尊を迎え、本尊に阿弥陀如来坐像を安置しています。美しい伽藍の鳳凰堂は国宝に指定されておりまして、国宝は阿弥陀如来坐像ほか数多上ります。さてさて、現在の十円硬貨が発行された時代は大卒公務員初任給6500円の時代ですが平等院の時代は更に遡る。
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源氏物語の宇治十帖。宇治市は京都駅から快速電車で19分という立地ですが、平安朝の時代からここ宇治市は牛車で貴人が避暑に往復する景勝地でもあり、ここ宇治の地、古典文学草創期の源氏物語にも描かれています。この光源氏のモデルもここを避暑地としていた。
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源融。光源氏のモデルと考えられる嵯峨天皇の皇子源融が、ここを別荘としていたのですね。嵯峨源氏融流初代。河原院や河原大臣と呼ばれていまして本宅は今の河原町通り界隈にありました。源融は嵯峨源氏の初代、そして稀代の趣味人で風流人でもあった、という。
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源融は小倉百人一首では河原左大臣、嘉祥年間の西暦850年、文徳天皇の即位とともに右衛門督に任ぜら武官を務めています。その際に鎮守府の置かれた陸奥国塩釜に赴任しており、塩釜を再現した庭園、六条河原院を造営、此処は現在東本願寺渉成園となっています。
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朱雀天皇、醍醐天皇の第十一皇子が延長年間の西暦930年に即位し朱雀天皇の治世下となりますと、病弱であるとともに当時国内情勢が非常に緊張状態にあり、その心労が多かった最中に別荘は嵯峨源氏から朝廷へ献上され、朱雀天皇の離宮宇治院が造営されました。
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朱雀天皇治世下は大変な事が多かった。先ず承平5年の西暦935年、平将門が乱を起こします。いきなり誰でも知っている非常事態ですが、翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こし、承平天慶の乱です。朱雀帝は952年に出家し仁和寺に上りますが齢30で崩御する。
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源重信。宇治院は再度嵯峨源氏へ下賜されました。源重信は六条左大臣といい、正暦2年の西暦991年、右大臣に任ぜられています。大鏡によれば愛嬌と人見知りしない社交的な気風の持ち主故にかの村上天皇から重用され、また父敦実親王影響から音楽に秀でていた。
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源重信の父敦実親王は出家し仁和寺を住処としていまして、修理大夫を兼ねていました源重信は仁和寺への往路に内裏の東大宮大路と一条大路、復路は西大宮大路と二条大路を往き内裏の周囲を破損場所があれば修理し巡ったといい、その人徳はたかかったようです。
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摂政藤原道長の別荘宇治殿となりましたのは長徳4年の西暦998年の事でした。源重信は貞元3年の西暦978年に大納言に昇りますと長く大納言に留まる事となりますが、当時洛中火災に度々邸宅を焼かれた藤原道長を気遣い、気分転換にと洛中を離れた当地を譲った。
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藤原道長の子、関白藤原頼通は宇治殿を受け継いだのですが、永承7年こと西暦1052年、末法の世が到来したと考えられるようになった世相をうけ、この宇治殿を別荘から寺院に改める事を決意しまして、ここに今日に続きます“平等院”が創建される事となりました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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宇治。ここは今も昔も京都の離れの間という静寂と宇治川の流れに常に新鮮な風情です。
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平等院。この響きとともに美しい伽藍の様相は我が国ならば手元に在ります十円玉の硬貨その表面に美しく彫像されています。昭和二十六年、現在の十円硬貨はこの1951年より鋳造が始り翌年から発行がはじまりました。当時はかけそば17円にコーヒー30円の時代だ。
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宇治市宇治蓮華に広がります平等院は、日本を代表する情景であると共にいまや、ユネスコ世界遺産古都京都の文化財に列せられています。その創建は永承7年こと西暦1052年まで遡ります、開基は藤原頼通でかの藤原道長実子、別荘を寺院へと改めた経緯があります。
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開山に明尊を迎え、本尊に阿弥陀如来坐像を安置しています。美しい伽藍の鳳凰堂は国宝に指定されておりまして、国宝は阿弥陀如来坐像ほか数多上ります。さてさて、現在の十円硬貨が発行された時代は大卒公務員初任給6500円の時代ですが平等院の時代は更に遡る。
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源氏物語の宇治十帖。宇治市は京都駅から快速電車で19分という立地ですが、平安朝の時代からここ宇治市は牛車で貴人が避暑に往復する景勝地でもあり、ここ宇治の地、古典文学草創期の源氏物語にも描かれています。この光源氏のモデルもここを避暑地としていた。
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源融。光源氏のモデルと考えられる嵯峨天皇の皇子源融が、ここを別荘としていたのですね。嵯峨源氏融流初代。河原院や河原大臣と呼ばれていまして本宅は今の河原町通り界隈にありました。源融は嵯峨源氏の初代、そして稀代の趣味人で風流人でもあった、という。
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源融は小倉百人一首では河原左大臣、嘉祥年間の西暦850年、文徳天皇の即位とともに右衛門督に任ぜら武官を務めています。その際に鎮守府の置かれた陸奥国塩釜に赴任しており、塩釜を再現した庭園、六条河原院を造営、此処は現在東本願寺渉成園となっています。
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源重信。宇治院は再度嵯峨源氏へ下賜されました。源重信は六条左大臣といい、正暦2年の西暦991年、右大臣に任ぜられています。大鏡によれば愛嬌と人見知りしない社交的な気風の持ち主故にかの村上天皇から重用され、また父敦実親王影響から音楽に秀でていた。
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源重信の父敦実親王は出家し仁和寺を住処としていまして、修理大夫を兼ねていました源重信は仁和寺への往路に内裏の東大宮大路と一条大路、復路は西大宮大路と二条大路を往き内裏の周囲を破損場所があれば修理し巡ったといい、その人徳はたかかったようです。
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摂政藤原道長の別荘宇治殿となりましたのは長徳4年の西暦998年の事でした。源重信は貞元3年の西暦978年に大納言に昇りますと長く大納言に留まる事となりますが、当時洛中火災に度々邸宅を焼かれた藤原道長を気遣い、気分転換にと洛中を離れた当地を譲った。
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藤原道長の子、関白藤原頼通は宇治殿を受け継いだのですが、永承7年こと西暦1052年、末法の世が到来したと考えられるようになった世相をうけ、この宇治殿を別荘から寺院に改める事を決意しまして、ここに今日に続きます“平等院”が創建される事となりました。
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