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【京都発幕間旅情】犬山城,決戦の関ヶ原と天下分け目の会戦巡る万華鏡の如き複雑怪奇

2024-07-03 20:20:29 | 旅行記
■犬山城の歴史
 犬山城も城郭でありその歴史は戦いの歴史でした。

 犬山城の歴史を紐解きますと大きな戦乱というのは小牧長久手の戦いが挙げられる、これは清須会議、本能寺の変を経て次の盟主を選定した際の、事実上羽柴秀吉の傀儡となってしまった織田信長の次男織田信雄と羽柴秀吉との摩擦が遠因となっています。

 羽柴秀吉は先手を打って配下の蒲生氏郷に伊勢侵攻を命じ、信雄の家臣佐久間信栄がまもる峯城で攻城戦に発展、この際に織田信雄は犬山城の城主中川定成に伊勢救援を命じ、犬山城が戦力空白地帯となった事から、秀吉は次の一手を打ったことで事態急変へ。

 池田恒興、池田氏といえば姫路城ですけれどもこの時は大垣城主、秀吉は池田恒興に犬山侵攻を命じたのでした。いや歴史紐解けば池田恒興は犬山城を居城としていた時代がありまして、城郭の弱点構造を熟知している、それは後堅固という構造にありました。

 木曽川を挟んだ隣には鵜沼城が、当時すでに破却されたものの遺構がのこっていまして、狭隘地形ではあるものの戦いの時期が三月の渇水期であり、木曽川には砂州が形成されていた、池田恒興はこの砂州へ舟艇10隻を準備して夜間渡河を強行したのですね。

 天正12年こと1584年、織田信長の没後二年にして美濃と尾張の境界線は戦乱の地となったのですが、伊勢出兵中の中川定成は叔父の中川清蔵主を留守居役に置いていたものの、兵力不十分となり落城します。ただ、織田信雄と羽柴秀吉はのちに和睦している。

 犬山城は木曽川渡河点にあり、小牧長久手の戦いとして羽柴秀吉と徳川家康の全面衝突の懸念が生じた際には戦略要衝となりました、が、逆にやや南の小牧城を確保していた家康は巧みな戦術機動と行動秘匿に成功し、決戦へ持ち込むことに成功していまして。

 小牧長久手の戦いは小牧城に籠城している家康を決戦に誘引しようと秀吉が家康の根拠地駿河侵攻を開始した時点で既に家康が先んじて主力を有利な地形に小牧城から陣地変換し攻撃したことで秀吉の決戦兵力撃破に成功、膠着状態のまま痛み分けとなる。

 織田信雄と羽柴秀吉の和睦はその後なのですが、時代的には現存する天守閣はまさにこの時から、防衛強化の一環として造営を開始していたという時期的に一致するのです。そしてこの城郭は、関ケ原の戦いまで安寧の時間を過ごすことになるのですが。

 関ケ原の戦いでは、清須城主福島正則は東軍に、しかし岐阜城の織田秀信が西軍となり、当時の犬山城主石川定清は西軍につくこととなり、清須は、駅の位置を見ても判りますが、危険な突出部に取り残されることとなりました。織田秀信は犬山へ増援を送る。

 西軍は郡上八幡城主稲葉貞道と美濃黒野城主加藤貞泰そして美濃菩提山城主竹中重門らに犬山城防衛の増援を命じ7700名が籠城の準備を進めますが、逆に岐阜城が手薄となり福島正則は岐阜城攻めを敢行、この際に織田秀信は籠城せず野戦に打って出て負け。

 岐阜城落城とともに犬山城に詰めていた稲葉貞道と加藤貞泰そして竹中重門は、隠密裏に家康の家臣井伊直政や本田忠勝を通じて恭順の意思を表明、関ケ原の戦いその12日前に犬山城は開城する事となりました。あまりもの突然の情勢変化と言える。

 犬山城はこののち平穏な時代を過ごしている、いや、実のところこの急激な変化というものは指揮系統が不明確な時代故の関ケ原の戦い、小早川秀秋の行動を予見するような流れだとも思えるのですが、今も生きる城郭は何も語らず、生き証人として健在です。

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