北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】犬山城,決戦の関ヶ原と天下分け目の会戦巡る万華鏡の如き複雑怪奇

2024-07-03 20:20:29 | 旅行記
■犬山城の歴史
 犬山城も城郭でありその歴史は戦いの歴史でした。

 犬山城の歴史を紐解きますと大きな戦乱というのは小牧長久手の戦いが挙げられる、これは清須会議、本能寺の変を経て次の盟主を選定した際の、事実上羽柴秀吉の傀儡となってしまった織田信長の次男織田信雄と羽柴秀吉との摩擦が遠因となっています。

 羽柴秀吉は先手を打って配下の蒲生氏郷に伊勢侵攻を命じ、信雄の家臣佐久間信栄がまもる峯城で攻城戦に発展、この際に織田信雄は犬山城の城主中川定成に伊勢救援を命じ、犬山城が戦力空白地帯となった事から、秀吉は次の一手を打ったことで事態急変へ。

 池田恒興、池田氏といえば姫路城ですけれどもこの時は大垣城主、秀吉は池田恒興に犬山侵攻を命じたのでした。いや歴史紐解けば池田恒興は犬山城を居城としていた時代がありまして、城郭の弱点構造を熟知している、それは後堅固という構造にありました。

 木曽川を挟んだ隣には鵜沼城が、当時すでに破却されたものの遺構がのこっていまして、狭隘地形ではあるものの戦いの時期が三月の渇水期であり、木曽川には砂州が形成されていた、池田恒興はこの砂州へ舟艇10隻を準備して夜間渡河を強行したのですね。

 天正12年こと1584年、織田信長の没後二年にして美濃と尾張の境界線は戦乱の地となったのですが、伊勢出兵中の中川定成は叔父の中川清蔵主を留守居役に置いていたものの、兵力不十分となり落城します。ただ、織田信雄と羽柴秀吉はのちに和睦している。

 犬山城は木曽川渡河点にあり、小牧長久手の戦いとして羽柴秀吉と徳川家康の全面衝突の懸念が生じた際には戦略要衝となりました、が、逆にやや南の小牧城を確保していた家康は巧みな戦術機動と行動秘匿に成功し、決戦へ持ち込むことに成功していまして。

 小牧長久手の戦いは小牧城に籠城している家康を決戦に誘引しようと秀吉が家康の根拠地駿河侵攻を開始した時点で既に家康が先んじて主力を有利な地形に小牧城から陣地変換し攻撃したことで秀吉の決戦兵力撃破に成功、膠着状態のまま痛み分けとなる。

 織田信雄と羽柴秀吉の和睦はその後なのですが、時代的には現存する天守閣はまさにこの時から、防衛強化の一環として造営を開始していたという時期的に一致するのです。そしてこの城郭は、関ケ原の戦いまで安寧の時間を過ごすことになるのですが。

 関ケ原の戦いでは、清須城主福島正則は東軍に、しかし岐阜城の織田秀信が西軍となり、当時の犬山城主石川定清は西軍につくこととなり、清須は、駅の位置を見ても判りますが、危険な突出部に取り残されることとなりました。織田秀信は犬山へ増援を送る。

 西軍は郡上八幡城主稲葉貞道と美濃黒野城主加藤貞泰そして美濃菩提山城主竹中重門らに犬山城防衛の増援を命じ7700名が籠城の準備を進めますが、逆に岐阜城が手薄となり福島正則は岐阜城攻めを敢行、この際に織田秀信は籠城せず野戦に打って出て負け。

 岐阜城落城とともに犬山城に詰めていた稲葉貞道と加藤貞泰そして竹中重門は、隠密裏に家康の家臣井伊直政や本田忠勝を通じて恭順の意思を表明、関ケ原の戦いその12日前に犬山城は開城する事となりました。あまりもの突然の情勢変化と言える。

 犬山城はこののち平穏な時代を過ごしている、いや、実のところこの急激な変化というものは指揮系統が不明確な時代故の関ケ原の戦い、小早川秀秋の行動を予見するような流れだとも思えるのですが、今も生きる城郭は何も語らず、生き証人として健在です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都発幕間旅情】犬山城,豊臣秀吉が羽柴秀吉だったころ木曽の畔に優美な城郭が造られ始めた

2024-07-03 20:00:21 | 旅行記
■信長の野望と戦の城塞
 犬山城の天守閣へといよいよ歩みを進めます。

 城郭の天守閣は戦艦の艦橋のようだ、とよく例えられるところでして実際に唐破風と多層の屋根などの構造物は、戦艦の艦橋構造物、複雑な形状ではあるけれども一つ一つに意味がある構造物、という点で不思議と一致します、戦闘用という点でもやはり同じ。

 戦艦の艦橋、こう例えるのですけれどもそれならば金剛型戦艦一つとって金剛に比叡と榛名に霧島、艦橋構造物の形状は細部が全く異なる訳です、そしてこれは開戦後竣工し終戦前に空母12隻の艦載機を相手に沈んだ戦艦大和でさえも、艦橋は変化があった。

 艦橋構造物と城郭天守閣、艦橋は電探なり機銃増設なり見張り台なり指揮所なり改修が加えられるのですが、そう、犬山城も唐破風など、見た目を優美に、という壊走が行われるようになったのは江戸時代に入って、成瀬氏が城主となった時代のことではある。

 攻城戦、犬山城は優美ではあるのですが相応に実戦を重ねています。いや実は天守閣造営の時期は判別されているのですが、ここに城郭を造営されて後ずいぶん経ってから天守閣が造営されているわけでして、史実を見ますと前後する、その実戦を見てみよう。

 永禄年間の戦い、記録されている限り犬山城が築城の後に最初に実戦に投入されたのは永禄8年こと西暦1565年のことで、此処を攻めたのは尾張の英雄、小学生でも知っている、アニメにもよく出てくる、異世界にも最近行く、あの、織田信長でありまして。

 信長の野望、が始まる少し前なのですが当時の犬山城主は織田信清、実父織田信康が犬山城主であったために世襲として城主を継いだのですが、織田信長の岩倉城攻めが成功しますと、岩倉、名鉄岩倉駅が犬山駅から15分くらいのところに在って友人も家建てた。

 岩倉城攻めが成功しますと、この際の領地分配をめぐり織田信清は信長と対立、ここに永禄年間犬山城攻城戦が始まります。この戦いは信長から見ますと実は従兄弟とのたたじゃうであるのですが、この際に信清は美濃の斎藤氏を頼るものの呆気なく落城へ。

 斎藤氏と織田氏の対立の萌芽はもう少し前なのですが、この際の犬山城攻めは資料が残っておらず、特に城郭がどのような構造となっていたのかも不明です、ただ同時、三光寺山という、岐阜県へもう少し下流に橋梁が掛かっている当たりに廓があったとも。

 三光寺山は、こここそがもともとの犬山城ともいわれるのですが、天守閣から木曽川を望みますと、確かにここを抑えなければ美濃と尾張の境界線であり、隠密裏に美濃から渡河された場合には三光寺山は死角となるため、先制確保する必要がある地形という。

 織田信長の時代はこうした一度の戦いこそありましたが、そののちに犬山城は平穏無事、まあ城主は大変であったことは理解するものの庶民農民市民には安泰な時代と言えるのかもしれません、このあたりが騒がしくなりますのは豊臣秀吉の時代なのですから。

 豊臣秀吉が羽柴秀吉だったころ、と書き出すと仮面の忍者赤影のような響きになってしまうのですが、このころ急速に勢力を増す秀吉と、既に本能寺に散った織田信長の生前からの盟友、徳川家康との対立が先鋭化し、犬山城も俄かに慌ただしくなってゆく。

 賤ケ岳の戦い、これはお隣滋賀県は近江の湖北の戦いですが、織田信雄、織田信長の次男が尾張と伊勢に伊賀を継ぐこととなりまして、この際に犬山城は再び戦乱の時代にあって、木曽川河畔において美濃ににらみを利かせる戦略上の要衝となってゆきます。

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日仏共同訓練&日独西共同訓練,航空自衛隊は欧州各国戦闘機部隊との日本での訓練を実施

2024-07-03 07:05:53 | 防衛・安全保障
■千歳基地と百里基地
 オーストラリア空軍とイタリア空軍が相次ぎ小松基地に飛来してからまもなく一年ですが欧州各国との訓練は次の段階へ。

 航空自衛隊は欧州各国戦闘機部隊との日本での訓練を実施します。これはドイツ、フランス、スペインの空軍機がインド太平洋地域へ展開することを受けての欧州各国との防衛協力強化の一環として行われます。特に今回の防衛協力は、史上初めてスペイン空軍が日本へ戦闘機を展開させるという点で、欧州との防衛協力強化の象徴的一歩です。

 ラファール戦闘機とユーロファイター戦闘機が日本へ展開する事となり、ラファール戦闘機は昨年以来、ユーロファイター戦闘機は一昨年のドイツ空軍機訪日以来となります。このほか、現在日本へ親善訪問を行うべくイタリア海軍の空母カブールが日本に向け航行中であり、昨年のF-35A戦闘機来日に続いて今夏にはF-35Bが来日するわけです。■

 ドイツ空軍とスペイン空軍の訪日について。両国空軍は北海道の航空自衛隊千歳基地へ展開予定であり、両国航空機は7月18日から21日にかけ予定されています。千歳基地に展開するのはユーロファイター戦闘機12機、エアバスA-400M輸送機5機、A-330MRTT空中給油輸送機4機、A-321輸送機1機、一部は26日まで共同訓練を行います。

 ユーロファイター戦闘機12機のうちドイツ空軍機は8機とスペイン空軍機は4機、エアバスA-400M輸送機5機のうちドイツ空軍機は3機とスペイン空軍機は2機、A-330MRTT空中給油輸送機4機は全てドイツ空軍のきたいとなっています。人員はドイツ空軍180名とスペイン空軍150名の330名、航空自衛隊と日独西共同訓練を実施予定です。■

 フランス空軍戦闘機部隊の訪日は7月19日から20日まで、茨城県の航空自衛隊百里基地へ展開予定です。この際、日仏共同訓練を実施予定となっていまして、訓練空域として百里基地と基地周辺空域が設定されているとのこと。なお、昨年の日仏共同訓練は宮崎県の航空自衛隊新田原基地において実施されていました。

 ラファール戦闘機4機、エアバスA-330MRTT空中給油輸送機3機、エアバスA-400M輸送機3機と人員260名が参加します。時期的には千歳基地に独西戦闘機部隊が展開している時期と重なり、エアバスA-400M輸送機だけで8機、ラファールとユーロファイターなど戦闘機16機と、実に戦闘飛行隊に匹敵する規模が展開することとなります。

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