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【京都発幕間旅情】犬山城,豊臣秀吉が羽柴秀吉だったころ木曽の畔に優美な城郭が造られ始めた

2024-07-03 20:00:21 | 旅行記
■信長の野望と戦の城塞
 犬山城の天守閣へといよいよ歩みを進めます。

 城郭の天守閣は戦艦の艦橋のようだ、とよく例えられるところでして実際に唐破風と多層の屋根などの構造物は、戦艦の艦橋構造物、複雑な形状ではあるけれども一つ一つに意味がある構造物、という点で不思議と一致します、戦闘用という点でもやはり同じ。

 戦艦の艦橋、こう例えるのですけれどもそれならば金剛型戦艦一つとって金剛に比叡と榛名に霧島、艦橋構造物の形状は細部が全く異なる訳です、そしてこれは開戦後竣工し終戦前に空母12隻の艦載機を相手に沈んだ戦艦大和でさえも、艦橋は変化があった。

 艦橋構造物と城郭天守閣、艦橋は電探なり機銃増設なり見張り台なり指揮所なり改修が加えられるのですが、そう、犬山城も唐破風など、見た目を優美に、という壊走が行われるようになったのは江戸時代に入って、成瀬氏が城主となった時代のことではある。

 攻城戦、犬山城は優美ではあるのですが相応に実戦を重ねています。いや実は天守閣造営の時期は判別されているのですが、ここに城郭を造営されて後ずいぶん経ってから天守閣が造営されているわけでして、史実を見ますと前後する、その実戦を見てみよう。

 永禄年間の戦い、記録されている限り犬山城が築城の後に最初に実戦に投入されたのは永禄8年こと西暦1565年のことで、此処を攻めたのは尾張の英雄、小学生でも知っている、アニメにもよく出てくる、異世界にも最近行く、あの、織田信長でありまして。

 信長の野望、が始まる少し前なのですが当時の犬山城主は織田信清、実父織田信康が犬山城主であったために世襲として城主を継いだのですが、織田信長の岩倉城攻めが成功しますと、岩倉、名鉄岩倉駅が犬山駅から15分くらいのところに在って友人も家建てた。

 岩倉城攻めが成功しますと、この際の領地分配をめぐり織田信清は信長と対立、ここに永禄年間犬山城攻城戦が始まります。この戦いは信長から見ますと実は従兄弟とのたたじゃうであるのですが、この際に信清は美濃の斎藤氏を頼るものの呆気なく落城へ。

 斎藤氏と織田氏の対立の萌芽はもう少し前なのですが、この際の犬山城攻めは資料が残っておらず、特に城郭がどのような構造となっていたのかも不明です、ただ同時、三光寺山という、岐阜県へもう少し下流に橋梁が掛かっている当たりに廓があったとも。

 三光寺山は、こここそがもともとの犬山城ともいわれるのですが、天守閣から木曽川を望みますと、確かにここを抑えなければ美濃と尾張の境界線であり、隠密裏に美濃から渡河された場合には三光寺山は死角となるため、先制確保する必要がある地形という。

 織田信長の時代はこうした一度の戦いこそありましたが、そののちに犬山城は平穏無事、まあ城主は大変であったことは理解するものの庶民農民市民には安泰な時代と言えるのかもしれません、このあたりが騒がしくなりますのは豊臣秀吉の時代なのですから。

 豊臣秀吉が羽柴秀吉だったころ、と書き出すと仮面の忍者赤影のような響きになってしまうのですが、このころ急速に勢力を増す秀吉と、既に本能寺に散った織田信長の生前からの盟友、徳川家康との対立が先鋭化し、犬山城も俄かに慌ただしくなってゆく。

 賤ケ岳の戦い、これはお隣滋賀県は近江の湖北の戦いですが、織田信雄、織田信長の次男が尾張と伊勢に伊賀を継ぐこととなりまして、この際に犬山城は再び戦乱の時代にあって、木曽川河畔において美濃ににらみを利かせる戦略上の要衝となってゆきます。

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