■祈るだけの平和の先
平和は79年続いているのですが平和を周辺国の平和ではない手段に悪用させる事が当てはいいのかとも思う。
平和を成果として享受するには、相応の防衛力や世界との関係を維持する必要があるのですが、先ずその必要性を、認識が共有できないところから、日本の平和主義、戦後79年の間、平和というよりも、平和を叫ぶ間だけは戦争の事を考えずに済むという免罪符のような状況のまま、気づけば日本周辺情勢が緊迫度を増している状況に陥っているよう。
結果論としてなのですが、防衛、つまり実力で日本本土が戦争に巻き込まれない枠組みを構築する際に大きな問題が生じているのは、手段としての平和主義なのか、結果としての平和主義なのか、わたしの場合は当然のように後者であるべきとかんがえるのですけれども、この部分で先ず国内に議論の乖離と支持の分断が生じている構図です。
NATO,日本で手段としての平和主義に重きを生む方から見ますと、ヨーロッパは全体的に好戦的な国家、と映るのかもしれません。ただ、実際の例えば冷戦後ソ連から独立を果たして更に努力の末NATOに加盟したバルト三国のエストニアやラトビアとリトアニアなどは、自国にNATO戦闘群が駐屯し、しかし必死で戦争回避を試みています。
NATO戦闘群の駐屯とともに、NATO加盟には国家制度改革とNATO水準の制度民主化や装備体系と英語教育体系の普及などが求められ、ソ連の一部として併合されていた国々には変革は簡単ではありませんが、限られた国力も自国だけではロシアが再度ソ連再建を、今ウクライナにしているような、強攻策をとった場合、守り得ない自覚がある。
沖縄では、MV-22オスプレイが吊り下げ空輸の訓練をしていたケシカラン、というような、揚げ足取り的な話題で幾つもヘイトスピーチのような内容や陰謀論さえ絡んで広められている事とは対照的であり、これこそ、手段としての平和主義、結果が平和でなくとも致し方ないという論調と、欧州の、結果として平和が保たれねば意味がない認識との違い。
手段としての平和主義は否定されるべきか、こう問われますと何とも難しい気持ちになるのです、イスラエルの事例がある。イスラエルでは現在挙国一致内閣に参加している超正統派を筆頭としたユダヤ教政党は、自らが祈りにより超自然的な力が働きイスラエルを外敵から守っていると主張し、徴兵制を拒否、イスラエル国防省と対立していて。
イスラエルといえば国民皆兵主義という印象があるのですが、超正統派はじめ宗教者は対象外で、もっとも人口比率が年々、避妊の禁止などにより出生率が高いこともあるのですが高まっていて、この方々も徴兵してくれないと不平等だという世論の分断はあるようですが、祈ることで軍事を用いずとも超自然的な神力で国家を護るという発想が。
神風が吹くぞ、ではないのですが、これは手段としての平和の祈りの力を理解するというよりも、あのイスラエルでさえそうした発想が多数派にはならなくとも国内の少なくない割合を占めているということで、最後の戦争が1973年の第四次中東戦争、いや南レバノン戦争にいまのガザ戦争と繰り返しているイスラエルでさえ、そうした認識があり。
日本の祈るような平和主義についても、私たちが願っているから平和なのです、という認識の層が存在する事を頭から否定しても意味はありません。ただ、日本の場合は、憲法上、精度として手段としての平和主義が明記されており、国土が灰燼に帰した場合でも、国民は耐え忍ぶことで平和を、結果ではなく手段としての平和を維持するという内容で。
防衛政策は、2022年国家防衛戦略に基づく反撃能力整備が政治により明記されたのですが、いったい、有事の際に日本国家はどのような軍事行動、防衛作戦を行いうるかが、現在のところ憲法という制度では不明確であり、反撃能力行使も含めて、軍事機構としての自衛隊がどの程度、同盟国や同志国と軍事合理性に徹した行動が行えるかが不明確です。
ウクライナのクルスク州逆攻撃、昨今ロシアウクライナ戦争は東部四州占領地を広げるロシアが現状での停戦を主張している状況を逆手に、クルスク州とベルゴロド州へ逆攻撃を加え、戦争が新局面を迎えていますが、軍事合理性として、専守防衛を、相手国領土の割譲は求めないが軍事攻撃は必要な範囲で行う、こうした実例を見せつけられている。
軍事合理性、もちろん、平和は重要ですが求めるべきは手段としての平和を用いて灰燼に帰す国土よりも、結果としての平和を求め、あらゆる手段の努力を行い、仮に戦争となった場合でも早期の収束へ全力を投じ結果としての平和を社会から個人までは教授できる枠組みです。その為にすべきことを話し合える、そんな社会が理想なのですが、ね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
平和は79年続いているのですが平和を周辺国の平和ではない手段に悪用させる事が当てはいいのかとも思う。
平和を成果として享受するには、相応の防衛力や世界との関係を維持する必要があるのですが、先ずその必要性を、認識が共有できないところから、日本の平和主義、戦後79年の間、平和というよりも、平和を叫ぶ間だけは戦争の事を考えずに済むという免罪符のような状況のまま、気づけば日本周辺情勢が緊迫度を増している状況に陥っているよう。
結果論としてなのですが、防衛、つまり実力で日本本土が戦争に巻き込まれない枠組みを構築する際に大きな問題が生じているのは、手段としての平和主義なのか、結果としての平和主義なのか、わたしの場合は当然のように後者であるべきとかんがえるのですけれども、この部分で先ず国内に議論の乖離と支持の分断が生じている構図です。
NATO,日本で手段としての平和主義に重きを生む方から見ますと、ヨーロッパは全体的に好戦的な国家、と映るのかもしれません。ただ、実際の例えば冷戦後ソ連から独立を果たして更に努力の末NATOに加盟したバルト三国のエストニアやラトビアとリトアニアなどは、自国にNATO戦闘群が駐屯し、しかし必死で戦争回避を試みています。
NATO戦闘群の駐屯とともに、NATO加盟には国家制度改革とNATO水準の制度民主化や装備体系と英語教育体系の普及などが求められ、ソ連の一部として併合されていた国々には変革は簡単ではありませんが、限られた国力も自国だけではロシアが再度ソ連再建を、今ウクライナにしているような、強攻策をとった場合、守り得ない自覚がある。
沖縄では、MV-22オスプレイが吊り下げ空輸の訓練をしていたケシカラン、というような、揚げ足取り的な話題で幾つもヘイトスピーチのような内容や陰謀論さえ絡んで広められている事とは対照的であり、これこそ、手段としての平和主義、結果が平和でなくとも致し方ないという論調と、欧州の、結果として平和が保たれねば意味がない認識との違い。
手段としての平和主義は否定されるべきか、こう問われますと何とも難しい気持ちになるのです、イスラエルの事例がある。イスラエルでは現在挙国一致内閣に参加している超正統派を筆頭としたユダヤ教政党は、自らが祈りにより超自然的な力が働きイスラエルを外敵から守っていると主張し、徴兵制を拒否、イスラエル国防省と対立していて。
イスラエルといえば国民皆兵主義という印象があるのですが、超正統派はじめ宗教者は対象外で、もっとも人口比率が年々、避妊の禁止などにより出生率が高いこともあるのですが高まっていて、この方々も徴兵してくれないと不平等だという世論の分断はあるようですが、祈ることで軍事を用いずとも超自然的な神力で国家を護るという発想が。
神風が吹くぞ、ではないのですが、これは手段としての平和の祈りの力を理解するというよりも、あのイスラエルでさえそうした発想が多数派にはならなくとも国内の少なくない割合を占めているということで、最後の戦争が1973年の第四次中東戦争、いや南レバノン戦争にいまのガザ戦争と繰り返しているイスラエルでさえ、そうした認識があり。
日本の祈るような平和主義についても、私たちが願っているから平和なのです、という認識の層が存在する事を頭から否定しても意味はありません。ただ、日本の場合は、憲法上、精度として手段としての平和主義が明記されており、国土が灰燼に帰した場合でも、国民は耐え忍ぶことで平和を、結果ではなく手段としての平和を維持するという内容で。
防衛政策は、2022年国家防衛戦略に基づく反撃能力整備が政治により明記されたのですが、いったい、有事の際に日本国家はどのような軍事行動、防衛作戦を行いうるかが、現在のところ憲法という制度では不明確であり、反撃能力行使も含めて、軍事機構としての自衛隊がどの程度、同盟国や同志国と軍事合理性に徹した行動が行えるかが不明確です。
ウクライナのクルスク州逆攻撃、昨今ロシアウクライナ戦争は東部四州占領地を広げるロシアが現状での停戦を主張している状況を逆手に、クルスク州とベルゴロド州へ逆攻撃を加え、戦争が新局面を迎えていますが、軍事合理性として、専守防衛を、相手国領土の割譲は求めないが軍事攻撃は必要な範囲で行う、こうした実例を見せつけられている。
軍事合理性、もちろん、平和は重要ですが求めるべきは手段としての平和を用いて灰燼に帰す国土よりも、結果としての平和を求め、あらゆる手段の努力を行い、仮に戦争となった場合でも早期の収束へ全力を投じ結果としての平和を社会から個人までは教授できる枠組みです。その為にすべきことを話し合える、そんな社会が理想なのですが、ね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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