森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

3月4日

2007-03-05 00:39:04 | 家族スナップ
 「風林火山」の感想を書こうかなと思って、パソコンの前に座ったのだけれど、なんとなくその後見た「華麗なる一族」のインパクトの強さに、なんだか、感想なんかも薄らいでしまったみたいだ。

 とにかく思うことは、子供を敵に回すような育て方をしてはいけないということだ。父と子供の力関係は、数学のグラフで表せるようなイメージがある。どんなグラフになるかは、人それぞれだかもしれないが、大概の場合はいつか必ず逆転する力関係だ。力はある時まで、親から子供に流れていく。庇護する力も、愛する力も、また理不尽に支配する力もだ。
だが、ある時、それは平均化し、そして流れは逆転していく。自分が注いでしまったものが、やがて自分の方に流れてくる。・・なんてことを考えていた今日の夜。

 ところで、前に妹が言った。
「私はおばあちゃんの命日を覚えているわ。」
「へえ、凄いね。あたしは覚えてなんかいないのに・・・」
「あの人はさぁ、あたしのことなんかな~んにも愛してなんかいなかったのよ。それなのに、あたしの誕生日に死んだのよ。」
「だから、みんなが忘れても、あなたは覚えているのか~。」

私には祖母との思い出がないわけではない。だけど、妹にはあまりないようだ。だから、命日が思い出・・・?だけど、それを聞いてから、私も祖母の命日を覚えているようになった。

もう日付が変わってしまったが、3月4日は妹の誕生日で、祖母の命日だ。

今、タイトルを変えた。本当は「ありがとうよ。」だったのだが。それは、祖母の臨終の言葉だ。やはり、どんなに思いが深い言葉であっても、臨終の言葉をタイトルにするのは、躊躇するものがあった。

祖母の最後は、その波乱の人生の幕引きに相応しかったと思う。昏睡から目覚めた彼女は、部屋に居るみんなを見回して、そして最後に言ったのだった。
「ありがとうよ。」

祖母を知らない私の連れ合いでさえ、その最後の時を語りつくされ知っている。

先に生きる者達は、水が高き所から流れるが如く、注ぐに相応しいものを送っていきたいなんてことを思う。

まったくさぁ、なんて子供達に言われている私には何があるのだろう。面と向かっては言わないが、何があっても揺るがない「愛」だけは、そこにはあるんだよ。・・と、こっそり書いておこう。


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