【その1、物語の感想などを】
12月26日に観てまいりました。
※ ネタバレしています。
確かどっかで「アテネのタイモン」はその時代(シェークスピア)には珍しく、何の教訓めいたことを押し付けていない劇であると言うような言葉を目にしたような気がするのです。
勘違いかも知れません。
だって、あるでしょう、これ、教訓。
特に年末でもある今、一年を振り返って腐女子の婦女子の皆様、あれやこれやの散財の思い出したくないような記憶が蘇りませんでしたか?
一部の終わりにトイレに行った帰りに、(私は通りすがりの人の会話が、良く聞こえる人なのです。)少々若めの女性が二人が話していたのも
「要するに身の丈に合った暮らしが大切だよね。」と言う話。
一部の終わりでは、どうもそこに想いがいってしまいます。
タイモン公よー。
規模は天と地との差はあるけれどもね、これは人間のサガってやつもあるよねと思う。そしてなおかつ、私は知人の旦那の事を思わず思い出してしまったのです。
「旦那の借金がいつの間にか膨れ上がっていて、大変な事になっている。」
「飲む・打つ・買うのどっかに嵌っちゃったってわけ?」
「うん、『飲む』なんだけれどもね、自分じゃなくて人におごってあげるのが好きで、それが止められなくて借金が凄い事になっちゃった。昨日、メチャクチャ叱っちゃった。」
世の中には「気前が良い」と言う欠点を持っている人が確かにいるらしいです。
そして良い時には人はへつらい寄って来るのに、その人が困った状況になるとそっぽを向くと言うのも、悲しい事に世の醜い習いなのでしょうか。
と、流れ的にそのような言葉で繋げたわけですが、シェークスピア的にはごくごく普通の展開のようにしか感じません。シェークスピアの物語には多いですよね。おべんちゃらと真実の言葉。人はなぜか虚言の心地良い言葉を信じようとする。「リア王」とか。
ここまでは意外すぎるほど「フツウ」なんですよね。そのフツウゆえに、物語の流れのみを思うのならばちょっと退屈にも感じるのです。だけれども、ここで鋼太郎さんの演出が生きてきますよね。
この「アテネのタイモン」が、今まであまり日本で上演されてこなかったのは、意外とフツウの展開の「見せ方」が難しかったからかもしれないなと思ったのです。
彼の工夫のある演出は、前半の少し退屈に感じる物語を説得力を持たせ飽きさせないように見せてくれたと思います。
特に始まり方、良かったですよね。
発声練習や動きを練習している団員の方々。そこに鋼太郎さんと竜也さんなどがいつの間にか紛れ込み、そして「よし、やろうか。」の掛け声で、リアルの世界から虚構の世界へと観客も巻き込んでスライドしていったのでした。
バンキシャの特集も見ました。
面白かったけれど・・・「オスカル」発言とかね・・・・
ワルツで始まるとか、最後の晩餐の構図になってるとか・・・・
ああ、出来れば知りたくなかったかも。自分で見つけて「くふっ」って言いたかったな・・・・
と、どうでも良い腹の内はともかくとして、
友だと思っていた者たちの事如くの裏切りに、タイモンはまさにタイモンとしての最後の晩餐を最後の晩餐の構図で開きます。
すさまじい怒りと憎しみ。己の屋敷も燃やしてタイモンは森へと消えるのでした。
森の中で隠遁するタイモンの話になってから、私的好みではありますが、物語はいきなり面白くなっていったように思いました。
タイモンは生きながらにして地獄に落ちたようなもの。
いったい彼が何をしたと言うのでしょうか。たぶんこのような因果応報的な発想は西洋にはないのかも知れません。
彼は何もしていないのに、いやむしろ分け与えて来たと言っていいのでしょう。でもこのような事になってしまった。このお芝居の中では「タイモン公は、きっと我らを試したに違いない。」と言うセリフがたくさん出てくるのですよね。タイモン自身も実は見えない誰かに試されていたのではないでしょうか。
この話、恐ろしいなと思いました。
タイモンはお金が底をついて、すっからかんになってしまった事が彼の悲劇ではなかったのです。
お金になる大量の金を、彼はまた手に入れてしまうのです。
普通だったら、「じゃ諸々解決じゃん。」ってなるじゃないですか。
でも彼の落ちた地獄はそこではなかったのですよね。
お金がなくて乞食のような恰好をして草の根を食べて世を呪っているタイモンではないー。
お金はある。でも世を呪い人間自体を呪って呪い続けてそして死んだ後も呪い続けているー。
呪いの言葉は人々に闇の道を進めと吐きかける。だけど彼の煽りに目を覚まし更生しようとした盗賊を撃ち殺してしまうほど、タイモンの人間への憎しみは深かったのはショックでした。
それでも忠実だったフレヴィアスにはその金を与え、人間の傍で生きるななどと言いながらも、その幸せを願い、アぺマンタスとの絡みでは悪態をつきながら、思い余ってすがって泣くと言うシーンが印象的で、それでもタイモンは憎しみと呪いの穴から抜け出せないのです。どこかに救いはないものなのかー。
でもこの物語には、それがないまま終わってしまうのです。
「アテネのタイモン」は悲劇ではなく「問題劇」と言うジャンルに入るのだそうですね。
そうですよね。
もしもここまで人間に失望し憎しみを感じたら、自分だったらどうだろうかと考えざるを得ないかも知れません。現に、私はある人たちとの人間関係を連想してしまいました。
途中で主人公が居なくなってしまうこの物語の、鋼太郎さんの演出は、ラストに遠くの高台に彼の姿を立たせると言うものでした。その時冬枯れの木立の突き刺すような枝々がちょうどタイモンの頭の所に来て、これは狙ったものなのかと思いました。なぜならそれは人類の罪を背負って処刑されたキリストのいばらの冠のように見えたからなのでした。
私たちの中にタイモンはいるのだ・…なんてことをシェークスピアが思っていたかは知った事ではありませんが、なぜか私にはそう感じました。
もしも憎しみの牢獄に囚われてしまったら、その鍵はかの者を許し我をも許す、それに尽きるのではないかなどと思ってしまったのでした。
ここまで書いて、買ってきたパンフをちょっとだけ読んでみました。
ータイモンは・・・リア王の原型ーと言う言葉を発見。
ああ、やっぱりそうなんだと頷きました。
タイモン役の吉田鋼太郎さんはもちろん良かったです。そして脇を固めた横田栄治さん、藤原竜也さん、柿澤勇人さん、みな素晴らしかったし、役としても良い役だと思いました。忠実な人、言葉は鋭いが真実を見る事が出来る人、勇敢な人、彼らは皆誠実な人でもありました。そして出来るものならばそのように生きたいと思えるような人たちだったなと思いました。
救いのないような物語でも、アぺマンタスとタイモンとの絡みはセリフの内容は鋭い切り合いなのに、唾はきの応酬で笑えましたよね。(顔がベタベタになりそうとか思っちゃった^^)
なんだかんだと痛いシーンは鋼太郎さんの方にだけあったかしら。
手のひらでパチンとか、かりんをパシッとか。
新聞等の劇評でも評判がイイみたいです。
そんな「アテネのタイモン」もさいたまでは29日で終わりですね。
年明け、1月5日から8日まで兵庫県立芸術文化センターにて公演です。